第5話 哀。
「いらっしゃい。藍ちゃん」
「こんにちは。マスターさん」
「いらっしゃい。藍」
「うん。輝君」
藍と不思議な出会いをして、数か月、藍は頻繁にこの喫茶店に来るようになった。
その度、僕は暖かくなった今でも、ホットハニーレモンを藍のテーブルに運ぶ。
もちろん、僕のおごりだ。
「はい」
「ありがとうございます」
藍の、時たま出る敬語はいまだに心をくすぐる。
皆さんの予想通り、僕らはあれから、付き合っている。
でも、この喫茶店で僕のバイト終わり、夏でも冷たい藍の手を握って、街をぶらつく。
ただそれだけだ。
別に、言い訳をするわけじゃない。
我慢している訳でもない。
でも、僕らはいまだに、セックスどころか、キスさえしていない。
そんなことしなくても、見慣れた商店街を、僕の隣で、手を繋いで、目を輝かせてキョロキョロする藍がどうしよもなく愛おしい。
そして、季節は一周し、藍中三の冬が来た。
「輝。最近、藍ちゃん来ないな。どうしたんだ?」
「…僕にも、連絡がなくて…」
二週間前から、藍がぱったりハニーレモンを飲みに来なくなった。
藍の小さな手を冷たくするこの季節。
藍に、何かあったのだろうか?
毎日、僕は藍の携帯に留守電にメッセージを入れたが、返ってくることは無かった。
その時、藍に何が起きていたのか、僕は知らずにいた。
藍の心をズタズタに痛める出来事が起きていたなんて…。
雪が降った。
寒い朝。
もう、藍から連絡が途絶え、三週間が過ぎた。
しかし、僕は気付いたんだ。
僕は、藍の事を何も知らなかったとを。
『私と、セックスしたいんですか?』
と言って、僕を驚かせた発言。
そして、
『誰にも愛されなかった』
と言って、見せた涙。
小さくて、冷たい手。
ハニーレモン。
それで、一体藍の何を知った気でいたのだろう?
その答えは、とても哀しい形で僕の心に…いや…藍の心に突き刺さって再会することになる。
いつもの様に、喫茶店から出て来ると、ドアの外で、
「藍!?」
「ごめん…!ごめん…!ごめんね…!輝君…!!!」
いきなりごめんを連発され、何が何だか解らなかったが、とにかく震える藍と店の中に入った。
「はい。ハニーレモン」
「…ありがとうございます…」
口を利けるようになるまで、三十分かかった。
それまで、只々、ごめんなさい、と泣きじゃくるばかりで、今までどうしていたのかも、何を謝っているのかも、何も話せない状態だった。
何とか落ち着いた藍に、なるべく優しく問いかけた。
「何があったの?」
「…」
「大丈夫。大丈夫だから」
「ごめんなさい…」
「うん。何が?」
「…キス…されちゃった…」
「え?」
何とも意外な言葉だった。
セックスを普通のように口にした藍から、キスをしてごめん、だなんて。
「私…っ…私…キスだけはしたことなかったの!!」
「!」
藍は、ハニーレモンに降りかかるほど乱暴に顔を振った。
「…どんなに…どんなにさげすまれても、ヴィッチって罵られても、遊ばれてるだけでも、遊ばれてるだけだからこそ!…キスだけは…好きって言ってくれる人じゃなくて、好きって言える人としたかったのに…!!なのに…っ」
藍は、心から、哀しかった…。
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