トロヰメライ

 気がつけば、彼女は不思議なぼんやり光る川岸に立っておりました。

 発表会で上手に「トロヰメライ」が弾けなかったところまでは覚えております。モスグリーンの綺麗なドレスに、ペダルを踏みやすいように高めの踵がフラットになったパンプスを履いていて、あゝ私は恐ろしくてあの会場から夢中で逃げ出してきてしまったのかもしれない……そう彼女は思いました。


「どうされましたか?」


 温かな声が聴こえて、思わず彼女はそちらを振り向きました。

 ひとりの男が——そう歳の頃は幾つくらいでしょうか、それすらもわかりませんが……そこに小さなランプをかかげて立っておりました。


「い、いえ。少し風にあたりたくって」

「そうですか」


 ぶーん、ぶーんと。どこからか羽音のような音が聞こえてまいります。男は少し薄汚れたぶかぶかの外套に、これまた大きめの帽子を目深に被っておりました。本来であれば、少し怖いと感じていたかもしれません。けれども今の彼女には、彼女のことを知らないこの男の方が何ひとつとして恐ろしくは感じられなかったのです。


「なにか、嫌なことがあったのですね」


 何も話していないのに、男はまるで彼女の心がわかるかのようにそう問いかけました。

 ぽぉーん、ぶぅうん。ぽろろん。川底から不思議と、ピアノの音色が聴こえてくるような気がして、彼女は思わず俯きました。


「おやおや、あんまり川に浸かっていては風邪をひいてしまいます。星屑たちも、貴女が風邪を引くのは望んでいないんだそうです」


 男はそう云って、近づいてはきましたが彼女に触れようとはしませんでした。代わりに「これを差し上げます」と少し大きくて白に月がはまったような不思議な飴を差し出してきました。


「戻りたくない……恥をかくだけなのだもの」

「おや、貴女が何かとんでもない失態をしたと?」

「……ええ」


 悔しくて。ぎゅっと握りしめた手のひらを、初めて男がそっと優しく握りました。手を離せば、そこには先ほどの飴が残されています。


「心が悲しいとき、悔しいとき、甘いものはその気持ちを和らげてくれますよ」


 まるで三日月を飲み込むかのように、彼女は飴を口に入れました。ほんのり甘くて、けれど夜風のように口の中をスッとさせてくれる不思議な味です。


「考えてもごらんなさい。どんな巨匠でも、失敗はしたものです。けれど、彼らが失敗したとて、観客がパトロンが例え責めたとて。失敗なんて誰でもしてしまうものなのですよ」


 川底からまた不思議な音が鳴りました。それはまるで、自分が逃げるように出てきてしまった、置いてきたピアノの音色ではありませんか。


「貴女のお母様が、お父様が、貴女を責めましたか? そんなことはありません」

「でも、完璧にできないと恥をかかせてしまうから……」

「ふむ、だからこちらにやってきてしまったと」


 ぶぅううん、ぶぅーん。羽音が、まるで夢の中へと誘うように響いています。


「生きていれば、どんな失敗だってやり直せるチャンスがあります。けれど、逃げてしまえば、貴女は永遠にその失敗を抱えたままですよ?」


 ぼんやり光った川底から、不思議なピアノが浮かんできました。男は、その少しだけみすぼらしいような冴えない格好のまま、ゆっくりと優雅にお辞儀をし、黒と透明で出来上がった不思議なピアノを奏でました。


 トロヰメライ——。それは子供の頃の情景をありありと彼女の目の前に映し出します。いつからでしょう、ピアノが上手だと褒められるあまりに、演奏の楽しさよりも上手く弾くことに囚われたのは。

 気づけば彼女は涙を流しておりました。口の中の飴玉が、まるで夢の中のようにとろりと溶けて香りました。




 はたと気づけば、彼女はホールの中に立っておりました。

 拍手が聴こえてきます。それは失敗を貶すものではありませんでした。「ピアノを弾くのは楽しいんだわ。もう一度練習よ」そう微笑むと、彼女は優雅に一礼をしたのでした。




「今回は少しだけ、サービスしすぎちゃったかもな」


 川底ではピアノが、星屑にくすぐられて小さな音を立てています。久しぶりに鳴ることができたピアノは、ほんの少し嬉しそうでした。


「蜂飼い、あの子にはなんの飴をあげたんだい?」

「ん? あれはね、"夢の味"だよ」

「ふぅん」


 遥か遠く、ニンゲンの世界から聴こえるトロヰメライが、蜂飼いの耳に心地よく響いておりました。

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