02.命名

 私がお風呂に入っていると、壁の向こう側から奇妙な音が聞こえてくる。これは怪獣の鳴き声だ。あの怪獣が幻覚だというのならば、これも幻聴ということになるんだろうか。実際この鳴き声を録音することに成功したという話は聞かない。怪獣は決まって夜にだけ、私たちの眠りを妨げるように鳴き声をあげることがある。迷惑といえば迷惑だが、それ以上に怪獣に対する興味とか好奇心が勝ってしまうようで、それについて文句を言っている人は見たことがない。まるで明日が訪れるのを嘆き拒むように怪獣は今夜も鳴き声をあげる。

「クライアス、か」

 その場で適当に考えた名前だけど、意外としっくりきているなと思う。かといってわざわざ応募してみようとは思わなかった。私は別に怪獣に観光資源として期待を寄せているわけではないからだ。あいつは存在自体が非合理と非日常の塊なのだから、ただそこにいてくれるだけでいいのだ。私にとってはそれで充分だった。


 風呂上がりに冷えたジュースを飲みながらまったりしていると、朝陽が不意に話しかけてきた。

「姉ちゃん、さっきの聞こえた?」

「さっきのって、鳴き声のこと?」

「そう。……やっぱり皆に聞こえてるんだ。どんな感じだった?」

「どんなって……なんかこう、ゴアァァァって感じ?」

「うん、やっぱりそうか……」

 朝陽は視線を泳がせながら呟くように言葉を続ける。

「多分、怪獣自体もその鳴き声も全部幻覚なんだ。だけどそれだと説明できないこともある。つまりこの街にいるすべての人間が、全く同時に全く同じ幻覚を見ていることになる。はたしてそんなことは現実に起こり得るのか?」

「起こり得るのかって、もう起こってるじゃん」

「いや、それは事実の一つの側面でしかない。俺たちは何か大切なことを見落としているんじゃないのか……? いや、そうとしか考えられない」

 朝陽は小さい頃から漫画より図鑑や辞書ばかり読んでいる子だった。多分SF派の中でもかなり現実的な方に属しているんだろう。確かに朝陽の言うことは至極真っ当ではあるのだが、異常な状況の中で常識的な判断を保とうとするのは、必ずしも正しいことのようには思えない。

「でもさ、実害はないんだから別にどうでもよくない?」

 それが私の本音だった。わからないことはわからないままでいいじゃないか、というのが私の立場だ。これはオカルト派・SF派に次ぐ第三勢力ではあるが、かなりの少数派であることは間違いない。すると朝陽はあきれたような口調で答えた。

「はぁ、姉ちゃんは気楽でいいな」

「私たちが考えたってどうせわからないよ。そういうことは賢い人たちに任せとけばいいし、そのために対策チームがあるんでしょ」

「そりゃそうだけどさ、やっぱり気になるじゃん。実害がないとはいえなんか落ち着かないっていうか」

「私は別にずっとこのままでもいいけどね」

 そんな風に考えてるのは多分私と市長だけなんだろうな、と思った。


 怪獣が出現してから一月と二週間が経ったその日、家を出ようとした私の耳に聞き覚えのあるフレーズが飛び込んできた。驚いてテレビの方を見ると、画面にはでかでかと「クライアス」と「ナイトキング」の文字が表示されていた。唖然とする私に向かって画面の向こうのアナウンサーが語りかける。

「それでこの二つ、クライアスとナイトキングで決選投票が行われるということですが、どうですか皆さん、どっちがいいですかね?」

「僕はナイトキングですかね。やっぱり怪獣っていうと力強さとか、そういうイメージじゃないですか。こっちの方がしっくりくると思いますけど」

「あのー、私実際現地に見に行ったんですけど、そんなに怖い印象は受けなくて、そういう意味ではクライアスの方が得体の知れなさというか、ミステリアスな雰囲気が感じられて好きですね」

「えー、どうもスタジオでも意見は割れておりますが、投票期間は明日からの三日間ということで——」

 混乱する頭の中でも、情報はねじれ合いやがて一つの結論に至る。そもそも私がこの名を喋った相手は一人しかいないのだ。単なる偶然でないなら可能性は一つしかない。私は家を飛び出し普段の二割り増しくらいのスピードで学校へと向かった。怪獣の方は今日ものんきに街を踏み鳴らしていた。


「彩花」

 私の表情を見ただけで彩花は私の言わんとすることを察したみたいだった。なぜか少し照れ臭そうに髪をいじりながら、言い訳がましく弁解を始めた。

「いや、ほら、別にパクったとかじゃなくてさ、なんか素直に良い名前だなぁって思ったから、つい」

「……はぁ、まあいいけどさ。ほんとびっくりしたよ」

「いやぁ、でもよかったじゃん。もしかしたら怪獣の名付け親になれるかもしれないんだよ。といっても別に賞金とかは出ないらしいけど」

 私としては正直複雑な心境だった。怪獣に対して愛着に近い何かを感じ始めてるのは事実だけど、だからこそ怪獣が見世物みたいに扱われるのはあまりいい気持ちがしなかった。そして怪獣に名前を付けることで、少なからず怪獣の観光資源化に加担してしまったことになりはしないか。とはいえ今更何ができるわけでもない。彩花がクラスでアンケートを取った結果、19:16でクライアスの勝利だった。


 そして迎えた結果発表の日。画面の向こうでにこやかな微笑みを浮かべた市長が掲げた色紙には「クライアス」という五文字が書かれていた。あくまで通称ということだったが、そもそも正式名称が存在しないのだから、唯一の名称であることには違いない。当然この件は大きな話題を呼び、クライアスという呼称は一気に浸透していった。そんな次第で私は思いがけず怪獣の名付け親になってしまったのだった。

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