煙草で見える、珈琲で聞こえる

アミノ酸

第1話 君の四月はまだ白いのか

 大学受験の合格発表の日に快晴である必要がない。もし不合格であれば今後晴れる度に思い出してしまうかもしれないから。

 向かいに座る貝塚志穂子カイヅカシホコは当事者であるにも関わらず落ち着いてコーヒーの匂いを楽しんでいる。

「先生、半年間ありがとう」

 家庭教師と生徒という関係がもうすぐ終わる。あと数分を残し、もう話すことも無くなってしまうのだろう。

「本当によく頑張ったよ。悔いはないか?」

「そうだね、前の私だったら大学生になりたい、良い会社に就職したいって言ってたんだろうけど、そういうのはないかな。気持ちの整理をする時間は十分にあったからね」

 ここのコーヒーの香りが嗅がなくなるのは残念だけど、とはにかむ彼女は年齢よりも大人びて見える。自分より十歳は年下のはずなのに、比べてどうにも恥ずかしくなる。いつまでも大人になれない自分に嫌気が差した。

 溜息交じりに煙草の煙を吐き出すと、志穂子はわざとらしく咳き込んだ。

「あんまり吸い過ぎちゃダメだよ? あ、でもいっぱい煙草吸ってれば、その分早く会えるのかな」

 身を乗り出していたずらっぽく笑う顔は、自分の若さと可愛らしさを自覚している。よく晴れた日にはこの眩しさを思い出したい。

 カチカチと鳴る時計の針が存在感を増した気がする。音が大きくなるわけもないのに。名残惜しさと焦燥感が胸を絞り、肺に残った煙を吐き切らせた。

「じゃあね、先生。向こうで待っているよ」

「おう、そのうち挨拶にいくよ。お疲れ様」

 日向が突然陰るように、志穂子はスッと姿を消す。時刻は正午。生前第一志望として受験勉強に明け暮れた大学の合格発表の瞬間に彼女は成仏した。

 インターネットで合格発表のページに接続する。回線が込み合っているのか思う様に表示されない。

 スマホの画面を机に伏せて再び煙草に火をつける。煙草とコーヒーの匂いがまた少し嫌いになった。



「お疲れ様。向こうで親御さんが待っているぞ」

 喫茶店「アン」のマスターが階段を下りてくる俺に労いのホットコーヒーを淹れて、奥のテーブル席を指し示す。

 今か今かと待ち侘びていたのか、俺が視線を向ける時には深々と頭を下げていた志穂子の父親と、ハンカチで目元を抑えた母親が席から立ち上がっていた。

「志穂子の為に半年間ありがとうございました。本当に最初は失礼な態度を取ってしまい、誠に申し訳ございませんでした」

「いえ、お気になさらないでください。あの、お掛けになってください」

 何度繰り返しても遺族とのやり取りには恐縮してしまう。俺もそろそろいい年なのだからスマートにこなしたいところなのだが、どうにも堂々と振る舞えない。

「志穂子は……、無事旅立てましたでしょうか……」

 鼻水をすすり、つかえながら志穂子の母親がそれだけは聞かせてほしいと言わんばかりに喉を締めながら尋ねてくる。

「ご安心ください。志穂子さんらしく元気な明るい笑顔で旅立たれましたよ」

 娘の死から数えきれない涙を流しただろうに、志穂子の母親は嗚咽した。背中をさする父親を見て、ご両親は今日から前を向いていけそうだぞ、と胸の中で志穂子に報告をする。

 労いのホットコーヒーには少し多めの砂糖が入っていたが、俺はこの一杯を飲む瞬間だけ自分の仕事を肯定できた。



 志穂子の両親を見送り、冷たい空気と一緒にドアを鳴らす鈴の音が店内の隅々に行き渡る。

「半年間は長かったな。志穂子ちゃんに感情移入しちゃって辛かったんじゃないか?」

 コーヒー豆を挽く手を止めてマスターが新しい灰皿をカウンターに差し出してくれた。

「そうだな、普段は長くて三か月ぐらいの付き合いだからな。今は平気でもふとした瞬間に気持ちを持ってかれるかもしれない」

 この喫茶店にはマスター特製のコーヒーと無駄に手の込んだホットケーキ目当てじゃない客が少なからず訪れる。

 それが先程の志穂子の両親のような「死者を成仏させたい」という人達だ。

 マスターは成仏させたい死者の生前の様子を出来る限り細かく聞き、その魂にピッタリのコーヒーを淹れてあげる。その薫りに呼ばれるように死者がこの店に訪れるので霊感のある俺が話を聞いてあげて成仏させてあげれば、晴れて依頼完遂ということだ。

 謝礼と称して少なくない金額を払う遺族が多い為、ありがたいことに俺もマスターも食うに困らない生活は送れていた。が、お金を受け取る度に胸に刺さった楔がコツンと叩かれる。ずぶずぶと深く入り込んでいくわりに、いつかバキンと音を立てて割れるのではないかと、自己嫌悪しながらもこうして仕事を続けていた。自分がいかに偽善者なのかを自覚させられる。

「十五時から新しいお客さんが来るが、ちゃんと覚えているか?」

「ああ、大丈夫だよ。それまでちょっと散歩でもしてくるさ」

「今回も目を通さなくていいんだよな?」

 マスターが事前に遺族からカウンセリングした情報をまとめた書類をぴらぴらとはためかす。

「いいよ。遺族と本人で言っていることが結構違ってたりするんだよ」

 三十分前には戻るよ、と煙草の火を消して席を立つ。

 ドアの鈴が鳴り、よく晴れた日の光が目に飛び込んできた。

 まるで暗い黄泉へのトンネルから抜け出したかのように自分の場違いさに背筋が伸びる。


 大負けしたパチンコ屋から「アン」への道を歩いて帰る。

 自分の仕事にいくばくかの罪悪感を持っていると、とても裕福な暮らしをする気にはなれず、きっちりと計算した生活費を口座に残しつつ、余剰はギャンブルで消化してきた。当たれば一時の享楽を、負ければ自己嫌悪を上塗りし懺悔も込めて仕事に向き合う。そんな生活をもう何年も繰り返してきた。

 おそらく十年前のあの日から俺は何も変わっちゃいない。自殺するほど破滅的でもなければ、夢を見る程楽観的には生きられない。ただ漫然と毎日を過ごしつつ、自分を肯定する為に遺族から感謝の言葉をいただき、死者を弔うことで許しを得たつもりになっていた。

 いつか来るかもしれない終わりの日。

 毎日毎日怯えながらも、早く楽にしてくれと泡を吹きながら息が止まる直前の快感を味わっているようで。春を思わせる日中の暖かさを無下にしながら狭くなる視界をただただ歩いた。

 予定通り三十分前に「アン」の扉を開く。

 ドアが鳴らす鈴の音がいつもより響いて聞こえたのは、おそらく鈴のせいではなくこれから起こる事を予期した第六感が力強くドアを開いてしまったのだろう。

 快晴の日に限って終わりは突然やってきた。



 人生で二度と会いたくない人を挙げるとすれば二人いる。

 あの時バイクを運転していた男と、目の前に座るこの人だ。

 森田美樹もりたみきの父親とは十年前に葬式で出会ったきり、もう二度と会うことはないと思っていた。しかし、いつかこの店にやってくるのだろうなとそれ以上に確信をしていた。

「あなたが霊と話せるという……、どこかでお会いしたことありますか?」

「……お久しぶりです。十年前に美樹さんのお葬式でご挨拶させていただきました。雑賀浩平さいがこうへいです」

 眼鏡の奥で見開かれた目は正直で、気まずさと嫌悪感が吹き出していた。とはいえ、彼も会社員として年を重ね、本音を取り繕う術を身につけている。客として取るべき態度と依頼する立場であることを一瞬で理解したようだが、俺への敵意は新鮮さを保っていた。

「ああ、あの時の……、その節は娘がお世話になって……。いや、しかしこんな形で再会するとは……」

 美樹の父親がチラリとマスターを見やるも、一流の狸であるマスターは俺を信じろと言わんばかりに背中を押す笑みだけ浮かべ、それ以上の干渉を拒む。この親父はいつもこうだ。

 美樹の父親は何か言いたげだったが、喉まで出かかった言葉を精査している間に取るべき態度がわからなくなってしまったのか、宜しくお願いします、と一言頭を下げて店を後にした。

 再び、鈴の音が店内に余韻を残す。

 お湯が沸く音が仕事の始まりをつげ、初めて薫るコーヒーの匂いが後戻りできないことを教えてくれた。

「いらっしゃったら二階に案内するから、お前は先に行ってろ」

 出された俺用のコーヒーと新品の灰皿は、自決用の拳銃と弾丸に見える。



 あの日、雨が降っていた。

 横転したバイクが美樹に激突し、打ちどころが悪かった美樹は病院での治療も虚しく息を引き取った。

 十年前の八月四日。あれから九回訪れた八月四日はよく晴れており、なぜあの日だけ雨が降ってしまったのかと、やり場のない怒りを空にぶつけざるを得ない。

 いつの間にか灰皿には吸い殻が三つも出来ている。気が付けば四本目の煙草はもう半分ほど短くなっていた。動揺している自分に嫌気がして残る煙草をぐりぐりと揉み消すと、

「あれ、まだ残っているのに。もったいないなあ」

 横を通り抜けながら声を掛けられる。何度頭で再生したかわからないその声は、想像よりは高く、予想以上に気持ちを浮つかせ、当時俺を惑わせた髪から香る甘い匂いが沈殿していた記憶を巻き上げた。

 よいしょ、と向かいの席に座る彼女は幼く見え、自分が年を取ったことを再認識させられる。

「浩平くんってこんな大人になるんだね。髭は剃った方がいいと思うよ」

 今ここが下校途中のデートであればどんなにいいか。もう一度彼女とやり直すことが出来ればどんなに幸せか。

 あれだけもう一度会いたいと想い、この仕事では会いたくないと願った彼女を前に、動揺が隠しきれず口元に手が伸びる。指先からする煙草の匂いが、埋めることのできない十年の月日を突きつけた。



「本当だったんだね、亡くなった人と話が出来るの」

「あの頃はこんなにハッキリとは話せなかったよ。煙草を吸うと霊感が増すんだ」

 煙草を吸うようになった原因は君にあるんだ、と言われて彼女が喜ぶ訳もなく、まして俺も八つ当たりがしたい訳ではない。

 限られた美樹の時間を、俺は仕事だと頭を切り替えて出来るだけドライに対応する。

「美樹は何か心残りがあったのか?」

「浩平くんにちゃんとお別れが出来なかったことかな」

 冗談だよ、そんな怖い顔しないで、と明るくあしらう姿に胸がささくれ立つ。

 この十年の全てを、記憶も達成も苦労も、無かったことにしてもいいから。見栄と焦りで汚れた恋心だけで彼女に向き合いたい。

 そんなことを考えながらも、近々訪れる美樹との別れを意識して出来るだけ感傷に浸らず済ませたいと思う。

「春になったら桜を見に行こう、って約束したの覚えてる? 二ヶ領用水沿いの」

「懐かしいな。覚えているよ」

「浩平くんが告白してくれたのがGW明けだったからお花見は出来なかったんだよね。行ってきて、感想を聞きたいの」

 お願い、と顔の前で手を合わせるが、そうすることで俺が言うことを聞いてくれるはずだという確信が透けて見える。断られる筈のないお願い。何をされても嬉しくなる自分が情けなくなる。

「感想を言うだけでいいのか?」

「うん。私は一緒に行けないから。出来るだけ鮮明に、私とどんなことを話そうと思ったのかも聞かせてほしい。このテーブルに座りながら出来なかったデートをしよう」

 喉が締まり、口の端が強張る。どうにか形だけ返事をし席を立つ。

 滲む視界が目頭をかゆくする。瞬きの度に溢れる涙で気持ちが焦る。

 今まで俺は美樹のことをズルズルと引き摺っているんだと思っていた。

 なんてことはない。本人を前にして気がついた。引き摺るどころか今日まで生きられたのは彼女が手を引いていてくれたんだ。

 ただ会えなかっただけで別れられていなかったことに気付く。そして、本当の別れは目と鼻の先まで迫っていた。



 二ヶ領用水は南武線「宿河原駅」の近くを走る小さな用水路だ。そこを挟む桜並木はそれなりに有名で、春になると綺麗なデートスポットに早変わりする。

 高校生同士の交際期間なんて今思えばあっという間に終わりを告げる。四季折々のイベントを一巡できる二人がどれ程いようか。あの日晴れていたとしても五月に付き合った俺達が翌年の花見まで付き合っていた可能性は低い。

 だからこそ、夢想した。もしあのまま時が経ち、高校三年生の春に二人でここを歩いたらどんな話をしていたのだろう。

「それ『アレクサンダとぜんまいねずみ』でしょ? 私も昔好きだったんだ」

 美樹と話す様になったのは学校の図書室だったことを思い出す。何かの授業の際、図書室で本を探すことになりボンヤリと背表紙を撫でていたら昔読んだ絵本に目が留まった。

 何の気なしに手に取ってみると懐かしくて、つい本棚の陰に隠れて読んでいたところで声をかけられた。

 どんなやり取りがあったのかは覚えていないが、その後俺が子供の頃に読んでいた『こども大百科』を二人で並んで開いていた。物心つく前の俺は誕生石のページが何故か印象的で何度も繰り返し眺めていだと話す。

「四月は白のイメージが強いんだ。たぶんこのページのダイヤモンドが印象深いんだと思う」

 今思うと何でそんな話をしたんだろう。しかし、彼女はそれに共感し、そこから急激に仲が良くなったのを思い出す。人と仲良くなるきっかけなんて本当に些細なことだ。

 その日ではなないと思うが、付き合う前に一緒に下校したことがあった。美樹は図書室でのやり取りが面白かったのか、曜日や数字を始め、様々なものに何色のイメージを持つかを夢中になって話していた。

 今でこそ共感覚といった言葉があることを知っているが、自分に特殊能力があると思い込みたい思春期の俺達は、何か運命的なものを感じ取っていたのか、そう思い込みたかったのか。幸いにして美樹は顔も仕草も可愛らしく、高校生の俺が好きになるのは自然なことで、ありがたいことに美樹もそう思ってくれていた。

 桜はどうしたってピンク色のイメージが強い。しかし匂いでいえば微かに甘いソースの匂いだな。屋台の並ぶ花見通りを一人歩き、そんなことを思う。

 こういった出店で美樹が何に興味を持つのかを俺は知らない。

 コートとマフラーが要らなくなった四月。首筋を撫でる風はまだ微かに冬を感じさせたが、奥に潜む柔らかさから無垢な白さが感じ取れた。



 マスターの作るホットケーキは見た目がシンプルで変わり映えしないはずなのに何故か癖になる。不思議なコーヒーを淹れる人だ、ホットケーキに特殊なものを混ぜていてもおかしくはない。死者を弔うという裏メニューの為に店を訪れる人は極一部。純粋にコーヒーを味わいに来ている人が三割ぐらいか。実に半数以上の客はこのホットケーキを目当てにしているぐらいにファンは多い。

 その証拠に甘いものが苦手な俺がこうも愉しみになっている。

「それを言われたところで私は食べられないんだけど。浩平くんってそういうところあるよね」

「桜を見ながら美樹と何を話したいかを考えていたんだ。で、俺は美樹が好きな食べ物を知らないし、美樹はマスターのホットケーキが美味いことも知らない」

「つまり、どういうこと?」

「このテーブルに座りながら出来なかったデートをしよう。出店があったら何を食べたいかを教え合いたいし、また他愛ない物のイメージカラーなんかも共有しあってもいい。昔読んだ絵本や好きだった映画について話すのも楽しそうだ」

「それもいいけど私は浩平くんの今日までの十年間を聞きたいかな。二七歳だと高校を卒業して大学にも行ったのかな? その後どんな女性と付き合ったのか、いつから煙草を吸っているのか、今この仕事をしている経緯、浩平くんのことなら何でも知りたい」

「そうだな……。話したい事は山ほどあるけど、格好悪くて女々しくて嫌な俺を見せることになるな」

「それを見せてほしいの。好きな人と話し疲れちゃったから成仏できる、なんて幸せじゃない?」

 ファミレスで始発まで話し込むっていうデートもしてみたかったんだ、と言って肘をつく美樹に幼さは感じなかった。

 十年前ではなく、今ここにいる美樹に再び恋をしていた。



 煙草を吸い切ってからどれぐらい時間が経っただろう。

 何杯も飲んだコーヒーのおかげで繰り返しトイレに席を立つが、一向に立ちあがらない美樹に気が付く度に住む世界が違うことを気付かされる。

 マスターは嫌な顔をせずコーヒーを淹れてくれ、繰り返し飲むグラスやカップを都度用意してくれた。

 尽きることのない話題。あり得たかもしれない過去。叶うことのない未来。

 話をしていて余計に辛くなるのはわかっているが、全てを出し切らずに終わりを迎えてしまうのが怖くて、脈絡もなく思いつくまま話し続けた。

 カフェインで鞭打つ身体にも限界が近づき、目の奥が微かに熱くなり、足は妙な浮遊感で力が入らず、何度も何度も舟を漕ぐ。

 一度眠ってしまえば美樹は今度こそ俺の前から消えてしまう。

 成仏してしまえば、この不思議な能力があったとはいえ二度と話すことが出来なくなってしまう。

 あと少し。あと少しだけ。意識が飛びかけながら一瞬で見た夢の内容を口にし始める俺を見て、美樹は責める事なく微笑む。

「さすがに話し込んだねー。もうそろそろ終わりにする?」

 眠気に抗い、片目だけ瞑る。徐々に視界が狭くなるが、ちゃんと声は聞こえている。俺はまだ起きている。

「ずっと胸につかえてたものが取れた気がするの。もう一度今日を始めからやり直して、もう一度浩平くんとお喋りできたら楽しいんだろうけど、しばらくいいかなって思えるぐらいには満たされた。ありがとね」

「……成仏するってどんな感じなんだ?」

 そんなことを聞きたいんじゃない。きっちり今度こそお別れをして、お互い別々の道を歩まなきゃいけないんだ。なのに頭は霞がかかって今まで通りの世間話をしてしまう。

「そうだなあ……、日曜日にベッドに入る感じかな。休みが終わっちゃうと思うとまだ寝たくないし、起きたら土曜日の朝だったらいいのに、なんて考えちゃうけど今は『明日はもっと楽しいことがあるかも』って晴れやかな気分で眠れそう」

 手を組み腕を伸ばして大きく胸を張る姿は猫のようだ。

「素敵な日曜日だったよ。ありがとね、浩平君。お休みなさい」



 ハッと目が覚めるとテーブルに突っ伏して眠っていた。

 カフェインの取り過ぎか、煙草の吸い過ぎか、頭は重く身体の節々が軋む。

 自分が寝ていたのは五分程度なのか、それとも五時間程度なのか。全く見当がつかない。

 片付けられたコーヒーカップと灰皿。時計の針は六時を示していた。

 覚醒しきっていない頭を奮い立たせ、階下に降りるとマスターに声をかけられる。

「お疲れ様。美樹ちゃんは帰ったぞ。森田さんも俺が対応してもう帰られたよ」

 今日はそれでも飲んで帰って休んだらどうだ、とホットコーヒーを淹れてくれる。

 いつもより砂糖が多く入っている気がした。

 喜怒哀楽に当てはまらないこの感情に名前をつける必要はない。人生で二度と味わう事がないものに、人と分かち合うつもりのないものに呼び名はいらない。

「少し男前になったな」

「嫌味にしか聞こえないぞ」

 コーヒーカップがソーサーをカタカタと鳴らす。鼻を啜る音が他人事のように聞こえた。

「嫌味なもんか。男は見た目と精神年齢が近いほど格好いいんだ」

 珍しくレコードをかけるマスターの気遣いに甘えて、俺は再び煙草を手に取る。

 ピアノとベースの音がコーヒーをさらに甘く感じさせた。


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煙草で見える、珈琲で聞こえる アミノ酸 @aminosan26

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