第12話

 飲み下された大量のその丸薬は、非常に即効性の高い代物であった。


 食事においてほとんどの場合、摂取された栄養は腸壁にて吸収される。しかし、丸薬に含まれる多種多様な化学物質は腸壁のみならず、胃壁、食道というような粘膜組織からであれば容易に体内に取り込まれる。そういう化合物で構成された薬物であった。


 吸収された様々な化学物質は血中へと浸透し、脈拍によって脳にまで届けられる。そして脳内、神経系に存在する受容体へと作用し様々な薬効を引き起こす。


 ある物質は神経の興奮を鎮め、ある物質は神経伝達物質の再吸収を阻害し……その丸薬は複雑な作用機序を通して、精神を安定化させる働きを持っていた。

 しかし、その薬理が適切に働くのは適量が投与されてこそ。


 メヴィアによって投与された丸薬は、ユイにとって明らかに過剰量であった。

 当然、想定されるような精神を落ち着ける作用など引き起こされるはずもなく。


 それどころか、彼女の身体には異常が発生していた。


 脳に作用する薬物なのだ。その過剰投与は肉体に、精神に、あらゆる方向性で異常をきたすように働いていく。


 自律神経が乱れ、心拍数と呼吸数が増す。手足がしびれる。頭痛と吐き気が酷い。胸の内で何かが蠢くような奇妙な焦燥感を感じる。


 しかし、その異常が呆然自失の状態であった彼女の意識を覚醒させたのもまた、事実なのである。


「……ぁ、あれ……?」


 フラフラと、酔っ払いのように緩慢な動作でユイは立ち上がると辺りを見回す。


 眩しい。空は夕暮れを過ぎた黄昏模様で決して明るくはないのに、何故だか眩しいのだ。


 眩しさに目を細めながら、あれ、とユイは首を傾げた。

 そこは壊れかけた教会などではなく、墓所であった。彼女の初仕事、アンデッドが発生しないよう、あるいは発生した際に即座に対応できるように仕掛けられた様々な罠や仕掛け。それらを点検すべく訪れたあの墓所であった。


「教会、じゃない……? ぅぅう、頭が痛い……教会? どうして教会にいたんだっけ……? たしか、お仕事でこの墓所に来て……教会に行って……あれ? 教会には、行ってない……どうして、教会にいたの……?」


 思考が定まらない。先ほどまでの記憶すら、上手く認識できない。

 聖人の肉体であるからこそ耐えられているが、投与された丸薬は常人であれば致死的な量であったのだ。その作用が彼女の脳髄を犯し、狂わせ、正常な思考と判断能力を奪っていた。

 彼女の体格や年齢、投与された薬物の数を思えば、むしろ意識を保てていることすら異常であるのだ。人類の進化種とも思えるほど強靭な聖人の肉体、その頑丈さ故に彼女は意識を取り戻すことが出来ていた。


「うぅ、気持ち悪い……思い出せない……私、教会でなにをしていたんだっけ」


 そして幸か不幸か、彼女は先ほど見せられた幻の光景すら思い出せない程度には薬物は彼女の脳機能を麻痺させていた。


「あれ……肩が熱い……? あ、血が出てる……痛くないのに……」


 靄がかかったようにうまく働かない頭。そして正常に作動しない痛覚。だが、自身の肩の噛み傷は流石に認識できたようだ。

 フワフワして、グラグラして、気持ちいいのか気持ち悪いのか分からなくなってくる。そんな感覚の中、傷があるなら治さなきゃ、とだけ思考したユイは己の肩のその傷へと治癒魔術をかける。


 出血はすぐに治まり、噛みちぎられた組織もゆっくりと再生していく。筋繊維も、皮下脂肪も、そして、皮膚組織も。熟練の治癒師であっても行使できるか怪しいまでの高等な治癒魔術を、曇った思考でありながらそれでも彼女は簡単に行使してみせた。

 数十秒もすれば、肩の傷は綺麗に消え去っていた。傷跡1つない、本当に綺麗な柔肌だけが切り裂かれた着物から覗いていた。


『――何をしているのですか、アナタは。意識を取り戻してすぐ自分のことですか。随分と自分本位な娘ですね。そんな傷より優先すべきことがあるでしょう。目の前を見なさい』


 突如、頭の中でそのような声が聞こえた。

 聞き覚えの無い女の声であった。


「えっ、誰なの……?」


『――ワタシが誰か、などどうでもよいことでしょう。ワタシを苛立たせるためにワザとそうしているのですか? ほら、目の前の彼を見なさい。見るのです』


 思考が定まらないユイは声に促されるまま、緩慢な動作で――それこそ、霊体化し背後で佇む女が舌打ちを打ちたくなるほど鈍い動作で――前方を見やる。


 血に濡れて真っ赤に染まった少年がそこにはいた。


「あ……生きてる……良かったぁ……っ!」


 四肢がもげ、腹を裂かれ、それでも己の髪を用いて傷を縫い、ゾンビやグールを相手に必死になって戦う全裸の少年の姿。

 はて、どうしてだろうか。

 彼のその姿が目に入ったユイの心に湧き上がってきたのは安心感と喜びであった。


 どうしてそう感じたのか、それは彼女自身にも分からなかった。

 頭が重い。思考が鈍い。何も分からない。


 だが、彼が生きている。その事実だけはなんとか認識できた。


『――何が良かった、ですか。早く手助けをしなさい。彼、アナタが見ていた幻の中での彼のようには強くありませんからね。本当に死にますよ?』


「手助け……?」


『――そう、手助けです。アナタの力なら、彼を助けられるでしょう? さっさとしなさい。この舞台はここで閉幕です。所詮伏線でしかないのですから、あまり引き延ばすのも無粋というものですしね』


 声の主が言っていることは、ユイにはよく分からなかった。

 だが、確かに目の前の少年は助けなくてはいけない。


 どうして彼を助けなければと、そう思ったのかは分からないけれど。

 でも、死なれてしまうのは困る。とても困る。すっごく困る。


 ――だって、アレは私のペットだもの。私のモノだもの。私を見てくれる、私を守ってくれる、私を救ってくれるものだもの。


 幻覚内の出来事を無意識化で記憶していたのか。はたまた、幻術へと陥る直前に彼に投げかけた誘惑の返答を自身の都合良く認識したのか。それは定かではないが。

 どういう訳だか、ユイはそう思った。


 彼の周囲にはアンデッドが群れていた。

 ほとんどがゾンビ、数名がグール。アンデッドを直接見るのは初めてのことであったが、ユイは知識として彼らの存在は知っていた。


「助けなきゃ……助けなきゃ……」


 口内でブツブツと呟くと、両の手のひらを胸の前へとかざし、術式を編んでいく。


「彼を救わなきゃ……アレを、ゾンビとグールをやっつければ……いいんだよね……?」


『――待ちなさい。アナタは何をしているのですか。それは過剰です。いけません、この周囲ごと吹き飛ばすつもりですか。止めなさい』


「……助けなきゃ……だって、アレは、ナナシは……私のペットだもの……私のモノだもの……」


『――止めなさい、と言っているでしょう? それでは彼まで死んでしまいます。本気ですか? 助けようとしているのでしょう?』


 既に、その女の声はユイには聞こえなくなっていた。

 手のひらの中央にて魔力が濃縮され、複雑な立体構造を作り出す。まるで多数のアミノ酸が絡まり構成されるタンパク質にも似たそれは、使用可能であると設定されておきながら、終ぞ『アンデッド・キングダム』内では使用されなかった、彼女が扱える最強の魔術。


 ――ゲーム内において、彼女は戦闘中の行動のほとんどが通常攻撃だけであった。

 設定上は多種多様な魔術を使えるよう作られていたにも関わらず、だ。


 彼女は本気を出せない女だったのだ。

 出さない、のではない。出せないのだ。


 なぜなら、全力を出してしまうと、自身の限界が分かってしまうから。


 柳ユイは異父姉である柳リンの保険として異常なまでに過保護に育てられてきた。

 その結果、彼女はその姉に対する歪んだコンプレックスを抱えることとなる。


 自分は姉の保険。

 姉より軽んじられている。


 周囲の態度からそれを察してしまった彼女だ。

 優秀な姉と比較され続けてしまった彼女だ。


 当然、形成される自我には低すぎる自尊心と自己肯定感が内包された。

 プライドは高い。しかし、自己肯定感は低い。


 だから、本気が出せないのだ。

 だって、本気で、全力で何かをした時、あの大嫌いな姉に、それでも劣っていたならば――


 もう、自分で自分の存在価値を認められなくなってしまいそうだったから。


 しかしそれはあくまで、彼女の平常時の思考回路によって結論付けられたもの。


 過剰投与された薬物は彼女の正常な判断能力だけでなく、彼女の能力を縛る無意識の鎖すらも破壊しつくしていた。


 高度な魔術を操る知性はある。

 しかし、彼女を縛る理性はない。


『――ああもう。上手くいかないものですね』


 ユイにその丸薬を飲ませた彼女にとっては最悪の塩梅で、丸薬はユイの脳機能に作用してしまっていた。


「今助けてあげるね……帰ったら、いっぱい褒めてあげるからね……」


 焦点の合わぬ視線を向けて、ユラユラと不規則に体を揺らして。

 そんな中編まれたその魔術の精度は、彼女の才能故か完璧という他になく。


 小さな球形の、白く輝く光の玉が彼女の手のひらの中央に現れていた。


「それっ」


 小さなその掛け声と共に放たれたそれは、当然あらぬ方向へと向かう。感覚の全てが狂っているのだ。まともに放てるはずがなかった。


 しかし、それでも問題はなかった。

 ある種の問題は孕んでいたが、目の前のゾンビとグールを排除するという目的においては全く問題がなかった。


 何故ならば、その魔術の威力が高すぎたからだ。


『――面倒なことをしてくれたものです』


 そんなボヤキのような声が聞こえた気がした。

 その次の瞬間。


 地面に着弾したそれは、全てを吹き飛ばしていた。

 ゾンビを。グールを。

 地面を。周囲の木々を。墓石を。卒塔婆を。地面に埋められた普通の死体を。


 そして、あの少年も例外ではなく。


 ユイが無意識のうちに張っていた防護の結界。その内部にて守られる彼女以外の全てを文字通り吹き飛ばしていた。


――――


「これで全部、ですかね。ふぅ、まったく酷いことをするものです。加減というものを知らないのですかこの娘は」


「カミサマがそれをいうのかよ。今日一番加減を間違ってんのはカミサマ自身だろうが」


「ワタシはいいのです。神なので」


「なんだそりゃ」


 そこは既に墓所ではなくなっていた。

 柳ユイの魔術によって全てを吹き飛ばされたその場所は、さながら小さなクレーター、あるいはカルデラのような窪地上に地形を変化させていた。


「しかし、それにしても呑気なものですね。こんな場所で眠るなんて、危機感というものがないのでしょうか」


 その窪地の外縁部にて、荒い呼吸で寝息を立てるユイにメヴィアは毒を吐く。


「アンタがそれを言うのかよ。アレは魔力切れか薬の副作用だろうが。どっちにしてもカミサマのせいだ」


「ワタシは悪くありません。加減を知らぬあの娘が悪いのです。もしくは、薬などに負けるような貧弱な肉体が悪いのですよ」


「そうかよ」


 神の自己弁護を軽く聞き流しつつ、ヴァンパイアの青年は手に持っていた肉片を無造作にメヴィアの前へと放り投げた。


「……もう少し丁寧に扱ってください。彼の体なのですから」


「今はただの肉片だろうが。丁寧にってんならさっさと生き返らせてやれよ。それに元を正せばカミサマのやらかしのせいでコイツも死んだんじゃねぇか」


「ワタシは悪くありません」


 彼がメヴィアの前に投げたそれは、ナナシの肉片だった。


 メヴィアの前に積み上げられたそれは、全てナナシの肉体だった何かだ。

 その中には当然、脳や頭蓋骨もあった。

 完全に頭部が破損していた。

 死んでいた。

 ナナシは、本当の意味で死んでしまっていた。


「しっかし、コイツも鈍感なヤツだよな。こうして生き返るのは何度目だ?」


「24度目ですね」


「数えてんのかよ」


「数えてはいません。ただ覚えているだけです。彼のことに関して、ワタシが覚えていないことなどありませんから」


「こわ」


 メヴィアはその、かつてナナシというアンデッドであった肉片の山に向かって右腕を伸ばす。

 そして――


「……痛いです。ですが、この痛みも彼のためと思えば。ああ、なんだか気持ちいい気がしてきました」


 左腕で自身の右腕を引き裂き、そこから溢れる血を振りかけた。


 すると、どうしたことか。

 肉片の山に変化が表れ始めた。


「……何度見ても慣れねぇ。なぁ、やっぱコイツが死ぬような状況は減らそうぜ。コレをまた見るのはゴメンだ」


「神の奇跡を前に何を言うのですか。それに、ワタシも好き好んで彼が死ぬような状況を作っている訳ではありません。むしろ、彼に対する危険は取り除きたいとすら思っているのですから」


「ホントかよ」


「本当ですよ。ただ、悲劇のためには多少の危険が伴ってしまうのは仕方のないことです」


「今回のは明らかにカミサマの過失だろ」


「何度も言いますが、ワタシは悪くありませんよ」


 受精卵の成長過程のように――いや、ガン細胞の増殖のように。

 分裂し、肥大化し、また分裂し。

 そして不必要なまでに増加してしまった部分はアポトーシスによって腐り落ち。


 何度も何度もその過程を繰り返し、やがて肉片はそれぞれが癒着し、1人のヒト型を作り出す。


 全裸で横たわる、ナナシの姿がそこにはあった。


 しゃがみこんで彼の体を舐めるようにじっくりと眺め、やがて満足したのか。

 ふぅ、と息を漏らしたメヴィアは立ち上がると隣で呆れ顔の青年に声をかける。


「さて、それでは帰りましょうか」


「あ? もういいのかよ。今回は早いな」


「先ほどの魔術の規模を思えば、そろそろ墓所外で待機させていた柳家の女中が様子を窺いにでも来る頃です。彼女らにワタシ達の姿を見られてしまうのは不都合ですからね」


「それもそうか」


 そういって、両者は空へと舞い上がる。


「しかしホントに鈍いヤツだよな。自分が何度も死んでいることに気付かないなんてよ」


「彼を悪く言うのは止めなさい。気付かずとも仕方ないことなのです。死んでいる間というのは意識がありませんから。生き返る、という概念に気付くまでは死を認識することは意外と難しいのですよ」


「まるで死んだことがあるような言い草だな」


「ええ、彼がまだゲームに慣れていない頃、何度も死にましたから」


「また訳の分からんことを言いだしたよ、このカミサマは」


「それに、死因のほとんどがあの姉の方の戦場での狂乱ですからね。大方、彼自身は毎回運よく頭部が無事なのだ、とでも思い込んでいるのではないでしょうか」


「マジかよ。あんな頭のおかしな女が一度も自分の頭を壊していないとでも思うか、フツー」


「疑念こそ抱いているかもしれませんけれど。本当に、自身の死というのは認識することが困難なのですよ」


 言い合いながら、彼ら彼女らは空を飛ぶ。

 向かう先は当然、柳家本家の方角であった。

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