第二十六幕 妖鬼再び
「明智光秀……。どういう事だ? お前達、奴と面識があったのか?」
雫が油断なく光秀に短刀を向けながら、声だけで妙玖尼達に問いかける。だがそれに答えたのは光秀……
「ふ……腕利きの隠密も他国の、それも山奥で起きた事象までは把握していないようだな。ちと
妙玖尼と紅牙が飛騨から来た事は雫も把握している。とりあえずそれだけで凡その事情を察したようだ。
「……山奥だと? なるほど、『飛騨の紅天狗』が退魔尼僧に付いて美濃に落ち延びてきた事情と関係がありそうだな。だがお前の正体が何であった所でこちらのやる事は変わらん。この場に現れたのは好都合だ。明智光秀……義龍様の治世のため、ここで貴様を誅殺する!」
雫は問答無用とばかりに短刀を構えて低い姿勢で突撃する。その刀身には未だ破魔の光が宿っている。これで斬られれば妖鬼である海乱鬼といえども無傷では済まないはずだが……
「ふ……」
海乱鬼は片腕を掲げると、雫の斬撃をその腕で受け止めた。いつの間にか奴の腕はあの甲殻じみた装甲に覆われていた。
「な……!?」
雫だけではなく妙玖尼達も目を瞠った。飛騨で戦った時は『破魔纏光』の斬撃も通じたはずだ。
「真の『鬼』たる我等を甘く見るなよ? 我等『鬼』には、一度受けた
「……!!」
雫の斬撃を受け止めた甲殻に浅い切り傷が付いているので完全に無効化できる訳ではなさそうだが、その効き目がかなり軽減させられているのは間違いなさそうだ。
「ち……この化けモンが!」
紅牙も舌打ちしつつ雫に加勢して斬りかかる。完全に無効化できていないなら、手数で攻めれば勝機があるかも知れない。そう判断しての行動だろう。どのみち海乱鬼相手に守勢に回るのは悪手だ。とにかく攻め続ける以外に手はない。妙玖尼も即座に法術の真言を唱え始める。
「ふっ!」
「らぁぁっ!!」
その間にも雫と紅牙の二人が、左右から挟撃するように海乱鬼に斬り付けている。短刀を持つ雫は至近距離から素早い連撃を仕掛け、太刀を持つ紅牙は中距離から雫の攻撃の隙を埋めるように斬撃を繰り出す。二人とも腕利きだけあって即席にしては抜群の連携だ。だが……
「どうした、女鼠ども。そんなものか?」
「……っ!」
海乱鬼はもう一方の腕にも甲殻を纏わせて、左右からの挟撃に完璧に対応していた。その反応速度は到底人間とは比較にならない。いや、それだけではない。
「それで手一杯か? ならばこちらからも行くぞ?」
そう嗤う海乱鬼の左右の脇腹辺りから直垂を突き破って、まるで甲虫の歩脚のような触腕が出現した。左右から一本ずつだ。そして何と紅牙たちの攻撃を自らの腕で捌きながら、
基本的に人は攻撃と防御を
槍と楯で戦う重装歩兵だけはその限りではないが、それは一つの槍と一つの楯に限定された単純な戦法しか取れなくなる事と引き替えだ。そして動作自体は行えても当然それを行う者の
しかし海乱鬼は……妖鬼は、それら人の常識や限界を容易く覆してきた。
奴は両腕の甲殻で雫と紅牙の挟撃に対処しながら、脇腹の触腕を高速で振るって反撃してきたのだ。攻撃と防御が同時には行えないという法則は当然二人にも当てはまる。全力で海乱鬼を攻め立てている最中であった二人は、その最中に反撃してくる触腕にまで対処できなかった。
「げはっ!」
「がっ……!!」
結果碌に受けもできない状態で触腕をまともに食らった二人は血反吐を吐きながら弾き飛ばされる。
「……っ! 『オン・マイタレイヤ・ソワカ!』」
その光景に目を瞠った妙玖尼だが、二人を追撃から守る意味も兼ねて『破魔光矢』の術を海乱鬼に撃ち込む。弥勒から飛んだ光弾が海乱鬼に迫るが、奴は甲殻に覆われた両腕を交叉するようにして『破魔光矢』を正面から受け止めた。
光弾が弾けて消滅するが、海乱鬼はほぼ無傷のままであった。
「く……!」
「無駄だ。貴様の術には耐性が付いていると言ったはずだ。余程大がかりな術でなければ今の私に有効打を与える事は出来んぞ?」
海乱鬼が嗤う。奴の言う通り『孔雀天雷』など強力な術であればまだ通用するかも知れないが、当然強力な術ほど発動までに時間が掛かり隙が大きくなる。今の状況で使用し、それを海乱鬼に当てる事などほぼ不可能と言っていいだろう。奴もそれを解っていて挑発しているのだ。
「さて、今度はこちらの番だな? 今の返礼だ」
「……っ!」
妙玖尼が警戒すると、奴はこちらに向かって手を突き出してきた。そこから黒い波動が球状になって発射された。それは言葉通り『破魔光矢』の
『オン・クロダノウ・ウン・ジャク!』
危険を感じた妙玖尼は咄嗟に『真言界壁』を発動して黒色弾を防ぐ。障壁に当たった黒色弾は弾け飛んで消えるが、凄まじい衝撃と邪気の浸透で障壁を揺さぶった。一発だけでこれだ。こんな物を何発も連続で受けたら……
「そら、どんどん行くぞ?」
「っ!!」
そう思った傍から追撃が来た。海乱鬼が先程と全く変わらない威力の黒色弾を次々と撃ち放ってきた。
「ぐ……く……!」
着弾ごとに妙玖尼の顔が苦痛に歪み、脂汗の量が増える。しかしそれも長くは続かない。何発目かの黒色弾で障壁に大きな亀裂が走る。そして……
「ああぁぁっ!」
障壁が砕け散って、妙玖尼は衝撃で吹き飛ばされる。そして壁に背中から叩きつけられ崩れ落ちる。
「う……」
強い衝撃と痺れですぐには立てない妙玖尼。海乱鬼はそんな彼女に容赦なく黒色弾の追撃を放とうとして……
「させるかい!」
「……!」
その間に立ち直っていたらしい紅牙が斬りかかって妨害する。いや、彼女だけではない。紅牙が気を逸らしている間に海乱鬼の背後に回った影が、奴の背中に短刀を突き立てようとする。
「ち……!」
海乱鬼は脇腹の触腕を振るってその影……雫を牽制する。奇襲に失敗した二人は一旦距離を取って仕切り直す。
「ふぅ……はぁ……参ったねぇ、こりゃあ。あんた、アイツに勝てる方法浮かぶかい?」
「……正直、ない。しかも恐らく奴はまだ本気を出していないはずだからな」
「だね……」
二人は汗まみれで息を切らしながら、そんなやり取りの間にも必死に呼吸を整えようとする。
「く……こんな物、で……!」
妙玖尼も辛うじて痺れから回復して、苦痛を押し殺しながら強引に立ち上がって弥勒を構える。しかしその脚はまだガクガクと震えていた。三人ともが海乱鬼に勝てる画を想像できずに冷や汗を垂らす。
「ふ……女鼠どもが。貴様らのそっ首、義龍に送りつけてやろう」
「……!!」
海乱鬼の身体から発せられる妖気が格段に高まる。ついに奴から積極的に攻勢を仕掛けてくる気だ。三人は最大限まで警戒を引き上げて構えるが……
「光秀、いつまで遊んでおる? もうじき義龍めの軍勢がこの城に押し寄せる。ここは捨てて大桑城まで撤収するぞ。そこで
「「……!?」」
そこに突如また新たな人物の声が響く。それは壮年ながらも威厳に満ち溢れた声音であった。
「……! 殿……」
それを聞いた海乱鬼が戦闘態勢を解いた。戦闘の余波で荒れ果てた二の丸御殿の軒先に十人ほどの男達が立ち並んでいた。先頭にいる一人以外は全員が完全武装した武士である。先ほどの声はその先頭にいる人物が発したもののようだ。
海乱鬼……明智光秀が『殿』と呼び、義龍の事を『愚息』と呼ばわる人物は一人しかあり得ない。その顔を見た雫が呻く。
「く……齋藤……道三! 貴様まで来たか!」
(……! 斎藤道三! あれが……)
妙玖尼は目を瞠ってその人物を注視した。『美濃の蝮』という異名を持つ、先代美濃大名。元は齋藤利政という名前であったが、息子である義龍との権力闘争に敗れて
妙玖尼と同じように頭は完全に剃髪している。しかしそれ以外は仏門に入道したと分かる特徴はなく、大名として遜色ないような仕立ての良い直垂姿であった。腰には刀まで差している。そして何よりも……
(やはり……息子達と同じように外法に手を染めて人を辞めているのですね)
妙玖尼にはそれが分かった。道三の身体からは只ならぬ妖気が発散されていたのだ。息子達と比べても遥かに邪気が濃い。それだけではない。彼が引きつれている護衛の武士たちも濃い邪気を放っていた。
その佇まいから恐らく一人一人が、白川で戦った助右衛門と同等の力の持ち主と推察された。その道三がこちらを睥睨する。
「ふむ……喜平次だけでなく孫四郎も討たれたか。あやかしの力を得て尚この程度の女達に討たれるとは武士の名折れよ。この上は光秀、お前の
「……っ! 帰蝶の婿……
雫が語気荒く道三に刃を向ける。『尾張のうつけ』の噂は妙玖尼も聞いた事があった。隣国尾張大名の座を継いだ織田信長はまだ若く放蕩な性格で、ろくに政治に興味を示さずに将棋や詩文などの趣味や、新しい武器や兵法などばかりに興味を示して傾倒する暗君との噂であった。
しかし道三はそんな信長に娘である帰蝶を嫁がせており、信長は一応道三の
「ふん、さてな。だが貴様らが儂の
「……!」
道三たちの企みに乗せられた形の雫が歯噛みする。
「本来なら息子達の『仇』である貴様らは百度殺しても飽きたらぬが、今はもうじき義龍の軍勢がこの城に到達するのでな。儂らと決着を着けたいのであれば大桑城まで来るが良い。それまで貴様らの命、預けておくぞ。ゆくぞ、光秀」
「は……」
道三はそれだけ一方的に告げると武士たちを引き連れて素早く鷺山城を撤収していく。海乱鬼もその後に続く。
「あ、あなたは妖鬼なのでしょう? なぜ元は人間である道三に従っているのですか? あなたは何を企んでいるのです!?」
妙玖尼は我慢できなくなって、ついそんな疑問を海乱鬼にぶつける。海乱鬼はそのまま無視して立ち去るかと思いきや、意外にも足を止めてこちらを振り向いた。
「……とある人物に『魔王』の器を見出したのだ。かの者の底知れぬ器が完全に瘴気で満たされた時、この日の本に『魔王』が降臨する。その『魔王』の力を利用する事こそ我が目的よ」
「ま、魔王……」
その禍々しい呼称を呆然と呟く。海乱鬼の口ぶりからしてその『器』は道三ではないのだろう。だが彼が道三に従っているのは、それが結果的にその『魔王』を誕生させる事に繋がるからという事か。
「『魔王』が降臨すればこの日の本は真の地獄と化す。それを見る事無く死にたいのであれば大桑城に来い。その方が幸せかもしれんからな」
「…………」
海乱鬼もまた妙玖尼たちを大桑城に誘いつつ、鷺山城から撤収していった。既に限界を迎えていた三人はただそれを黙って見送る以外に選択肢はなかった……
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