水底のカノン
優しいピアノの音、星屑たちが鍵盤をそうっと触った音が川の底から聴こえてまいりました。
「ヱメラルドがやってくるよ」
水底の燐光がチカチカと、その声に合わせるように瞬きました。
川の水が逆に走り、そしてやがては戻ってまいります。
するするとその川底に走っていた蔦がぼうっと光っては浮かび上がり、やがては人ほどのつぼみの形を作って浮き上がってきました。
「どうも、ベリル」
「やあ蜂飼い」
そっとそのつぼみの中から、濃い緑色をした手がゆっくりと差し出されました。
「ひび割れに効く飴をね、ひとつもらいたくって」
「ほんとうにひとつで十分なのかい?」
ああ、いやあ、とやがてとぼとぼした声が聴こえてきたので、蜂飼いは静かに笑いながら袋いっぱいの飴をその手に託します。
ややあって、あちこちにひび割れたような皮膚をもつ、人型をした不思議な生き物がつぼみから姿をあらわしました。
「どうにもね、心が砕けてしまうものが多くって」
「うん。共鳴してしまうきみはさぞかし辛いだろう」
山形帽の端をついと持ち上げて、蜂飼いが少しばかり心配そうな視線をよこしながらベリルと呼ばれたその人物に声かけます。
「みな、恐ろしいんだよ。立ち止まることも、忘れ去ることも」
「けれど、忘れ去られることをもっとも怖がるのだね」
「そうさ」と呟いて、ベリルと呼ばれたその人物は、自身に巻き付いた蔦をそっと撫でて棘や花びらを撫でております。
水底ヱメラルド。
ベリルの棲まう、つるばらの泉に集う魂たちの総称です。
水底に沈んで、忘れてほしくて、けれども忘れてしまうことも忘れられることもつらい。皆皆がその植物でできた心臓の穴から、砂のしずくをずうっとこぼしているのです。
ベリルは砂を泉の外へ運びます。
けれどもベリルの身体はとくだんに繊細で傷だらけですから、誰かの砂鉄のような心の砂を運ぶたび、自身が削れてしまうのです。
水はこわくない。だって水はただそこにあって触れてもいたくはないのだから。
ヱメラルドたちはありとあらゆる存在に触れることを恐れます。だからこうして、ベリルは彼らのためにひとりで川を辿っては、いくつかの飴をもらいにやってくるのです。
繰り返して、繰り返して。
ヒトは過ちも栄光も、哀しみも喜びでさえも。
ずっと
けれどもベリルは律儀に、いつも傷でやっとこさの状態になっては川を渡ってるのでした。
「もう、いたくない?」
そっと、つぼみの中から声がします。
川底の星たちからも声がしました。
「水底で揺蕩う星屑たちは、ほんの少しの流れで削れてしまう。けれど、削れることを傷つくとは考えていないんだ」
きゃっきゃ、うふふ、とくすぐったそうな声が川底に溢れ、ピアノの鍵盤をそっと震わせました。
「連れていっておやりよ。その子はベリルと一緒にいたいみたいだ」
「でも——」
つぼみの中に転がり込んだ、小さな星屑がもじもじとしてこちらを伺っておりました。蜂たちがその周りを飛んでは、器用に小さな花をくすぐっております。
「泉を視てみたいの。そう、水のうまれるところを巡りたいわ。小さな粒になってしまう前に。それに」
——あなたの棘も少し抜きたいもの。
ベリルは少しばかり寂しそうに笑いました。
「また刺さるし、生えてくるこの棘をかい?」
「ええ、何度でも」
川底をするりと瞬きが流れ、つるばらは泉へと向かって流れてゆきます。
「それがつらいのも、想い起こせるのも。ヒトなのだよ」
そう囁く蜂飼いの手のひらには、ことりと中心に大きなヒビを飲み込んだような、ヱメラルド色の飴が新しく生まれておりました。
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