真鍮と鉛玉

 羽音ではない。月のその向こうから、遠く近い遥か彼方のプロペラの音が聴こえてきます。それは浮かび上がったら、戻るかどうかもわからない旧式のプロペラ音でした。


「こんにちは」


 蜂飼いははめていたゴーグルを首元へとずらしながら佇んでいた人影に声をかけました。川底の星屑たちに食い込んでしまった錆と鉛玉を取り出そうとしていたのです。

 男は酷く疲弊しているように見えました。所々破けたツナギのような服装をしています。


「くっ……」


 唇を噛んだその男は、おもむろに自身のベルトへと手を伸ばしましたが、その指が望み通りの何かを掴むことはありませんでした。

 そこに残っていたのは墨痕でばすりと書かれた誰かの氏名、その襷のみです。


「この場所に、ピストルは持ち込めないんだ。星屑たちが怖がるからね」


 遠くの空のプロペラ音も、小さく聴こえた破裂音すらも、今は川の流れの音で聴こえなくなっていました。

 男はふうと諦めたように息をつき「日本人か」と短く蜂飼いに問いかけます。


「いいえ、けれど貴方の敵ではないよ」


 静かに答える蜂飼いの声は、男のものよりも随分と若くも聞こえ、それでいてもっと歳上のような落ち着きすら含んでおりました。


「ここはどこだ? 俺は死んだのか?」

「死んではいない、死を一瞬たりとも望んでしまったかもしれないけれど」


 ぶうううん、ぶううううん。

 蜂たちが何故だか不思議そうに男を取り囲んで飛んでいます。男には蜂が見えていないのか、ただただ真っ直ぐに蜂飼いを見つめ返しているだけでした。


「天皇陛下に頂いた銃を、取り落とせば前後がわからないほどに殴られるんだ」

「うん」

「けれど、けれど……」


 男は川岸に、ばしゃりと膝が濡れるのも構わずにへたり込みました。


「俺は、俺は人を殺したんだ。人じゃないと言われていたのに、墜ちたコクピットにいたパイロットは俺と同じ血の色をしていた。家族の写真も持っていた」

「とても混乱したのだね」

「……これじゃあどっちが人外非道か! わからなくなってしまったんだ!」


 蜂飼いは、震える男のそばにそっと立ちました。

 蜂たちに目配せをすると、泣いていた男の呼吸が少しばかり整うように穏やかになりました。


「これを。今の貴方は心がとても疲れているよ」


 蜂飼いは男にそう言って、真鍮色をした飴玉を差し出します。

 どうしてだか逆らえずに、男はそれを口に含みました。血と、泥の味で満たされていた口の中に芳しい甘いスパイスのような香りが広がります。


「"生命の希望味"だよ、貴方は確かに人を殺した。けれど貴方のその両手は、誰かの愛する家族を守った腕でもある」


 男は再び、声も出せずにただただ涙を流しました。

 星屑たちが、そのあかぎれた皮膚を心配するようにそっと息を吹きかけます。カンカンと真鍮色の光が遠くで爆ぜてゆくのが視えました。


 そしていつの間にか、ぼうぼう、ぼうぼうと音を立てて。川岸に置かれていた巣箱がいくつか、蜂たちの命と共に燃えはじめておりました——。



「争いの理不尽さを憎んで。自分の選択は恨まないで。そして伝えて。だから……貴方は生きて。2度と繰り返さないように」


 煙のようにいなくなった男が立っていたところには「後悔」「罪の意識」の蜜を抱えた情蜂たちが、重そうに羽を羽ばたかせて飛んでいるばかりです。


「みんなおいで。今日はもう店じまいかな」


 蜂飼いはふたたびゴーグルをはめると、川の底をさらってはウフフと笑う星屑たちの間から、丁寧に錆びついた鉛玉を取り出すのでした。

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