第十一幕 新たな始まり
そのまま勢いを駆って海乱鬼に止めを刺そうとするが……
『かァァァァァッ!!!』
「……っ!?」
海乱鬼は口を大きく開くと、何とそこから緑色をした見るからに不浄の液体を吐きつけてきた。どんな効果があるか解らず、またどんな効果だったとしても絶対に浴びるのは御免だと紅牙は大仰に飛び退って回避した。
だが海乱鬼も追撃してくる事はなく、切り落とされた腕を回収すると屋敷の壁を蹴破って外に飛び出す。そしてその背中の虫翅を大きく広げた。
『……雌鼠と思って遊びすぎたか。私はこんな所で死ぬ訳には断じていかん。この勝負は預けるぞ。次こそは我が本当の力を以って貴様らを冥府へ送ってくれようぞ』
「……! 逃げる気かい!」
海乱鬼の意図を悟った紅牙が慌てて斬りかかるが、その前に甲殻の鬼は中空へと飛び上がっていた。その背の虫翅が高速で蠢動し、海乱鬼の身体をどんどん上空へと運んでいく。もう紅牙の刀では届かない高さだ。
『オン・マイタレイヤ・ソワカ!』
後を追ってきた妙玖尼が逃げる海乱鬼に向かって光の矢を飛ばすが、奴は巧みな空中機動でそれを躱してしまう。
『無駄だ、地を這う鼠共よ。心配せずとも貴様らとはいずれ必ず決着を付けてやる。それまで精々死なぬようにな』
それだけを言い捨てて、海乱鬼は闇の夜空へと消え去っていった。
「……逃げられちまったね。流石に空を飛ばれたんじゃ追いかけようがないよ」
「残念ですが、私達も限界でした。今は瘴気溜まりを浄化できただけで良しとしましょう。元々私の目的はそれだったのですから」
海乱鬼が完全に飛び去ったのを確認して紅牙が刀を下ろして息を吐く。妙玖尼も同様に胸を撫で下ろしていた。正直体力も法力も限界であった。腕を切り落とされた海乱鬼だが、それでもまだ少し余力があるように見えた。恐るべきは妖鬼の生命力だ。
あのまま続けていたら地力の差でこちらが押し切られていた可能性も高い。あくまで奴が慎重を期してくれたお陰でこちらも命拾いしたのだ。
少なくともこの地の『瘴気溜まり』は消え去り、濃密な邪気も祓われた。これでこの地に人外共が湧く事はしばらく無いだろう。無論戦乱が続く限り邪気は発生し続け、『瘴気溜まり』が出現する下地は常に存在し続けるが、そうなったらまた妙玖尼や、同じように退魔の旅で全国を行脚している同志達の誰かが浄化するだろう。
彼等はそうやって常に全国を監視して、均衡と調和を保ち続けているのだ。それが彼等の使命であり、生業でもあった。
「何やら表が騒がしくなってきたね。恐らく奴隷に攫ってきてた連中が事態に気づいたようだね。ま、どのみち手下が皆死んじまったからあいつらを管理できないし、ここももう終わりだね」
紅牙の言葉に、そういえばここに連れてこられた時に、他にも拉致されたと思しき大勢の人達がいた事を思い出した。
「彼等はどうするおつもりですか?」
「別にどうもしないさ。のこのこ顔出したら、事態を悟った連中が一斉に襲いかかってきそうだしね。あんだけ数がいれば勝手に町まで帰れるだろ」
元々は彼等を奴隷として連行して働かせていた賊の頭目でありながら、何ら悪びれた様子なく肩をすくめる紅牙。このくらい図太くなければ賊などやっていられないのかもしれないが。
「でも帰る前に絶対に金目の物は粗方奪っていきそうだね。まあ連中に対するせめてもの罪滅ぼしに、大概の物は全部くれてやるさ。でもその前に……宝物庫に寄って、持ってけるだけの宝は確保しとかないとね」
罪滅ぼしと言いながらちゃっかり自分の分は確保しようという辺り、やはり神経が太いようだ。
「それで……あなたはこれからどうするおつもりですか?」
これからというのは勿論、この砦を落ち延びてその後どう生きて行くのかという話だ。紅牙は妙玖尼に向き直った。
「私もあんたに聞きたいんだけど、あんたはこれからも全国を回って、こうやって鬼や妖怪どもと戦うのかい?」
「……? ええ、まあ、そうですね。それが私の使命であり、生業でもありますので。『瘴気溜まり』もここだけではないでしょう。いえ、こうしている間にもこの国のどこかで新たな『瘴気溜まり』が生まれているはずです。戦乱の世が続く限り、私達の仕事も終わる事はありません」
妙玖尼はためらう事なく断言した。生業という言葉通り、最早彼女にはそれ以外の生き方など想像もできなかった。
「なるほどねぇ……」
それを聞いた紅牙はしばし何かを考え込むような仕草を取った。そしてやにわに顔を上げた。
「よし、たった今決めたよ。アタシもあんたに付いてく。あんたの戦いにアタシも協力してやるよ」
「……!!」
妙玖尼は目を瞠った。だが……驚いたのは確かだが、心の何処かで彼女がそう申し出てくるのではないかという
「おや? あんまり驚いてる様子がないね?」
「いえ、充分驚いてはいますが……一応理由をお聞きしても?」
そう尋ねると紅牙はバツの悪そうな顔で頭をかいた。
「そりゃアンタ……アタシはこの飛騨国じゃ悪名高い賊の頭目だよ? こんな事になった以上紅狼衆は解散だし、この砦も捨てるしか無い。だったら一刻も早くこの飛騨からおさらばしなきゃならないだろ?」
なるほど、それで全国を回る妙玖尼に付いていけば飛騨国から出るのにも丁度よいという訳だ。朝廷や室町幕府の権威が健在の頃ならいざ知らず、今の戦国の世であればその大名の支配領域さえ抜けてしまえばほぼ捕まる心配はない。
「ましてや尼さんのアンタと一緒してれば、まずアタシが飛騨から逃げてきた犯罪者だなんて誰も思わないだろ?」
「……私は仮にも仏門の徒ですよ? 多くの人を殺めて、その手を血に染めてきたあなたを匿うなどという悪事に加担すると思うのですか?」
「はっ! アタシにはもう解ってるんだよ。あんたはアタシが賊の頭目だと知ってて助けた。そして
「……!!」
自信を持って断言する紅牙の言葉を何故か否定できなかった。自分は犯罪者ではない。
暫くの間共闘していた紅牙は、そんな妙玖尼の『行動原理』から彼女の性質を見抜いたのだ。
「勿論只でとは言わないさ。さっきも言ったように、あんたの戦いにアタシの力を貸してやるよ。これだけでもアタシを連れ歩く対価としちゃお釣りが来るだろ?」
「…………」
悔しいがそれも否定できなかった。今までは攻撃も防御も、前衛も後衛も全て1人でこなしてきた。だが紅牙と組むことで彼女が前衛を担当してくれるようになり、妙玖尼は法術に専念出来るようになった。この効率は1人で戦っていた時とは雲泥の差だ。
複数の外道鬼を真っ向から倒せたのも、海乱鬼を撃退できたのも、全て紅牙の協力があってこそなのは間違いなかった。
「あんたとの共闘で手応えを感じたのはアタシも同じなのさ。飛騨国を無事に出られても、そのままじゃ結局賊になって人様に迷惑掛けながら生きていくしかないだろうさ。でもあんたと一緒なら妖怪退治を生業にできる。折角助かった命だ。アタシも御仏の加護って奴を信じたくなったのさ。だったらあんたに手を貸して妖怪退治に精を出した方がせめてもの罪滅ぼしになるだろ?」
罪滅ぼしという言葉がどこまで本気かは不明だが、妙玖尼にとって重要なのはそこではなかった。重要なのは彼女と組めば今まで手が出なかったような強力な妖怪や妖鬼とも戦えるようになるという点だ。結果的にそれが世のため人のためになるのは間違いないだろう。
妙玖尼はしばしの熟考の末、顔を上げた。
「……良いでしょう。確かに私にとっても利点が大きいことは事実。あなたの同行を認めましょう」
「はは! そうこなくちゃね!」
「ただし! いくつか
手を叩いて頷く紅牙に指を立てる妙玖尼。
「まず第一に、私は俗世の罪を裁く立場ではない故あなたのこれまでの罪を問う事はしませんが、流石に私と同道している時に賊およびそれに類似する犯罪行為を見過ごす事はできません。それらの犯罪行為は一切禁止させて頂きます。路銀などの問題は全国に点在する高野山系列の真言寺が我々退魔師の旅を補助してくれています。なのであなたが強盗や強奪を働く必要はありません」
「なんだい、そんな事なら勿論問題ないさ。賊ったって好きこのんでやってた訳じゃないからね。食ってくのに問題なけりゃ自分から犯罪行為に手を染めたりはしないよ」
紅牙は事もなげに請け負う。まあそれは確かにそうだろう。とはいえ倫理観や自制心が大分緩んでいるのも確かだろうから、そこは彼女がしっかり監督しなければならないが。
「後は……旅に同行させるからと言って、その……おかしな
これもある意味で絶対に釘を差しておかねばならない
「……ぷ、あはははは! 何だい、尼さん。そんなに
「……っ! ふ、ふざけないで下さい! 私は真面目に言っているんです! もしあんな事をもう一度しでかしたら、その時点で同道は終了ですよ!」
一瞬呆気にとられた表情からすぐに人の悪そうな笑みを浮かべた紅牙は、妙玖尼を揶揄するように笑う。妙玖尼は額に青筋を立てて本気で怒る。紅牙はすぐに降参という風に手を上げた。
「はいはい、冗談だよ。そんなにぷりぷり怒りなさんなって。もう賊じゃなくなるんだから、嫌がる相手に無理強いなんてしないさ。本当だよ」
「……まあいいでしょう。約束は守って下さいね」
とりあえず怒りを収めた妙玖尼はため息を吐いた。
「そうと決まったら早く宝物庫に行って金目の物を持ち出そうじゃないか。早くしないとあの奴隷達が砦に乗り込んで全部かっぱらってっちまうよ」
「あなたは何を言ってるんですか。あそこにあるものも元々は誰かから盗んだ物でしょう? 私といる時は賊は廃業だと言いましたよね? 攫われてきた人々にも生活の元手になる物が必要です。でないと彼らが新しい賊になってしまいかねません。
「う……そ、そりゃ、まあ……」
「最低限の食べ物と路銀なら私が持っています。水は沢を探して調達すれば良いでしょう。もうじき夜が明けますし、彼らに見つかる前にここを離れますよ」
自分の言葉を逆手に取られて返答に窮する紅牙を促す。もう時間がないのも確かだ。あの奴隷にされていた人々に紅牙が見つかると厄介な事になりかねない。そうなる前に人知れずこの場を離れるのが正解だろう。
「ああ、もう、分かったよ! あんたに付いてくって決めた以上仕方ないね! じゃあとっとと脱出するよ。入ってきた時に使ったそこの隠し通路を利用するよ」
ヤケクソになった紅牙が頭をガシガシと掻きながら、それでも抜け道の方に走っていく。勿論妙玖尼もその後に続く。夜が明け始めた『紅天狗砦』に、賊達が全員消えた事を悟った奴隷たちの喝采が響いてくる。砦がもぬけの殻になった事を確信したら、彼等は思う存分略奪行為に精を出す事だろう。
「未練はありませんか?」
「はっ! 所詮は仮宿みたいなモンさ。そんな感傷は持ち合わせちゃいないよ。それよりは持ち出し損ねた財宝の方が余程未練があるよ」
妙玖尼にちょっと恨みがましい視線を向ける紅牙。砦自体に未練がないのは強がりという訳でもなさそうだ。
「大変結構。それでは見つからないうちに山を下りますよ」
あとは振り返る事なく砦から離れ山を下っていく2人。元々この山を根城にしていた紅牙がいるので、下山の際に遭難する心配はしなくていいだろう。
この飛騨国を鬼の軍勢の脅威から救った者達は、その偉業に比して誰からも認められる事も感謝される事もなく、ひっそりと姿を消していった。
邪悪の気配を求めて全国を巡る妙玖尼の退魔の旅は、思わぬ同行者を得た事でより効率よく目的を果たせるようになっていく。人ならざる者共に挑む彼女らの旅に待ち受けるのは、鬼か、妖怪か、それとも……
序章 飛騨の紅天狗 完
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