第9話

 森林の奥地にて、剣戟が響き渡る。

 舞うは、赤髪の剣姫と黒の剣士。それこそまるで舞踏でも踊るかのように繰り広げられる立ち回りは、仮に観客がいれば見惚れるほどに美しかった。


 だが、実態はそうではない。


「くっ!?」


「薬物の補正の無い状態でここまで動けるのか、予想外だな。やはりお前も原作とは少しばかり異なる状態らしい」


 客観視した場合、両者の実力は拮抗しているかのように見えた。だが、女の方が必死な形相であるのに対し、その男の表情には余裕が残されていた。


 事実、刀の打ち合い自体は互角の勝負であった。互いに切り結び、刀を砕き、新しい刀を握ってまた切り結ぶ。

 その過程で、両者共に少しずつ生傷を負う。


 だが、女の体の傷は増えていく一方であるのに対し、男のそれはすぐさま再生していった。

 疲労感も両者では異なる。女が徐々に動きを鈍らせていくのに対し、男の剣の冴えは最序盤の頃とまるで変わらない。


 そう。初めの頃は女が――リンが優勢であったのだ。

 薬の作用が無くなり、離脱と精神不安を抱えてなお、リンの方が実力は上であった。

 しかし、リンが傷を負い疲労を蓄積させていくにつれ、その有利は減少していき今では拮抗状態。男が――ヨグが優勢となるのも時間の問題であろう。


「来ないでっ!? 来ないでよっ!?」


 体に無意識化に蓄積されていた経験値故か、あるいは肉体の強靭さ、暴力性に特化した聖人の第六感とでも言える直感が故か。安定しない思考の中でなお、そのことを察し始めていたリンは攻勢へと打って出る。


「なんだとっ!?」


 大上段から振り下ろした妖刀――その刀身が受け太刀に触れる寸前、リンは刀の柄から手を離した。剛力を受け止めるべく構えていたヨグの姿勢が僅かに崩れる。

 彼の受け太刀も、リンの斬撃に合わせるように振り下ろされていた。しかし、それ以上の速度で彼女は動く。刃同士が触れ合うよりも早く、速く、リンはヨグの懐へと身を沈めた。


 聖人の、異常ともいえる身体能力だからこそ成せる動作だった。

 そのフェイントで生み出された、僅か一瞬。


 低く体を屈め、腰に携えた一本の短刀を抜き放つ。狙うはその男の頸部。胴体と脳を繋ぐ連絡線。


「――やっ!」


 跳ねるようにして、ヨグの受け太刀と胴体の間に体を滑り込ませ、喉元へ刃先を押しやる。峰に片手を添えて、襤褸のフードごとその首を短刀で引き裂いた。


 吹きあがる血風。動きを止めた彼の肉体は刀を手放し崩れるようにして地面へと倒れこんだ。その脇には、男の首の上に乗っていたソレが転がっている。


「……ゃった…………勝てた、生き残れた……ぅううっ……」


 勝利の喜びもつかの間、リンは大地へと嘔吐する。

 鼻を刺すような血の匂いが、手のひらに残る肉を切り裂いた生々しい感触が、辺り一帯に漂う死の気配纏う空気感が。その全てが気持ち悪い。

 そしてまた、他者を殺してしまったという実感が、生存を勝ち得た事実以上に彼女の心に重くのしかかっていた。


「ごめんなさいっ……ごめんなさいっ……殺しちゃった、アタシがっ、この手でっ……この刀でっ……!」


 生傷だらけの体で、血塗れの姿で、纏う衣装も血や泥に塗れ裂けた箇所も多い、そんな体裁で。

 恥も外聞もなく、嘔吐と失禁をしながらリンは目の前の死体に懺悔していた。

 両目から流れ落ちる涙は留まることを知らず、口から溢れる謝罪はもはや誰に向けたものであるのか知れず。


 ――死にたい。生きていたくない。こんな辛い思いをするのは嫌だ。


 ――死にたくない。生きていたい。死ぬのは怖い、きっと、死ぬのは今よりももっと辛いかもしれない。


 相反する2つの思考が彼女の脳内で混迷する。理性が、知性が、それらが濁々とした感情の波に押し流される。正常な思考が保てない。意識すら失いそうだ。


 いや、意識を失えたのならどんなに楽だろうか、とリンは考えてしまった。

 辛い思いをしなくていい。こんな風に考えなくてもよい。ただ、眠るように何も考えていたくない。


 だが、全身に負った傷の痛みが意識を手放させてはくれなかった。


「……戻らなきゃ……キョウの、あの旅館に……荷物の中に、まだ薬は残っていたはず……」


 感情の波が静まった一瞬。僅かに残った理性と知性を振り絞り、リンは立ち上がった。

 懐に入れ持ち歩いていた丸薬は、もうない。先ほど全て飲み干してしまった。


 アレが無くては、自分は生きていけない。

 戻らなくては。


「あれ……そういえば、どうしてこんな所に来たんだっけ……」


 儘ならぬ思考を必死に働かせ、這う這うの体でゆっくりとした歩みを進めながらリンは考える。


 ――そうだ。ナナシがいなくなったから探しに来たんだった。その最中に、この妙な男に襲われたんだった。


 フラフラと、時折木に体を預けながら進むリンはなんとかそのことを思いだす。


「ナナシを、探さなきゃ……でも、お薬が先……旅館に戻って、お薬を飲んで、それで……その後、ナナシをまた探しに行かなきゃ……」


 ブツブツと呟きながら、1人リンは進んでいく。歩んでいく。

 その足取りは遅々としたものであった。


 当然だ。

 薬物の離脱作用、全身の疲労、抑鬱した感情、さらには全身から血を流し過ぎている。リンはもはや動けることが奇跡とも呼べる風体であったのだから。


 その彼女の背後――


「……窮鼠、猫を噛む、だったか。用心していたつもりではあったが、慢心が捨てきれていなかったようだ。俺も、未だ未熟ということか」


「……えっ……どうして?」


 髪の毛を用いて縫われた傷跡のある首元を晒した男――切り裂かれ使い物にならなくなったフードを捨て去った、黒コートの男が立っていた。


「この俺を、一度殺せるとはな。流石は柳家次代当主、物理系ステータスにおいては最強のネームドユニットだ」


「どうして……生きてるの……?」


 目の前の男からはアンデッドの気配などしない。

 精神が混濁しているとはいえ、リンはアンデッドハンターの名家、柳家の長女だ。アンデッドの放つ特有の空気というモノを察知することは彼女にとって容易である。


 だというのに、目の前の男からはそれが一切感じられない。

 気配は人間のそれだ。だからこそ、殺すために、自身が殺されないために首を狙った一撃を何とか放ったというのに。あの一撃は、間違いなく致死的であったはずなのに。


 そんな彼女の呟きを無視して、ヨグはこちらもまた呟く。


「過剰な能力をもって制圧するのは俺の趣味ではないが……俺は、柳リンというユニットを過小評価していたらしい。少しばかり、力を見せる」


 ――進化、コープスウォーリアー。


 その言葉と同時に、彼の気配が変わる。


「嘘……アンデッド……?」


 コートの下の彼の体が一回り程大きくなった。裂かれた布地の隙間からは、赤黒く染まった筋肉がはちきれんばかりに膨張していた。

 肥大化した肉体を軽く動かし、ヨグは刀を手放す。


「ゾンビ系の中位種族、コープスウォーリアー。先ほどの力量からして、この程度が適切か。これ以上ともなると過剰だ、キョウの都の結界に反応しかねない。ルシファーの探知にも、な。あの女は神の存在を忌み嫌う。俺の立場からすると非常に厄介なユニットだ」


「何を、言っているの……?」


 近づいてくるその男に対し、残り少なくなってしまった携えた刀の一本を手にしながら、リンは内心察し始めていた。


 自分は、殺される。


 彼が何故、自分を狙うのかは分からない。恨みでも買っていたのだろうか。記憶にはないが、恨みを買うような思い当たりは多すぎる。薬を飲んだ時の自分は、自分でも何をやらかしてしまうのか分からないから。


 リンにはもう何も分からなかった。

 ただ、目の前のアンデッドの脅威だけは理解できた。


 コープスウォーリアー。小さな村や町程度であれば、単騎にて滅ぼせてしまう比較的高位のゾンビ系アンデッド。筋力と耐久力に非常に優れた、しかしただそれだけのアンデッド。

 普段の自分であれば、どうとでもなるはずのアンデッド。


 だがしかし、目の前の彼は普通のコープスウォーリアーとは異なる雰囲気を放つ。

 そも、先ほどまで人間であった気配がどうしてアンデッドのそれへと変わったのか。


 人間の死体が自然にアンデッド化することは珍しくない。だが、それがいきなりコープスウォーリアーに変化するなど聞いたこともない。


 リンに理解できたのは、目の前のその存在が自身に殺意を向けていること。ただその一点だけであった。


 そして、今の自分にはきっと、彼に打ち勝てるだけの力はない。


 先ほどの時点で、ただの人間であった彼とでさえ実力が拮抗していたのだ。能力だけで見るなら、普通の人間よりもアンデッドウォーリアーの方が当然高い。

 それに、気配が変わったのは彼が何事か呟いた後だった。すなわち、首を落とされても生きているのは彼がアンデッドだから、という理由ではないかもしれない。彼の生来の特性なのかもしれない。


 自分の体を見る。

 返り血もあるが、全身の傷からの出血で衣服は真っ赤に染まっている。腕は震え、足は棒切れになったよう。戦いの際の興奮が、それによる脳内麻薬の分泌が切れてしまったのか、痛みと疲労感が酷い。


 勝てる気がしない。


「嫌、嫌よ……死にたくない……誰か、助けてよ……」


 その言葉は静かな森の中に響いたが、答える者は誰もいない。

 当然だ。キョウの都からも、キョウと各都市を結ぶ街道からも大きく離れた森の中だ。人間などいるはずもない。いたとしても、その存在が自身の助けになってくれるかも怪しいものだ。

 無意味な言葉だった。


「……まだ動けるのか。だが、既に限界と見える」


「ぅ……ぅう……」


「来い。お前に敬意を表して、斬られてやろう。戦士として、剣士として、剣姫として、この身に誉れを刻め。殺すのはその後にしてやる」


 痛み、軋み。限界を迎えた体に無理をいわせ。

 そのアンデッドの前まで進み、リンは剣を振りかぶった。


 殺せる気がしなかった。

 斬りつけても、僅かに傷が残る程度か――それすら残らないかもしれない。


「……どうして、アタシの人生ってこうなっちゃったのかな」


 震える両手で刀を握りながら。

 走馬灯のように――正しく、走馬灯の如く。

 リンの脳裏には今までの記憶が流れていく。


 幼少期。

 何故か、幼い自分は刀を握らされていた。よく分からない本を読まされていた。確かアレは、2歳か3歳程の頃であったか。


 年を重ねるにつれて、それらの修練、教育はより厳しくなっていった。出来なければ責められ、たとえ出来たとしても褒められることなどなく内容がより厳しくなっていくだけだった。


 10になる頃合いには、アンデッドの討伐へ駆り出されるようになった。

 初めて、肉を斬った。初めて、血を浴びた。どれも嫌な感触だった。

 初めて、戦奴達の死を目撃した。意思のない人形のような彼らが消費されていくのを――殺され、食われ、自らもアンデッドと化していく様を、目付け役の家人に無理矢理眺めさせられた。

 最悪の気分だった。


 この頃から、夜も眠れなくなった。洗おうと、湯に浸かろうと、手に付いた血が落ちない感覚が残るようになった。

 薬師に頼んで、精神を落ち着ける丸薬を飲むようになった。少しだけ楽になって、少しだけ眠ることが出来るようになった。

 それを乱用するようになってしまうまで、そう時間はかからなかった。


 15を過ぎた頃合い……初めてナナシに出会った。

 戦奴として柳家に買われた、幼い少年だった。貧相でやせ衰えた、惨めな少年だった。

 自分へと与えられた、消耗品の1つ。何故か戦場で全て消費されてしまう戦奴の中で、何故か毎回生き残ってくれる少年。


「……最後に、ナナシに会いたかったな」


 思い返せば、酷い人生だ。

 薬物の影響か、鮮明なものは碌に記憶に残っていないが、それでも酷い人生だった。自分の意志で動けたことなど、何度あっただろうか。自由に動けたことは、何度だっただろうか。


 そんな酷い人生を、自分がこれまでなんとか生きていけたのはナナシがいてくれたからだ。15くらいの頃に出会った、死なないでいてくれる彼がいたからだ。

 彼のおかげで希望が――柳家を滅ぼして、いつか自由になろうと。その希望が持てたから。


 気が付けば、リンは目を閉じて静かに涙を流していた。


 それを、ヨグはただじっと見つめている。

 彼女の最後の時。その感傷は誰にも邪魔されるべきではないと、そう感じていた。


「……ごめんね、ナナシ。アタシはもうダメみたいだけど。せめて、ナナシは幸せになってね――アタシが死ねば、呪いも解けるから。だから、アタシの分まで自由に生きてね。勝手なお願いだけど……」


 やがて、リンは目を開く。


 そして、振りかぶったその刀を思い切り振り下ろした。

 自身の人生の幕を下ろす。そういう想いも込めて――


「――素敵なレディがこの世から失われる。それは、全人類にとっての損失だと思わないかい?」


「……えっ?」


 ――刃はそのアンデッドに届くことなく。


「……何故、お前がここにいる」


「ハッハッハッ! ワタシはミスターK! 人類の英雄であり希望であり、勇者なのさ! 救いを求める者、それも素敵なレディの前に現れるのは当然だろう?」


 鋼鉄の甲冑越しに刀をその身に受けて、痛み故に額から脂汗を流しながら。


「『偽勇者』……そうか、ルシファーがお前をこの国に運んだのだったな」


「偽、なんて言葉はワタシには不要さ……ワタシはミスターK、勇者なのだからね!」


 リンとヨグの間に立ちふさがるように。

 リンをまるで庇うかのようにして。


 その英雄は、ヨグの前で強がってみせた。

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