第三幕 分断

「……そろそろ刻限ですね」


 妙玖尼はまだ朝が白む間に目を覚まし、『合術の儀』に備えて瞑想を行っていた。戎錬が指定した刻限は辰一時。まだ半刻ほどはある。退魔師となって以降初めて行う『合術の儀』であったので、自分でも無意識の内に緊張していたようだ。ましてや相手はあの戎錬なので尚更だ。


 瞑想を終えた彼女は身支度を整えて弥勒を携えると宿を出た。安曇野の村はまだ朝もやが立ち込めており、前日に妖魔の襲撃があった事もあってシンとした静寂に包まれていた。指定された村外れの空き地まで赴くと、そこには既に怜悧な雰囲気を漂わせた美形の僧侶の姿があった。


「来たか。準備は万端であろうな?」


「勿論です。……紅牙さん達は?」


 妙玖尼の姿を認めると特に挨拶するでもなく鼻を鳴らして問い掛けてくる戎錬。昔から変わらない態度に妙玖尼の方も特に不平を言う訳でもなく応じる。しかしこの場にいたのは戎錬だけであり、紅牙と雷蔵の姿が見当たらない。戎錬は眉根を寄せた。


「ふん、雷蔵の奴め。お前の連れの、あの無駄に色気過多な女と一晩中飲み交わしておったようだ。まあ俗世の男であれば、あのような女に誘われれば誰でもああなるのであろうがな。全く嘆かわしい事だ」


「……!」


 それを聞いて妙玖尼も眉を顰めた。どうやら彼等は昨夜のお楽しみ・・・・の影響でまだ爆睡中であるらしい。紅牙の奔放さは今に始まった事ではないし、そういう性質だと知った上で同道しているので別に構わなかったが、雷蔵も翌朝に妖魔退治の山狩りがあると解っていながら紅牙と懇ろ・・になるとは、その辺の意識は意外と緩かったらしい。


 いや、戎錬の言う通りあの・・紅牙に誘われて理性を保てる男など殆どいないはずなので、致し方なしと思うべきか。


「まああやつらなどいなくとも構わん。むしろ『合術の儀』だけに限って言えば、いない方が集中できるというものだ。実際に討伐に向かう際に差し支えなければそれで充分だ」


 戎錬が肩をすくめた。それはまあ確かにその通りではあった。『合術の儀』において彼等の出番はない。精神の集中が必要になるのでその間周囲への警戒が疎かになり、場所によっては見張りや護衛が必要な事もあるが、それも今回は当てはまらないだろう。


「……分かりました。では早く始めましょう」


「? ふん……まあ、やる気なのはいい事だ。私の足だけは引っ張ってくれるなよ」


 若干不機嫌な様子の妙玖尼を訝しんだ戎錬だが、本能的にあまり突っ込まない方が良いと悟ったのか、鼻を鳴らして儀式の準備に取り掛かる。



 男女二人の僧侶はその場に敷布を敷くと正座の体勢に座り込む。そしてそれぞれ法具である錫杖を両手に持って掲げる。特に合図はなく、どちらともなく『生命勘取』の真言を唱えだす。


『オン・バザラ・アラタンノウ……』


 最初は僅かにズレがあった二つの真言が徐々に重なり合っていく。そして完全に重なると、双方の法力が混ざり合い・・・・・を始める。ここからが『合術の儀』の本番だ。


「……っ!」


 その瞬間妙玖尼は、自分の法術が塗り潰される・・・・・かと思うほどの凄まじい圧力を感じた。戎錬の法術だ。静謐で正確無比でありながら暴力的なまでに荒々しい力強さを内包した法力が、容赦なく妙玖尼を圧迫し押し出そうとしてくる。


(く……何という法力の強さ。これ程とは……!)


 妙玖尼は必死に押し出されまいと法力を高める。彼女が圧に耐えきれずに押し出されてしまったら『合術の儀』は失敗だ。これが互いに近い実力の退魔師同士でないと成功しない最たる理由だ。同じ空間で同じ法術を発動すると反発が生まれ、通常だと力の弱い方の術は弾かれてしまうのだ。


 それを弾かれる事なく強引に発動させ、その反発力すらも利用して法術の威力や効果を何倍にも高めるのが『合術の儀』の本質だ。


 だが戎錬の法力の強さは想定以上であった。妙玖尼は全身に脂汗を掻きながら、弾き出されまいと必死に法力を練り上げて踏ん張る。退魔師として実戦経験を積んで自分は強くなったと思っていた。それこそ紅牙が言っていたように、或いは退魔師としての実力なら既に自分の方が戎錬より上なのではないかと内心で思ってしまう程度には。


 だがそれが大いなる思い上がりであった事を、この時妙玖尼は思い知らされていた。最早彼女には弾き出されないよう必死に真言を唱える以外に何も出来なくなっていた。とても法術を操作して索敵をするどころではない。


『……オン・タラク・ソワカ!』


 だが戎錬の方は本来の目的である索敵をする余裕・・があったらしい。目をカッと見開いて、法術を発動させる。『合術の儀』によって極限まで高まった彼の『生命勘取』は、この付近の山々を丸ごと包括するような馬鹿げた範囲の広さと正確無比な精度を併せ持った奇跡の術と化す。


「……!! 東の山の奥に複数の、そして強力な妖魔の反応。これか……」


 確信を得たらしい戎錬は頷いて、ようやく法術を解除する。その瞬間、妙玖尼を襲っていた強烈な圧力が嘘のように消え去った。



「くっ……」


 圧力から解放された妙玖尼は小さく呻いて、弥勒を手放しその場に崩折れてしまう。全身汗まみれで肩で息を喘がせる。情けない姿だがそれを取り繕っている余裕さえなかった。


「ふん……まあ私の法力に押し出されなかっただけでも及第点か。さっさと立て。あの馬鹿どもを叩き起こしに行くぞ」


 冷たい目でそれを睥睨した戎錬は、だが特に嘲るでもなく、しかし容赦なく促す。妙玖尼は荒い息を吐きながらも弥勒を杖代わりにして何とか立ち上がった。しかし疲労と消耗で足をふらつかせる。戎錬はそんな彼女を置いてさっさと歩いて行ってしまう。


 妙玖尼は不甲斐ない状況に歯噛みしながらも必死にその後を追って歩き出していった。



*****



 紅牙と雷蔵はすぐに見つかった。彼等は村に何軒かある酒処や食事処を梯子して、最後に立ち寄った食事処の奥にある簡易的な宿も兼ねた座敷で雑魚寝してそのまま朝を迎えたようだった。


「いやぁ、面目ない。紅牙殿が予想以上の酒豪でな。釣られて飲んでる内に俺もすっかり深酒してしまい、刻限までに起きれなんだ。この借りは実際の妖魔退治で返す事にしよう」


 村で最低限の物資を揃えた後、戎錬が探知した山奥の地点目指して山道を進む一行。雷蔵は頭をかきながら昨夜の不明を詫びる。


「まあまあ、いいじゃないか。あたしらがいてもどうせ出来る事は無かったんだしさ。適材適所って奴だよ」


 一方で紅牙は特に悪びれるでもなく暢気に笑っている。山奥に向かう任務とあって彼女の格好はいつもの露出鎧姿だ。


「ふん、適材適所か。確かにその通りだが……本当に適材・・なのか甚だ怪しいものだがな」


 戎錬が皮肉げに鼻を鳴らす。途端に紅牙の機嫌が急降下する。


「糞坊主……アタシの実力に疑問があるってんなら、今この場で証明してやってもいいんだよ?」


 剣呑に目を眇めて刀の柄に手をかける紅牙。俄に一触即発の状態になるが、そこに妙玖尼と雷蔵が素早く割り込む。


「紅牙さん、落ち着いて下さい。鬼や妖魔以外に刀を振るうのは自衛時のみという条件を忘れたのですか!?」


「戎錬、お前もだぞ! 今まさに妖魔退治に向かっている最中に、無駄に不和を起こす理由がどこにある!」


「「……! ちっ……」」


 それぞれの仲間に仲裁された紅牙と戎錬は、期せずして同じ反応で舌打ちする。双方が渋々引き下がったのを見て妙玖尼達はホッと胸を撫で下ろす。



「全く……こんな事では先が思いやられるな」


「確かにそうですが実際にあの二人が組んで戦う訳ではないので、刃傷沙汰にさえならなければ良しとしましょう」


 呆れたように嘆息する雷蔵に、妙玖尼は同意しつつもそれほど大きな問題とは捉えていなかった。もし妖魔の集団と戦闘になったら妙玖尼と紅牙、戎錬と雷蔵に分かれて戦えば良いだけだ。互いに干渉しなければ特に連携が乱される事もないだろう。


 ……しかしそんな事を考えたのが逆に不味かったのかも知れない。しばらく後に・・・・・・妙玖尼はそう自省する羽目になるのだった。



*****



 そこは山道から分け入った先、急な斜面に木々が生い茂り視界を遮り、更に崖のように切り立った谷間が存在している難所であった。四人とも旅や悪路、山路にも慣れた健脚の持ち主であったが、流石にここでは進行速度を落として慎重に進まざるを得なかった。


「ちょっと、ホントにこの道で合ってるんだろうね?」


「妖魔どもめ……普段こんな所に隠れ住まねばならん程に人間が怖いらしい」


 紅牙と雷蔵が不平を漏らし始める。だがこの辺りまで近づくと妙玖尼にも濃密な邪気の気配を感知できるようになっていた。間違いなくこの先に妖魔の首魁がいる。


「間違い有りません。もう少し先ですが頑張りましょう」


「……とはいえこんな地形では万が一奇襲でもされようものなら応戦もままならん。早く抜けてしまうに越した事はないな」


 先導している戎錬がボソッと縁起でもない事を呟く。妙玖尼が思わず窘めようとしたその時――



「……!! 何だい、この音は!?」


「まるで……地鳴りのような?」


 紅牙と雷蔵が優れた感覚でまず異変を察知する。遅れて戎錬と妙玖尼もそれ・・に気づいた。何か大きな物が転がり落ちてくるような轟音、そして地鳴りのような震動。四人は思わず側面の急斜面を見上げ……


「っ! まずい! 避けろ!!」


 雷蔵が叫ぶ。それと同時に、斜面を転がり落ちてくる無数の落石・・が四人に襲いかかった!



「ちぃ! こっちだ! 早くしろ!」


 先頭にいた事でいち早く危険な斜面を抜けた戎錬が、残りの面子に声を張り上げて手招きする。三人は落石を避けながら必死で進む。丁度彼等がこの斜面を渡っている時に落石など出来すぎている。妙玖尼は落石を避けながらも斜面の先を仰ぎ見る。すると……


(あれは……!?)


 斜面に生える木々に隠れるようにして大きな影が蠢く。その度に巨石が転がり落ちてくる。大の男でも動かせないような巨石や倒木を軽々と持ち上げ投げ飛ばしてくるその影は……妖魔。それも恐らくは一つ目鬼だ。二体ほど確認できた。


(まさか……罠!?)


 それ以外に考えられなかった。敵の首魁はこちらの動きを察知していた事になる。ただ力任せに暴れまわるだけの妖魔ではない。


「尼さん、危ないっ!」


「っ!?」


 意識が別の事に逸れたからか、落石に対する対処が甘くなっていたらしい。紅牙の叫びに、妙玖尼は目前まで迫る巨石に気づいて目を瞠った。この距離では完全な回避は間に合わない。それでも本能的に身を躱したので直撃は避けられたが、掠っただけでも彼女の体勢を崩すには充分だった。


「あぁぁっ!!」


 不安定な足場で踏ん張りが効かず、妙玖尼は足を踏み外して、下が深い谷間になった崖に身を躍らせてしまう。時間が妙にゆっくりに感じられた。


「……っ!! いかん!」


 その時、彼女の後ろにいた雷蔵が咄嗟に身を投げて、妙玖尼を庇うように抱きすくめた。二人はそのまま大量の落石とともに崖から転げ落ちていき、すぐにその姿が見えなくなってしまう。



「尼さん!? 尼さーーーんっ!!」


「馬鹿! 上だっ!」


「っ!?」


 崖から転落していった妙玖尼の姿に青ざめた紅牙は思わず身を乗り出して叫ぶ。だがそんな彼女の上にも巨石が降り注いだ。妙玖尼に気を取られた紅牙もやはり反応が遅れて回避が間に合わなかった。だが落石が彼女に直撃する寸前……


『オン・アミリティ・ウン・ハッタ!』


 戎錬が錫杖を掲げて真言を唱えると、その巨石は粉々に砕け散った。妙玖尼もよく使う『衝天喝破』の術だが、あのような巨岩を一瞬で砕くとは威力は桁違いだ。


「あ……」


「さっさと来い、馬鹿がっ!」


 思わず呆然とする紅牙の腕を、戎錬が強引に掴んで安全な場所まで引っ張り寄せる。だが相変わらず落石の雨は降り注ぎ続けている。


「ここもいつ崩れるか分からん! 早く先へ進むぞ!」


「で、でも尼さん達が……!」


「この状況で捜索は出来ん。不幸中の幸いだが雷蔵も付いている。きっと無事だ。向こうは向こうで何とかする事を祈るしか無い。妖魔どもを逃がす訳にはいかんのだ!」


「……っ!」


 紅牙は唇を噛みしめる。この状況で闇雲に妙玖尼達を探そうとしても二次遭難に陥るだけというのは正しい。確かに雷蔵が付いているし、ここは妙玖尼の無事を祈る以外に出来る事はない。


「こうなれば仕方ない。『適材』な事を証明すると言ったな? 今がその機会だ。さっさと付いてこい」


「く……ち、畜生……。分かったよ! 行けば良いんだろ行けば!」


 冷徹にも踵を返して先に進み始める戎錬に紅牙は毒づきつつも従う他なく、妙玖尼の無事を祈りつつその後に追随していった。

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