クッキー その1

 翌日の午前、叔父の浩一が明の住むマンションを訪れた。

 台車を押して持って来てくれたのは祖父の形見の階段箪笥だった。

 明の部屋まで運んでもらった後、リビングで冷えた麦茶を出した。


「ありがとう。今日も一段と暑いね。少し動くだけで直ぐ汗が噴き出てくる」

 浩一はハンカチで額の汗を拭い麦茶を美味しそうに飲んだ。


「姉さん達は」

 明はかぶりを振った。

「そう」


「ユナちゃんは元気?」

「ああ、すくすく育ってるよ。見る?」

 浩一はスマートフォンを取り出した。

 優那ゆなは浩一夫妻の初めての子で今年の春に生まれた。

 再生された動画には逆立った髪の赤ん坊がすやすや眠っている。


「ふふ、可愛い」

「父さんには見せる事ができなかったけど、母さんにはユナを見せる事ができて良かったよ」

「うん……」


 浩一が帰った後、自室に戻った。

 実は箪笥の他に形見として頂いていた物が他にもあった。

 箪笥の取っ手を引くと中から出てきたのはクッキーの型と古びたノートだった。

 祖母の物だ。ノートには様々なお菓子のレシピが書かれてある。


 長期休暇で明が祖父母の家に泊まりに行くと、決まって祖母がお菓子を焼いてくれた。

 春にはクッキーを、夏にはパウンドケーキを、冬にはアップルパイとメレンゲを。

 その時は明も祖母を手伝い一緒になってお菓子を作った。

 クッキーの型抜き、ケーキのタネ作り、パイ生地に卵黄を塗り、余った白身でメレンゲを焼く。

 大好きな時間だった。


 だがもう一緒に作る事も食べる事もできない。

 明は祖母の指示に従って手を動かすだけだったから一人で作るのは難しいし、そもそもそのつもりもなかった。

 ただ単に思い出の品として頂いた物だったが、ある事を一つ思い浮かんだ。


 明は電話を掛けた。その相手は太鳳の母親、美里だった。

 以前、海月家へお邪魔させてもらった時に電話番号を交換していた。


「はい、ウミツキです」

「もしもし、こんにちは。アキラです」

「こんにちは~。大丈夫、みなまで言わなくても分かってるわ」

「え?」

「家に来たいんでしょ。どうぞ、どうぞ、アキラちゃんならいつでもウェルカム大歓迎~。でも今日はタオいないのよね」

「あ、それは知ってます。今日はお母さんに用があって」

「私?」

「はい。あの、クッキーって作れますか」


 あとひと月ちょっとで太鳳が誕生日を迎える。

 太鳳に手作りクッキーを贈ろうと思った。

 太鳳の好きな物は知らないし、以前した質問で趣味はないとも言っていた。

 ただあの空っぽの部屋を見たら残ってしまう物より消費する物を贈った方がいいと思った。

 実際その考えは当たっていて、太鳳は一昨年から誕生日プレゼントを断っていた。

 その分浮いた費用を上乗せしたご馳走を美里が振舞っている。


 私からプレゼント、それも手作りの物を贈られて喜ばない男はこの世にいない、という絶対的な自信が明にはあるのだが、太鳳という男に限って言えばその自信も揺らめいてしまう。

 喜んでくれるか分からない。だからせめてちゃんとしたクッキーを贈りたい。

 明は料理ができない。

 今まで祖母の手伝いくらいでしかキッチンに立ってこなかった。

 レシピがあっても、ちゃんとしたクッキーを一人で作れる自信はない。

 ていうか無理!


 料理で頼れる人を想像した時、真っ先に思い浮かべたのが美里だった。

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