第九幕 山中の邂逅
「ふぅ……! ふぅ……! はぁ! はぁ!!」
深い森が広がる山の獣道を、激しく息せき切りながらひた走る人影があった。所々に傷がついた甲冑姿で
しかしそんな人影の後ろから徐々に迫ってくる
「くっ……!」
逃げ切れないと悟った甲冑の人物は歯噛みすると、これ以上無駄に体力を消耗する前に足を止めて
それは一見槍のように見えたが、違う。長く丈夫そうな柄の先端部分は湾曲した太刀のような形状となっていた。いわゆる
木々が生い茂る山中で戦うのに適した武器とは言えないが、甲冑の人物が足を止めたのは比較的木々がまばらで、適度に開いた空間がある場所だった。だからこそここを迎撃場所に選んだのだ。
その人物が足を止めた事で、追跡者たちはすぐに追いついてきた。人とは似て非なる存在。いわゆる『妖魔』だ。尤もこの連中はその中でも最下級の餓鬼と呼ばれる存在ではあったが。
『ギヒャギヒャッ!!』
餓鬼共は容赦なく襲いかかってくる。最寄りにいた正面の個体が奇声を上げながら飛びかかる。見た目通り人間離れした跳躍力だ。その手の先には鈎爪が備わっている。あれで獲物を引き裂くのだろう。だが……
「ふっ!」
甲冑の人物はそれまでの疲労が嘘のように素早く、そして力強く動き、餓鬼の一撃を躱しつつ薙刀を旋回させる。その振りの速さも相当なもので、餓鬼に反応すら許さずその首筋を正確に斬り裂く。
一体倒したが、他の餓鬼共は全く恐れる様子もなく襲いかかってくる。奴等に通常の生き物のような感情は存在しない。ただ人に仇なすという本能に従うだけだ。
「むんっ!!」
甲冑の人物は木に当たらないように巧みに位置取りを調節しながら薙刀を旋回させる。その度に餓鬼が悲鳴を上げつつ消滅していく。しばらくの後、襲ってきた餓鬼は一匹残らず消滅し、甲冑の人物だけがその場で片膝を付いて荒い息を吐いていた。
このまま座り込んで休みたい衝動が極限まで増幅されるが、生憎追手はこの餓鬼どもだけではない。こいつらはほんの尖兵だ。とにかく今は一刻も早くこの山を抜けて人里まで辿り着かねばならない。休むのはそれからだ。そう思って疲れた身体に鞭打って立ち上がるが……
「うっ……!?」
恐ろしい勢いでこの場に迫ってくる強烈な気配に、薙刀の武者は硬直した。極力迅速に片付けたはずだが、やはり間に合わなかった。『奴』に捕捉されてしまった。
「く……」
『奴』によって
「私は死なぬ! 毘沙門天よ、我に勇気と加護をっ!!」
甲冑の人物は薙刀を振りかざし、むしろ自分から敵に向かって果敢に斬り込んでいった……
******
信濃国、千曲。その名の通り信濃を流れる千曲川の中流域一帯を包括した地方である。信濃国らしく山々と森が連なり、河川域に小さな農村などが点在する長閑で変哲もない山村地帯。だが……越後の長尾氏と甲斐の武田氏が泥沼の戦を繰り広げる主戦場となっている川中島から程近い立地のため、今現在は戦火の影響を受けて色々な意味で危険な地域となっていた。
戦乱の色濃いこの地域に敢えて近寄ろうとする人間がいるとすれば、それは流通の断絶から物資不足を当て込んで一儲けしようとする行商人の類いや、自らの腕を頼りに戦で稼ぐ事を生業とする傭兵の類い、そして戦乱に乗じて無辜の民から強奪を働こうと企む賊の類いくらいであった。いや、もう一つ……
「この稲荷山を越えたらいよいよ川中島が近付いてくるね。解ってると思うけどここから先は物騒になる一方だよ?」
山道を歩きながら相方にそう警告するのは、妖艶な雰囲気を漂わせる女武者の
「勿論解っています。
紅牙の警告にかぶりを振って答えるのは高野山の退魔師である尼僧、
戦は人心を乱れさせ、その地を荒廃させる。そうして荒廃した地には妖魔が跳梁する為の『瘴気溜まり』が発生しやすくなる。ならば大きな戦の主戦場となっている川中島の地には必ず『瘴気溜まり』があるはずだ。妙玖尼はそう睨んでいた。
しかしそれはそれとして彼女にはもう一つ気になっている事があった。相方の紅牙を見やる。
「そういえば紅牙さん、あなたは元は越後の出なのですよね? ここには越後の長尾景虎とその麾下の豪族達が出張ってきているはずですが、万が一鉢合わせたとしても大丈夫なのですか?」
また美濃でのような騒動は御免被りたい。あの時は様々な偶然が重なって事なきを得たが、本来なら二人とも縛り首になっていておかしくなかった。紅牙の
「あー、それね。まあ大丈夫だと思うよ。あれから何年も経ってるし、向こうじゃアタシはもうとっくに野たれ死んだって事になってるだろうからさ。今さらアタシと結びつける奴なんて誰もいないさ」
自信満々に請け負う紅牙。確かに年月と荒んだ賊生活で大分人相も変わっているだろうし、紅牙によるとこんな戦にまで出征してきそうな
「はぁ、解りました。とにかく他にも何があるか知れませんので、くれぐれも迂闊な言動は避けて下さいね」
それでも一抹の不安は残るものの、一応納得した妙玖尼は念の為そう釘を差しておく。二人はそのまま稲荷山の山道を長野方面に向かって進んでいく。この山を抜ければもう川中島は目と鼻の先だ。その思いから二人が歩く速度を上げようとした時……
「……っ!」
「尼さん、どうした?」
急に目を瞠って立ち止まった妙玖尼を訝しんで紅牙が振り向く。妙玖尼は厳しい表情で彼女の目を見返した。
「妖魔の気配です。ここからそう遠くない場所です」
「……!!」
紅牙の表情も即座に引き締められる。妙玖尼たち退魔師の妖魔に関する感覚は確かだ。それを既に紅牙も解っていた。
「どうする? ちょっと
「ええ、みすみす妖魔を見過ごす事はあり得ませんので。こちらの方角です」
妙玖尼は躊躇いなく妖魔の気配を辿って森の中を進み始める。感じられる妖気の圧力はかなりのものだ。強力な妖魔の可能性があり、紅牙にも注意を促しておく。だが今度は紅牙の方が先に
「これは……尼さん! 誰か襲われてる奴がいるよ!」
「……!!」
言われて妙玖尼も気づいた。微かに聞こえてくる……
「……! ありゃあ……一体なんだい!?
そこは大きな木がまばらに生えている比較的開けた場所で、その大木の幹に取り付くようにして……妖魔がいた。
見た目は紅牙が言ったようにイタチに似ている。だがまず大きさが違う。優に成人男性の倍はあろうかという馬鹿げた体長に、黒と赤が斑になったような禍々しい色合いの体毛が全身を覆っている。そしてその双眸は血のように赤い色の眼であった。
だがそれだけなら単に異様な色合いの巨大なイタチに過ぎない。その怪物を何よりも特徴づけるのは、その二本の前肢から生えたまるで
「あれは……まさか、
まさにこの信越地方を中心に現れるとされる妖魔で、その刃の鋭さは荒れ狂う突風のような
「でも……驚いたね! 誰か知らないけど、あの化け物相手に
「……!」
紅牙の言葉に妙玖尼の意識も妖魔ではなく、妖魔に襲われている人間の方に向いた。その人物は傷だらけの甲冑に身を包んだ武者と思われる出で立ちで、刀ではなく柄の長い薙刀を振るって鎌鼬に抵抗しているようだった。兜は脱げており、長い黒髪が身体の動きに合わせて靡いているのが目を引いた。
鎌鼬相手に単身で持ち堪えているだけでも驚きだが、それもそう長くは持たない様子だ。しかも鎌鼬は明らかに本気で襲っておらず、獲物を嬲るようにじわじわと攻め立てていた。どのみちこのままではあの武者が殺されるのは時間の問題だ。
「とりあえずあの方を助けます! 紅牙さん、準備はいいですね!?」
「ああ、任しときな!」
紅牙も心得たもので、いち早く刀を抜いて突撃する。
『オン・ニソンバ・バザラ・ウン・ハッタ!』
彼女の刀に妖魔を斬る法術『破魔纏光』を掛けてから、間髪を入れず今度は『破魔光矢』の術で鎌鼬を牽制する。
『……!』
案の定というか鎌鼬は見た目通りの素早い挙動で『破魔光矢』を躱してしまう。だが注意をこちらに向ける事は出来たので充分だ。
「おらぁ! アンタの相手はアタシだよ!」
その間に紅牙が大声を上げながら鎌鼬に斬りかかる。上級の妖魔ともなれば普通の刀などほぼ通じないが、鎌鼬は紅牙の刀に掛かった法術を感知したのか、別の太い木の幹に飛び移って刀が届かない高さまで登ってしまう。
「あ、こら! 降りてきな!」
紅牙が刀を振り回して挑発するが、鎌鼬は新たに闖入してきた二人の人間を観察するように見下ろしてくる。そこに再び妙玖尼の『破魔光矢』が撃ち込まれる。やはり回避されてしまうものの面倒な障害だと感じさせる事は出来たのか、鎌鼬は奇怪な咆哮を上げると木から木へ飛び移るようにしてこの場から素早く離脱していってしまった。
「……撤収しましたか。獣のような外見に比して慎重な性質のようですね」
鎌鼬の気配が完全に遠のいたのを確認して妙玖尼は息を吐いた。一瞬の邂逅だったが鎌鼬の妖気の圧力は、これまでに戦った牛鬼や烏天狗など他の上級妖魔に勝るとも劣らない物に感じられた。退いたのは妙玖尼の法術を警戒しての慎重さ故だろう。
「おい、アンタ、大丈夫かい!?」
「……!」
紅牙の声に妙玖尼も意識を襲われていた人物に切り替えた。その人物は身体も甲冑も傷だらけで、片膝を着いて喘いでいた。立ち上がる余力もないようだ。だが視線を巡らせる事は出来たらしく、その人物は駆け寄った紅牙ではなく妙玖尼の方を注視して目を見開いた。
その鎧武者の顔を初めて見た妙玖尼は、それが非常に整った……見ようによっては
「あ、あの……?」
「まさか……本当に
その美形の武者は呆けたようにそれだけ呟くと、傷の痛みや疲労、そして助かったという安堵感からか、一気に虚脱したように気絶してその場に伏してしまう。
「あ、おい!」
紅牙が慌てて駆け寄って介抱する。そして傷の具合を確かめようとした彼女だが、急に訝しげな表情になった。そして気を失った薙刀武士の甲冑の胸甲の部分を外す。するとすぐに得心したように頷いた。
「尼さん、やっぱりこいつ……『女』だよ」
「え……!?」
妙玖尼は目を瞠った。二人が偶然助けた
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