或る末子の悔悟
真田
*
世は戦国中期。
長じて川柳家の一将となった忠数は、思い悩んでいた。
この時代、重んじられるのは家督を継ぐ嫡子である。妾腹の庶子は、父を同じくしていても嫡子とは区別して育てられ、成人したあとは家来のように使われることが多い。
忠数も例に漏れず、五人兄弟の末子として、城も与えられず領地も持たなかった。家臣に混ざって召し使われ、戦となれば当主であり大将である兄の盾となり戦う。
彼は、妻の
「儂は口惜しいのだ。武士に生まれたからには城持ちとなりたいが、亡き父上は末子の儂には城をお与えにならなかった。いくら働けども甲斐はなく、儂は兄上に犬馬のごとく使われるだけだ」
八重も武門の姫ではなく、土地の豪商の娘である。八重は夫の言葉を聞くと、声を低くして諫めた。
「あなた様、何をおっしゃいますか。お働きに甲斐がないわけがありませんでしょう。一族が力を合わせて、何とか家を守っているのじゃありませんか。戦に敗れて
しかし妻にいくら宥められようと、忠数の気分は晴れない。
当主であり長兄である
度量があり、戦もまずくない。義理堅く、他家の当主から一目置かれ、主家ともいえる大名からは信望を得ている。
忠数は童子の頃から、兄を敬えと教えられてきた。何をするにも命令されるばかりで、己の声というものをあげたことがない。
「いっそのこと、敵国へ
実は忠数は、半月ほど前に敵である縦山家からの密使を受けていた。密使の相談とは、戦における内応である。その時は使者を追い払ったが、あれ以来、忠数の胸の内は揺れ続けている。
夫の言葉を聞いて、八重は青くなった。
「何をおっしゃるのですか。そんなことをされたら、川柳家はばらばらになってしまいます。おひとりで縦山へ下っても、望むように重用されたりはしませんよ」
そう言われたものの、忠数はその晩も布団の中で考え続けた。とにかく兄、忠正から独立したい。
*
翌朝目覚めた時には、忠数は決意していた。一族の者を裏切って、縦山側へ趨る。
この度の戦において忠数は、忠正を将とする主力軍が戦場へ赴いている間、城の
怪しまれないようにまずは警護の体制を整えておき、日が沈んだら裏口から密かに逃亡する。縦山側の陣へ逃げ込み、大将に取り次いでもらって味方の策戦や陣立てを明かしてしまうのである。
敵を欺くにはまず味方からという。忠数は誰にも企みを伝えずに、ただひとりで実行を決めた。
裏門を開いて逃げ出す際に見張りに気付かれてしまい、駆けつけた家臣の一人が立ち塞がった。兄の忠正に忠義を尽くしている家老だった。
「退かねば斬るぞ」
忠数は言い、言葉通り斬り合いとなった。彼はやむなく家老を槍で突き殺すと、槍を捨てて夜の闇へ逃げ込んだ。
月明かりを頼りに供もなく野を走り、忠数は縦山の本陣へ辿り着いた。
忠数は川柳の策戦を縦山に伝え、城には留守の将がいないことも併せて告げた。
果たして縦山は彼の密告に従って軍を動かし、川柳や味方の隊を粉々に砕いた。
川柳の将は多くが討たれ、兄の忠正も首を取られた。
縦山の陣には、次々と
帰る家を失うことは覚悟していたはずである。しかし、この気の重さは何だろうか。
縦山の頭領は喜色を隠さず、此度の大勝は忠数の手柄だと言って手を拍ち、討ち取った忠正の首を手元に招いた。
兄の首を見るかと問われ、忠数は、どうにも頷くことができなかった。
腹の内で何かがとぐろを巻いており、気分が悪い。
忠数は首を振ると、丁重に辞退した。
*
そうして忠数は縦山の将となったが、その後に起きたことといえば、妻の八重が言った通りだった。
もともと敵軍の将であった上に裏切り者の忠数は、縦山の将士たちから信用されなかった。縦山の頭領も、気遣いを見せたのは初めだけで、忠数に小さな屋敷とわずかな使用人を与えると、そのあとは忠数のことなど忘れたかのように過ごしていた。
これでは、川柳で家臣の如く使われていた時から、何も変わっていない。それどころか、もっと悪くなっている。
忠数は、後悔した。
自分の浅慮に、今更のように愕然とした。
覆水は盆に返らない。
それはもう、絶望といってよかった。
その日も鬱怏としながら昼夜を送り、日が落ちて床に着いた忠数は、夢を見た。
夢に見たのは、忠数が川柳を裏切った戦の晩だった。忠数は縦山の陣幕の内におり、そこに
函が開かれ、中から現れたのは、兄の――
そこで、忠数は飛び起きた。
飛び起きると、そこは川柳にあった忠数の屋敷だった。
無論、川柳を裏切り去って以来、目にしたことはなかった。
まだ、夢を見ているのか。
呆然としていると、八重の声がした。
「あなた様、いつまでお休みですか。兄上――
平右衛門とは兄忠正のことである。
混乱したまま、忠数は布団を蹴って立ち上がった。
懐かしくすら感じる川柳の屋敷には、八重の他、見慣れた家人たちがおり、忠数を見かけると挨拶してくる。
どうやら忠数は、川柳を裏切った戦の朝に立ち戻っていた。一体全体、彼は随分長い夢を見ていたようである。
それにしても、兄忠正が訪ねてきたとはどういうことだろうか。
忠数は慌てて着替えると、居間へ入って客人を迎えた。
居間に現れた兄は生きていた。
弟を見ると、武働きで日焼けした顔に、はにかむような笑いを浮かべた。
「朝からすまぬな」
「兄上、突然、どうされたのです」
先ほどまで奇妙な夢を見ていた忠数の舌は、どこか上擦っている。しかし一方で、健やかな兄の姿を見て、全身がほうと緩むのを感じた。
「いやあ、久しぶりにお前の顔を見たくなったのだ」
兄はそう言った。確かに彼らは毎日のように顔を合わせてはいたが、面と向かって言葉を交わしたのはどのくらいぶりだったろうか。
「かような時にですか」
戦の朝である。寝坊した忠数が言えることではないかもしれないが、兄もそろそろ鎧を着なければならないのではないか。
そこで、忠正の眼差しが真剣さを帯び、弟へ向いた。
「――お前が、縦山の使者と会ったという者がいてな」
忠数は、息を呑んだ。しかしすぐに、兄を見つめ返した。
「たしかに、縦山の使者は来ました。ですが、追い返しました」
忠正は頷いた。
「そうであろう。だが、お前が城を持てぬことを不服に思っているという者もいてな。縦山は、その不和に目をつけたのだと」
「それは、我が非才と不徳のゆえです。口惜しいのは、そのことだけです」
言葉が口を突いて出ていた。それを聞いた兄の顔は、どこか辛そうだった。
「才徳の至らぬのは、儂のほうだ。家老がお前の様子を見て来いと言ってな。それまで、お前の苦労に思い至らなかった」
「なんの。兄弟が手を取り合ってこそ、家も富み栄えるというものでしょう。共に、我が家を守り育てましょうぞ」
兄は今度こそ微笑むと、膝を進め、弟の手を取った。
もう、忠数が悪い夢を見ることはないだろう。
<終>
或る末子の悔悟 真田 @kazuhiko_sanada
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