第二十五幕 猿鬼
外道忍者たちを退けて二の丸御殿を更に奥に進む妙玖尼達一行。奥に進む程邪気の気配は色濃くなっていく。ここまで来ればもう迷いようがない。
充分に警戒しながら主室の襖を開ける。ムワッとした濃密な邪気が漏れ出して妙玖尼は顔を顰める。そこには……
「忍者共を退けるとは……お前らが喜平次を殺した連中だな?」
「……!」
部屋の上座に一人の男が座していた。喜平次の時とは違い正装の
「斎藤孫四郎。義龍様の命により貴様の首を貰い受ける。理由は説明するまでもないな?」
雫が短刀を向けて宣言する。やはりこの男が孫四郎で間違いないようだ。弟の喜平次に比べると落ち着きがあり、それなりの風格も漂っているように見えた。紅牙も奴に刀を向けて構える。
「ふん、父上の寵愛を得られなかったのは自分の不徳だというのに、その
孫四郎は雫たちを怖れるでもなく鼻を鳴らすとゆっくりと立ち上がった。意外と隙が無く、紅牙も先制攻撃を仕掛けられない様子だった。
「寵を得られなかった? 違うな。義龍様は道三に
「……っ!」
「うひゃあ……はっきり言うねぇ」
雫の痛烈な返しに孫四郎は顔を引き攣らせ、紅牙はその毒舌ぶりを面白がるように笑みを浮かべる。
「……塵芥どもが、楽に死ねると思うな。どのみち喜平次を殺し、今また不届きにも俺を狙う貴様らを許しはせんがな!」
静かな怒りを発散させた孫四郎の身体から、それとは裏腹に急激に膨れ上がる邪気を感知した。孫四郎の
筋肉が肥大して骨格そのものが変形しながら体積が増大していく。しかし外道鬼とは異なり、その身体を灰色の
脚はずんぐりと短く太く、逆に腕は胴体よりも長く伸びていく。歪な体型……いや、これは歪というよりは……
「……
紅牙が眉を上げる。そう、そこに出現したのは灰色の剛毛に覆われた、七尺ほどはあろうかという一匹の巨大な猿であったのだ。猿と言っても目は白濁し牙と角が生えていて、手には鉤爪が備わっている妖怪じみた『猿』であったが。妙玖尼にはすぐにその正体の心当たりが付いた。
「……! これは……
猿は犬と並んで古来より人間の生活に深く関わってきた動物だ。しかも犬と違って飼い慣らす事は出来ず、より人に近い姿形をしていて、人間を騙すような知能の高さと狡賢さも併せ持ち、得体の知れない存在として畏敬され、時に怖れられてきた歴史がある。
猿に関わる言い伝えや伝承は日本各地に存在しており、『
『ぐふふ……ここまで
「……!!」
瘴気の力という言葉に反応する妙玖尼だが、猿鬼と化した孫四郎がその長く太い腕で、壁に立てかけてあった巨大な
『鍛造で造らせたこの特大十文字槍。貴様らで試し斬りといくか』
「……!! 散れ!」
雫の警告と同時に孫四郎が、その人間には扱えぬ長さと重さの槍を軽々と横薙ぎに振るった。全員跳び退って躱したものの、身体が浮き上がるかと思う程の物凄い風圧が叩きつけられる。こんな物をまともに受けたら防御ごとへし折られかねない。
孫四郎が振り抜いた槍を即座に斬り返してくる。踏み込む隙がない。
「ち……妙玖尼、お前は法術で奴を牽制しろ! その間に挟撃を仕掛けるぞ。お前は左からだ!」
「わ、分かりました!」
「偉そうに……けど、言ってる場合じゃないね!」
雫が指示を飛ばしてくるが、現状他に良い作戦もないため二人とも反射的にそれに従う。妙玖尼は既に練り上げていた法術を発動する。
『オン・マイタレイヤ・ソワカ!』
『破魔光矢』を孫四郎目がけて撃ち込む。まともに当たれば外道鬼の一体程度なら一撃で消滅させる事も可能な威力だが果たして……
『ふんっ!』
孫四郎は十文字槍を薙ぎ払うと、何と法術の光を打ち消してしまった。恐ろしい剛力と妖力だ。
「そんな……!」
自身の法術をかき消された妙玖尼が絶句するが、紅牙たちが接近する隙は作れた。左右に散開した紅牙と雫がほぼ同時に挟撃を仕掛ける。二人の武器には未だ破魔の力が宿っており、孫四郎がどちらかを迎撃してもその間にもう一人の刃が届く。
『甘いわ!』
だが孫四郎は慌てる事もなく、槍を両手持ちにすると
「何……!?」
「……っ」
高速で振り回される巨大風車の迫力と風圧に二人の足が止まってしまい、奇襲は失敗に終わる。それどころか孫四郎に対して逆に大きな隙を晒してしまう。奴が容赦なく追撃してくる。
強烈な連続突き。一発でも食らったらお陀仏の死の連撃を必死に回避する紅牙と雫。だがそれによって体勢を立て直す事が出来ずに追い込まれる。そこに駄目押しの薙ぎ払い。
「が……!」「かはっ……!!」
二人纏めて薙ぎ払われて吹き飛んだ。辛うじて槍の穂先部分は避けたものの、柄による打撃だけでも相当な威力だ。二人とも背中から壁に叩きつけられて、そのまま崩れ落ちて尻餅をついてしまう。壁は大きく凹んでおり、その威力を物語っていた。既に二の丸御殿は局所的な嵐に見舞われたような有様となっていた。
『ぐふふ! 素晴らしいなこの力は! 後は
「……!!」
義龍からも忠告されていたその名前を再び聞いて妙玖尼は目を瞠った。だが正直今はそれどころではない。前衛の二人が吹き飛ばされて、妙玖尼は一時的に丸裸になってしまう。
「く……『オン・マイタレイヤ・ソワカ!』」
狭い屋内では使える法術も限られている。再び光の矢を飛ばすが、初見で通じなかったものが二度目に当たるはずもない。孫四郎は飛んできた光矢を槍で払うのではなく、素早く横に跳んで回避した。伊達に猿のような外見ではない身軽さだ。
『ぐふふ! ほれ、もっと俺を楽しませろ!』
孫四郎は飛び跳ねながら上段から何度も槍を叩きつけてくる。妙玖尼は慌てて弥勒を掲げてそれを受けるが、凄まじい衝撃にあっという間に腕が痺れてくる。
「ぐ……く……!」
堪らず膝をついてしまう。腕が痺れて、受けるのももう限界であった。あと一撃受けたら弥勒を取り落して無防備になってしまう。そして容赦なく孫四郎の追撃が打ち下ろされようとした時……
――ドス! ドスッ!
『……!』
孫四郎の背中に何本かのクナイが突き立った。雫だ。息を荒げながらも片膝の姿勢でクナイを投げたらしい。
『小虫が。このような物が今の俺に効くと思うか』
だが孫四郎の身体を覆う剛毛に弾かれたクナイは、虚しく全て床に落ちてしまう。やはり破魔の力が纏わっていない武器では碌に効果がないようだ。だが、気を逸らせる効果はあった。
「おらっ!」
『……!!』
その隙に忍び寄っていた紅牙が満を持して斬りかかる。だがあえなくその斬撃は孫四郎の槍によって受け止められた。奇襲されて尚且つ紅牙の斬撃を防ぐとは恐ろしいまでの反射速度だ。しかしそこに雫も短刀を構えて突っ込む。
短刀には破魔の力が纏わっている。これで斬れば今の孫四郎にも有効なはずだ。
『ち、雑魚どもが!』
孫四郎は忌々しげに唸ると、猛烈な勢いで槍を縦横無尽に振り回した。無秩序な乱撃だがそれ故に予測がつかず迂闊に近づけない。だがこれは逆に好機だ。
『オン・アミリティ・ウン・ハッタ!』
痺れる腕で辛うじて弥勒を掲げ、『衝天喝破』の術を発動する。『破魔光矢』のように指向性のある術ではないが有効範囲が広く、複数の敵や素早く動き回ったり暴れ回ったりする敵に当て易いという特徴がある。
『ぬが……!!』
果たして衝撃波をまともに受けた孫四郎がよろめいた。範囲が広い分威力は『破魔光矢』に劣るが、今のような状況では
「ふっ!!」
紅牙と雫がほぼ同時に動いた。図らずも最初の作戦のような左右から挟撃する形となった二人は自然と攻撃の狙いが被らないように動き、雫は孫四郎の首筋を深く斬り裂き、紅牙は孫四郎の胴体を抉り斬った。
『ゲハァァッ!!!』
「やった……!」
不浄の体液を噴き出しながら倒れる孫四郎の姿に妙玖尼は喝采を上げる。『破魔纏光』を付与された武器で同時に急所を斬り裂かれたのだ。いくら猿鬼といえども致命傷だ。
「はん……首を譲ってやったのに一撃で斬り落とせないなんて大した忍者様だね」
「刀身の長さも考慮できんのか? 貴様こそ胴体を両断できんとは、折角の太刀も宝の持ち腐れだな」
二人も決着がついた事を悟ってそんな言い合いまで始めている。後はこのまま孫四郎の死を確認して義龍の元に報告に戻るだけだ。だが……
「ふむ……義龍子飼いの女忍者か。そして、まさかここで
「「「……っ!!?」」」
全く唐突に聞こえてきた冷徹な男の声に、三者三様で驚愕に顔を歪めて振り返る妙玖尼達。だが……雫のそれは単純な驚きであったが、妙玖尼と紅牙の驚愕は雫とは種類の異なる物であった。
いつの間に、そしていつからそこにいたのか。廊下に直垂姿の一人の男が佇んでこちらを睥睨していた。まるで蛇か蜥蜴のような感情の欠落した冷たい目をしたその男の顔を彼女達は確かに知っていた。忘れるはずもない。何故なら……
「か……
紅牙が掠れた声で呻く。そう、それは確かに飛騨の紅天狗砦で撃退し、逃げ去ったはずの『妖鬼』海乱鬼であった!
だが彼女らの驚愕はそこで終わらなかった。
『み……
「え……!?」
死に体となった猿鬼……孫四郎が、助けを求めるように海乱鬼に手を伸ばしたのだ。全く
(み、光秀……!? 明智光秀……海乱鬼が!?)
妙玖尼は混乱の極致に達する。紅牙も似たようなものだ。海乱鬼はそれを否定する事無く、しかし路傍の石でも見るような冷たい目で孫四郎を見下した。
「力を与えてやっても屑は屑だったか。もういい。貴様らは用済みだ」
『……!? 光ひ……』
海乱鬼が手を振るうと、それだけで孫四郎の身体が爆発四散した。その衝撃に妙玖尼達は思わず顔を背けた。これで孫四郎は完全に死んだようだが、妙玖尼達は当然それどころではない緊張に晒されていた。
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