第112話 僕の穏やかなる時間

 本当に久しぶりに神社さんの昇殿祈祷に行ってきた。定期的な大祓とは違い、個人のご祈祷でのこと。ここ数年、ご祈祷は、郵送祈祷でお願いしてきたが、やはり神主さんの祝詞を聞いて、鈴祓いや大幣の触れる音が聞こえてくると違うなあ、と厳かで、穏やかな時間が流れていた。勿論、大祓の時にも参拝者全員で受ける祝詞(大祓詞)の奏上はあるのだが、個人の願掛けや厄除けでのものだと、自分自身としての気分や立場の違いがある。自分の名前が祝詞の中で呼ばれるのも久しぶりだ。帰りにはお神札ふだも受けて、例年の行事が僕の生活にも少しずつだが戻ってきた。


 今回の神社さんでは初めて昇殿祈祷を行った。勿論、御朱印などを頂いたことはあるので、全く知らないわけではない。でもご祈祷という形で申し込むと拝殿での祈祷の他に、ご本殿の目前まで行って、参拝もさせて頂けるのかと、ちょっと嬉しくなる。まるで伊勢の神宮の垣内参拝のような感じで、それを思い出した。


 伊勢の神宮の垣内参拝というのは、お白石の敷き詰められたご正宮の垣内に、入らせて頂ける有り難いものだ。入る前にそれぞれの団体からの許可証の提示と、入るに当たって貝殻らしき物と御塩によるお清めを神主さんにしてもらってから、横の通路を通ってお参りをさせて頂く。数回経験があるのだが、今でも思い出すと、あの雰囲気には悠久のご神威と最高の有り難みを感じる。


 僕は成人した時の神さまへのご挨拶として、二十歳から始めた神社での昇殿祈祷をそのまま続けているので、もう三十年以上(正確には四十年近い)の習慣になる。一浪して大学生になったので、ちょうどその年度の最後のあたりで、成人の日ちかくで初めての昇殿祈祷をしている。もう長い年月が流れたなと帰り道に少しおセンチな気分に浸って電車の車窓を眺めていた。降っていた雨もご祈祷が終わると止んで日差しも見え始めた。さすがアマテラスさまへのご祈祷だ、って勝手に納得していた。

 そもそも飽きっぽいし、納得できない物は続けない主義の僕の中で、この昇殿祈祷はずっと若い時分から続けている数少ない習慣だ。文章書きと楽器、あとは何だろう。思い浮かばない。その程度のダメ人間である。


 頂いてきたお神札を飾って拝むことも同じ年月やっている。その後、古事記の本を読んで、奈良に行きたくなり、伊勢に行きたくなり、とご神前の畏敬に触れる度に穏やかな気分になる。特に伊勢の場合は観光の度合いよりも参拝目的の方が僕の心の中での比率が高いので、より穏やかな気持ちになって帰ってくることが多い。そんな幸福とも言える時間に似た体験に出会えた今回の昇殿祈祷だった。

 すごく良い時間を過ごせました、とかしこみかしこみも申す。そんな気持ちである。木札と御塩を頂いたので、神棚に飾り、御塩にて清めもできた。ではまた。

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