第一章 美濃の蝮

第一幕 美濃国の事情

 飛騨国から南へ山を抜けると、そこはもう美濃国が広がっている。大名などが住まう都市部は南部の沿岸に近い地域に集中しており、美濃国もその北部は飛騨国とほぼ変わりない様相の山々が連なる山岳地帯であった。


 そんな美濃北部の山道を2人の女性が歩いていた。この戦国の世において女性の旅人というだけで極めて稀であったが、ましてや女性だけの連れ合い旅となるとまず皆無と言っても過言ではなかった。世の乱れは人心と治安の乱れを招く。


 大名や幕府の監視が行き届かない場所には賊や乱取りの類が横行し、金品だけでなく時には人間自体を売り物として攫うのは日常茶飯事。ましてや女性となれば死んだ方がマシと思えるほどの憂き目に遭う事も珍しくない。


 村や集落にいてさえ完全には安全と言い難いこの末法の世。それを事もあろうに女性だけで人気のない山道や街道を歩こうなど、一般的には自殺行為と言って差し支えなかった。


 しかし……鬱蒼とした山道を歩く2人の女性からは、そのような危機的状況における緊張感を微塵も感じる事は出来なかった。これは別にこの女性たちが浮世離れしていて危険を認識していないという事ではない。


 2人のいずれも、賊など襲ってきても返り討ちに出来るという自信の表れからくる態度であったのだ。



「ふぅ……ここまで来りゃもう完全に飛騨国を抜けたねぇ。これでアタシも晴れてお天道様の元を歩けるって訳だ」


 2人の女性のうち一方……紅い甲冑類とそれ以外の部分は大胆に素肌を露出した女武者『紅牙べにきば』が、呑気な口調で一息ついた。


「隣国くらいではまだまだあなたの悪名は届いている可能性があります。くれぐれも油断して迂闊な行動などなさらないように注意して下さいね?」


 落ち着いた丁寧な口調でそれを嗜めるのは、紅牙とは対象的に法衣と尼頭巾で顔と手以外に一切肌を露出した部分がない密教の尼僧『妙玖尼みょうきゅうに』だ。



 飛騨国で『瘴気溜まり』を浄化した2人は、賊の頭目であった紅牙がお尋ね者だった事もあり、人目を避けるように山中を南下して美濃国へと入ったのであった。南へと進路を取った理由は、紅牙が北の越中や越後方面に近づく事を厭うたためである。


 詳しくは聞いていないが元は越後の出身であり、そこでお尋ね者になって飛騨まで落ち延びてきた経緯があるらしい。妙玖尼としても別に越後方面に行脚の予定がある訳ではなかったので、美濃入りに異論を差し挟む理由もなかった。



「もうすぐ白川の町に着くね。くぅぅ! 飛騨の秘湯と名高い下呂を素通りしなきゃならなかったのはかえすがえすも惜しいね。一度はあそこの温泉に入ってみたかったのに……」


 紅牙が悔しげな口調で愚痴る。これまでの道中にも何度か漏らしていた。よほど名残惜しかったらしい。


「下呂は飛騨国に属していますから、お尋ね者であるあなたはどのみちゆっくりと温泉に浸かる事など出来なかったでしょう? 身から出た錆です。これに懲りたら今後は真っ当に表を歩けなくなるような真似は控えてくださいね」


 妙玖尼はにべもなく切り捨てる。仏門の徒とはいえ特に入浴が禁止されている訳ではないので、彼女は彼女で実は下呂の温泉に立ち寄れればと思っていたのである。しかし思わぬ成り行きからお尋ね者の紅牙が旅の友になってしまった為に、断念せざるを得なくなったのだ。嫌味の一つも言いたくなるというものだ。



 2人がそんな話をしながら歩いていると、山道の反対側から数人の人影が近づいてくるのが見えた。自分達と同じような旅人……ではなさそうだ。というより鎧を着ており、明らかに一般人ではない。向こうもこちらに気づいたようだ。


 その鎧を着た兵士達の顔が……下卑た表情に歪んだ。妙玖尼は内心で嘆息した。余計な問題は御免だというのに、その問題が向こうからやってくるのだ。


「おい、そこの女共、止まれ。お前達は飛騨国から来たのか?」


「こんな山道を女だけで旅するなど怪しい事この上ないな。飛騨国の間者ではないのか?」


「入念に取り調べる必要がありそうだな」


 それっぽい事を言っているが、彼等の視線は主に紅牙の甲冑から剥き出されたお腹や太ももなどに注がれている。勿論2人の顔を見てより喜悦に顔を歪める者もいた。大方滅多にお目にかかれない上玉・・とでも思っているのだろう。


 兵士のような鎧を纏っているが、本質は賊となんら変わりないようだ。妙玖尼は再度内心で嘆息した。



「……あなた方は美濃国斎藤氏の兵士の方とお見受けしますが、見ての通り私は仏門の徒で今は全国を行脚している最中なのです。この者は私が個人的に雇い入れている用心棒・・・です。私達になんら疚しい所はありません。このまま通して頂けると大変ありがたいのですが」


「さて、どうだろうなぁ? 間者は坊主や尼に変装するくらい簡単にやるだろうしな。お前が本当に三木氏の間者じゃないか、その服の下・・・までじっくり調べさせてもらわんとな」


 兵士達の好色な視線が妙玖尼の法衣の下まで見透かすように細められる。紅牙の方はもろに素肌を凝視されている。これはもうひと悶着は避けられないようだ。妙玖尼は嘆息しつつ弥勒を構えようとするが……



「まあまあ、落ち着きなって、旦那さん方。アタシらの裸を見たいって気持ちは充分よく理解できるよ」


 その時今まで黙っていた紅牙が喋りだした。全員の視線が彼女に集中する。紅牙はそこで意味深な笑みを浮かべる。


「でも……それは得策とは言えないね。実は旦那さん方の読みは半分・・当たってるんだよ。私らは確かに間者さ。でも仕えている相手は三木氏じゃなくて斎藤氏・・・だけどねぇ。勿論斎藤義龍・・・・様の、ね」


「……!! な、何だと!? 義龍様の!?」


 男達が目を剥いた。妙玖尼も最初、紅牙が何を言い出すのかと思ったが、彼女が妙玖尼にしか分からないように片目を瞑って合図してきたので、とりあえず成り行きに任せる。


「そうだよ。あんた方は……斎藤道三・・・・の私兵だろ? 義龍様の配下で重要な使命を帯びてるあたしらに何かあったら……色々と不味いんじゃないのかい?」


「……!!」


 男達の表情が明らかに強張った。だが義龍の配下などと自称して良いのだろうか。そうなると必ず……


「お前らが義龍公の手の者だと? 信用できんな! 証拠を見せてみろ。見せられるものならな!」


 男達の中で比較的冷静な者が指摘する。そう。必ず証拠となる物の提示を求められるはずだ。紅牙とてそれは分かっているはずだが……


「そりゃそうだろうね。ならこれで万事解決って訳だ」


 紅牙はニヤッと笑うと、腰の後ろに提げた巾着から何かを取り出して男達に見えるように突き出した。それは磨き抜かれた印籠であった。それを見た男達が目を瞠る。


「そ、それは、確かに美濃斎藤氏の……」


「まさか、本当に義龍公の……?」


「本当は見せるつもりはなかったんだけどね。アタシらも御隠居様・・・・と極力余計な諍いは避けるように言われてるからね。これで納得したら手打ちって事にしないかい?」


 男達の動揺に紅牙が畳み掛けると、彼等は苦虫を噛み潰したような顔で後ろに下がった。


「ち……行っていいぞ!」


「はは、お勤めご苦労さん!」


 紅牙が陽気に笑って堂々と彼等の間を通り過ぎていくので、妙玖尼も当たり前のような顔をして彼等にお辞儀すると紅牙に追随して歩き去っていった。




「あの……どういう事ですか、紅牙さん? 彼等は斎藤氏の兵ではないのですか? なぜ私達が実際には間者などではないと見抜けなかったのでしょうか? それに義龍公の間者だと言ったらまるで恐れるかのようなあの反応は……」


 男たちの姿が見えなくなってから妙玖尼が尋ねる。紅牙が苦笑した。


「全国を行脚してても流石にこんな田舎の情報までは持ってないみたいだね。『美濃の蝮』斎藤利政は去年、息子の義龍に家督を譲って隠居したのさ。ご丁寧に入道して斎藤道三と号してね」


「え……隠居ですか!? 確かまだそんなお歳ではないはずですが……」


「勿論詳しい内情までは分からないけど、まあお家騒動だろうね。特に利政と義龍は親子だけど不仲だったって話だし、利政の独断専行政治に臣下達が不満を募らせてたって話も聞こえてたからね。それで義龍と家臣共の利害が一致したって所じゃないかい?」


 すぐ隣国で賊などやっていただけあって、美濃斎藤氏の事情にもある程度詳しいようだ。


「しかし強引に隠居させられただけで本人は大人しくする気は全く無いようだね。あんな破落戸どもを雇って、息子の目の届かない場所で好き勝手させてるんだからさ。アタシが義龍公の印籠を持ってて良かったよ」


「あの印籠はどこで手に入れたのですか? 贋作にしてはよく出来ていましたが……」


 妙玖尼が尋ねると紅牙は人の悪そうな笑みを浮かべた。


「ありゃ贋作じゃなくて本物だよ。半年くらい前にアタシ達の縄張りを通りかかった身なりの良い連中がいてね。金目の物を置いてけば命は助けてやるって言ったのに抵抗してきやがるからさ」


「……なるほど、それで皆殺しにして身包み剥いだ中にあの印籠があった、と」


 話の流れからするとそういう事だろう。当時賊だった紅牙は斎藤氏の御家人を強殺していたという事だ。妙玖尼は額を押さえて天を仰いだ。この場は紅牙の機転で切り抜ける事が出来たが、これが露見したらもっと厄介な事になってしまう可能性がある。



「まあ細かいことは気にしなさんな。案外その場その場で何とかなるもんだって! お、そう言っている間に町が見えてきたよ! あれは白川の町じゃないかい!?」


 呑気な調子で妙玖尼の背中を叩く紅牙は、山間の向こうに見えてきた人里に目を輝かせる。そんな彼女を見やりながら妙玖尼は再び嘆息するのだった。

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