第5話
普通だ。
何もかもが普通だった。
リンは今この宿にいない。彼女は柳家の使者としてお偉方とキョウ、ひいてはヤマト国全体の対アンデッド防衛策の議論に駆り出されている。
無理もない。先日あった謎のキョウ侵攻イベントとルシ子の存在で、キョウの都は今てんやわんやだ。偉い人が普段偉そうに振舞って良い暮らしをしているのは、こういう時の為に働くからである。そして、柳家の偉い人代表たるリンがそこに駆り出されるのもまた自然な流れだった。
ルシ子もまた、宿自体にはいるけれどここにはいない。当然だ。だって、彼女は堕天使とはいえ女性なのだから。原典たる例の宗教のルシファーは男性としてよく描かれており、また天使そのものを両性具有であるというとらえ方をする考えもあるが、少なくともこの世界においての彼女は女性だ。
「……誰もいない環境ってのも久しいよな。たまにはこういう時間も悪くない」
僅かに濁りのあるその湯に浸かりながら、俺はそう独り言ちた。
ここは例の旅館、その露天風呂だ。当然男湯。だからルシ子もいなければ、仮に宿にいたとしてもリンも入ってこない……入ってこないよな? 最近のやけに俺に対してベッタリなリンの様子からすれば怪しいかもしれないが……多分入ってこない。
ミスターKが新たな救われるべき者を求めて旅立った今、本当の意味で俺は1人湯に浸かっていた。
ルシ子が旅館の女将か誰かに宝石を握らせたために、露天風呂どころか風呂全体が貸し切り状態。だだっ広い風呂場に俺一人とは、なんとも贅沢でありながらもどこか寂しさも感じさせる光景だった。
……一応辞退したよ? 別に他の客が入ってきてもいいって、そう俺は言ったよ?
でもルシ子はそれを認めなかった。
曰く。
「戦奴という立場は他者から忌避されています。ルシ子は、戦奴という身分であるナナシが浴場にて迫害、暴行等の行為を受けるのではと、そう危惧しています。また、このヤマト国は性に対しおおらかな性質上それなりの数の同性愛者が存在します……分かりますね?」
とのこと。
まぁ、正論ではあった。
ヤマト国は性に対しおおらかで、それは性対象が異性同性であるのかを問わない程だ。そんな国で、いくら治安が良いキョウの高級旅館の浴場とはいえ、社会的身分の低い戦奴が1人でいれば……その気を起こす者が出てもおかしくない、という話だ。
先日のようにミスターKのような人物が傍にいればまた話は違うのであろうが、今は本当に俺一人。かといって、俺がルシ子と共に女湯へと行く訳にもいかない。それこそ大問題だ。
「ルシ子はナナシの性への捉え方は自由であるべきと考えています。けれど、それはあくまで自由意志の元で、です。ルシ子は将来自身の伴侶となる者が他者へ穢されることに対し嫌悪感を抱いています」
「いや将来の伴侶じゃねぇし。あくまでそれは考慮中だし」
入浴前に、そんな会話をしたっけな、と。
湯船から空へと立ち上る白い湯気を眺めながら、そんなことを俺は考えていた。
1人は寂しい。孤独は辛い。
けれど、同時に他者と常に共にいるというのもまた窮屈だ。親しい関係であっても、時には煩わしく感じることもある。
だから、こういう1人の時間もたまには必要なんだろうな、と。
そんな、この世界における俺にとっては貴重な――前世であればあって当たり前の、あるいはちょっとした贅沢程度に過ぎなかったはずの『普通』を噛みしめることしばらく。
「……あぁー、結構経ったな。もう三時間くらい入っていたか?」
ふと気が付けば、未明の時間帯から入っていたにも関わらず空には太陽が昇っていた。どうやら、随分と長い時間この露天風呂へと俺は浸かっていたらしい。
アンデッドは感覚が鈍い。そして、湯あたりなんて起こさない。何故ならアンデッドだから。
故に、久方ぶりの孤独を――鎖も呪いも薬物もない、本当の意味で自由な孤独を俺は俺の想像以上に楽しんでいたらしい。
お風呂、気持ちいいからな。一生ここにいたいくらいだ。なにせ、柳家に戻っても俺はまともに風呂にも入れん立場だしなぁ。
最近、たまにユイの従者に体を洗われることはあったけど、アレは風呂ではない。断じてない。洗車かナニカと同系統の類の行為だ。
ルシ子からは入浴の時間の制限はされていなかった。そして、風呂から上がった後に特段何か約束事をしている訳でもなかった。
だから、別に長風呂は問題ない。ルシ子自身自由を愛する堕天使だ、仮に何らかの用事があったとしても、この程度の――自身の立場を思えば貴重すぎるのだが――贅沢くらいは大目に見てくれることだろう。自称とはいえ、一方的とはいえ伴侶を名乗られているのだ、あの堕天使様の度量の深さに期待しよう。
「昼までは浸かっとくか」
空腹を感じないこともないが、戦奴として生活してもう長い。そんな感覚は慣れ親しんだものだし、アンデッド特有のこの飢餓感は食人をせねばどうせ治まらない。それに、1食や2食程度抜いたところで普段から栄養失調気味なのだ、それこそ誤差だろ。
そんなわけで、俺はこの貴重な、けれど普通な孤独をもう少し楽しむことにした。
――――
『――とまぁ、今あんな風に呑気にも温泉に浸かっているのが件のナナシくん――プレイヤーくんなんだけど』
「……ウチら、今何してるん?」
『情報収集ー、って言えば聞こえはいいけど、要するに覗きだね! フツーこういうゲームのお色気イベントだと女の子の肌を晒すのが鉄板なんだけど、キミは異性愛者だからコッチ。女湯なんて覗いても無意味だし無価値でしょ?』
「別に男湯の方にも興味ないんだケド」
『そう言わないでくれよ、彼がキミが恋するお相手なんだからさ!』
「……だからウチ、そーゆーコイってのがどんなモノなのか分かんないし。いい加減説明しろし」
『えー、ヤダよ! なんでキミみたいな年長者相手にボクが恋愛のいろはを教えなくっちゃならないんだよまったく! それにそういう情緒を養ってく過程が、恋心を育てていく過程が恋愛の醍醐味なんだぜ? まぁテキトーに仲良くしてればいいんじゃないかな!?』
「意味分かんないし」
『その無思考無理解はキミのキャラの長所でも短所でもあるからなぁ……今回の場合はどっちだろうね? まぁ、どっちでもいいんだけど!』
「はぁ?」
『えぇっとぉ、ここを、こう!』
「うぁっ……!?」
一部領域、一定範囲のみ重力を操作。不完全ながら人化していた『龍』はそれに抗うことが出来ずに落ちていく。
彼の浸かる湯船に落下していく『龍』を見ながら、アンデはその蜃気楼の如き全身を震わせた。
『キミはキミが思っている以上に惚れっぽい――そして、重たい女の子だよ。まぁそれも仕方ない話だけどね。今まで神だ、悪魔だ、災害飢饉疫病だと、崇められこそすれ基本嫌われモノだったんだ。対等な関係を築いてくれる相手からのちょっとした好意で嬉しくなっちゃうのもしょうがないさ。原作でも主人公くん相手にすぐに惚れ込んだキミだけど、今度の相手はそれ以上に過激だぜ? なにせ、向こうの好感度は既にマックス状態だ。キミは悪くない。悪いのはそういう設定をした開発者と――』
――どんなキャラクターでも深く愛してしまっている、プレイヤーくん自身だよ。
――――
あぁ、好きだ。
その相手を前にした時に真っ先に思ったのはその一言だった。
だって。
だって、だって。
だって、だって、だって!
「――なんでこんな所にドラ子が降ってくるんだよ、やっぱおかしいだろこの世界」
「……ねぇ」
「あん?」
「ウチ、一度も産んだことないけど繁殖できるし。アンデッドは基本オスは繁殖できるから問題ないし、子どもは何人くらい欲しいし? ウチは2人での生活も悪くないと思うケド、やっぱり2人の愛の結晶というか、2人が愛し合った証というか、そういう意味でも子ども欲しいなーって思ったりするし。あ、誤解しないで欲しいケド、別にソーイウ意味だけで産んだりする訳じゃないから、産んだらしっかりと愛して育ててあげるし。あ、そうだ。アンタ、どんな家に住みたいし? ウチはフツーのヤマト国っぽい家がいいし。庭があって、広々として、ウチが元の姿になっても大丈夫なくらい大きな家。あ、アンタご飯はいっぱい食べる方? ウチはいっぱい食べる方なんだケド、やっぱり好きな相手とウチと同じ価値観持てたら嬉しいなって思って。でも押し付けるつもりはないし、あんまり食べない方ってならそのちょっとのご飯をウチがとびっきり美味しいのにするし。材料とかは心配すんなし、ウチこれでも祀られてたりしたから色んな人類から色んなモノ貰ってこれるし。それで――」
「……えぇ? なんで今の一コマだけで惚れられてんだよ……?」
ナナシというその少年は、自分を一切恐れていない。畏れていない。
見下してもいなければ、過剰に持ち上げてもいない。
自分を理解してくれる――否、既に理解しているかのように感じた。
まさに対等。そしてその態度からは、大きな困惑に隠れてこちらへの好意が滲みだしている。
そう――湯船へと落下してきた『龍』を、神とも悪魔とも呼ばれたその存在を。
あろうことか、彼は介抱しようとしてきたのだ。
自身を知らぬ無知故の行動ではない。あの妙な存在が言っていた、ナナシは自身のことを知っていると。
正直半信半疑だったが、彼を目の前にして確信した。彼は、ナナシは自身を知っている。理解している。そして、その上で対等に向き合い好意を向けてきている。
『龍』は、遥か昔は信仰や畏れの対象ともなっていた。アンデッド化する以前は、多くの人類から様々な感情を向けられてきた。
故に、彼女は人一倍――アンデッド一倍、自身に向けられる感情に敏感であった。
「アンタ、ウチのコト好きっしょ? ウチも、アンタのコト好き。好きピ。だから、問題なんて何にもないっしょ? ――あ、これがコイってヤツ? あの変なのが言ってた……確かに、コレってどんな美味しいモノよりイイ感じじゃん?」
「……チョロゴンってレベルじゃねぇぞおい。原作でも大概だったけど、なんでこうなるんだよ」
『龍』。個体名を持たぬ、ファンからドラ子と呼ばれるアンデッド。
信仰と畏怖によって力を増す大自然の化身。しかしその性質から『龍』の存在が忘れられ、あるいはおとぎ話、空想と思われるようになったために弱体化し、アンデッド化してしまった彼女は。
とても惚れっぽいタイプの――そんな次元を超えて、さらになお惚れっぽいタイプのキャラクターだった。
――――
空から女の子が。
そんなどこぞの映画の冒頭のようなシーン、現実においてもフィクションにおいても実のところかなりの緊急事態だと思う。
なにせ、女の子が空から降ってくる……いや、落ちてくるのだ。
軽く見積もって、30から50キロの肉の塊が空から落下してくるのだ。
落下する当人にとっても、そして落下地点にいる誰かにとっても、その事象はファンタジックなモノというよりは差し迫った危機であると捉えられる。
前世でも、投身自殺を図った誰かが地上にいた誰かにぶつかるという痛ましい事故が起こったことがあった。
落下とは、重力とは、それだけの危機を生み出すに足る力なのだ
だからこそ。
アンデッドである俺は、その落下してくる誰かを身を挺して受け止めた。
「ぅおっ……!」
よくドラマや特撮なんかで高所からの落下の際、水面に落ちたおかげで助かったなんてシーンもあるが……その高度にもよるし、地面に叩きつけられるよりはマシな場合もあるけど、実際水面って意外と硬いんだよな。
学生時代なんかにプールで飛び込みをしたヤツなら分かるだろう。上手く飛び込めずに全身を水面で打つと……めっちゃ痛い。
だから、ここがいくら露天風呂だからといっても落下してきた彼女が無事である保証はない。つーか、風呂だから普通に水深浅いし。危ない。
俺はアンデッドだ。だから、そう簡単には死にはしない。俺の体がクッションになれば、と腕と胸元で落下してきた彼女を受け止めた。
重かった。そして、痛かった。けれどそれは怪我をするほどではない。
と、同時にキョウの都中に警報が鳴り響く。
アンデッドを感知した際に鳴る警報だ。
腕の中の少女を見やる。
「……原因はお前かよ、ドラ子」
ぎゅっと目をつぶって体を小さく縮こまらせた彼女は、『龍』と呼ばれるキョウの都の地下深くに封じられているはずのアンデッドであった。
『龍』。種族は文字通り龍……てか、正式にはドラゴンゾンビ。人の手には負えないあらゆる大自然の猛威――例えば災害、天候、疫病飢饉なんか――をこの世界の人類が人格化してなんとかしようとした結果生まれた『龍』がアンデッド化した存在だ。
その生まれの由来から、彼女は信仰されるほど、畏れられるほど力を増すという性質を持っていた。また、人類の願いによって生まれたという経緯からも不完全ながらも人の姿をとることも出来る。まぁこれは堕天使とかの人化と違って、アンデッドであることまでは誤魔化せないんだけど。
そんな彼女は原作では、彼女の存在を人類たちに認知させる――思い出させるいくつかのタスクをこなさなければ封印が解かれなかったはずだ。なにせ、人々から忘れられ、あるいは存在を疑問視されたことによって彼女は封印されるほどにまで弱体化したのだから。その逆に、存在が知られれば、思い出させることが出来れば力が増し封印も解かれる、といった寸法って訳。
その封印を解かれた際の彼女の外見は、まさにナイスバディ。
和装の上からでも分かるほどの胸と尻のデカさ。高身長なこともあって、お前絶対ヤマトの国出身じゃないだろと言いたくなるような体型をしていた。
そして口調と容姿を表すならば、ダウナー寄りの和風ギャル、とでも言えばいいだろうか。ジャンル的に言えば、所謂白ギャル。ドラゴンアイなこともあって、本当にヤマト国の雰囲気に合わない稀有なキャラだった。いや、和服はある意味似合ってたけど。セクシー的な意味で。
『アンデッド・キングダム』内ではそんな彼女だったが……
「……ちんまい」
なんか、小さかった。
ギリ少女かな……? ってくらい小さかった。
推定10歳前後……俺と同じくらいの外見年齢だった。温泉の湯に濡れ体に張り付いた和服から窺えるボディラインも第二次性徴以前と思われる寸胴体型。
纏うアンデッドの雰囲気とその特徴的なドラゴンアイ、そして皮膚に所々見られる鱗の名残がなければ彼女だと分からないくらい幼い外見をしていた。いや、顔立ちとかは面影があるから分からないってことはなかっただろうけど。
「――なんでこんな所にドラ子が降ってくるんだよ、やっぱおかしいだろこの世界」
そして、その俺の呟きの直後。
ファンから『チョロゴン』、『和風ヤンデレ系ドラ子』と呼称される彼女の好意を……なんで好かれたのかよく分からないまま、俺はそれを浴びることとなった。
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