第九幕 『瘴気溜まり』

「これが法術ってやつの威力かい。おっかないねぇ」


 消し炭になった変異体を見ながら紅牙べにきばが呟く。


「法術を用いる相手は鬼や妖怪など人ならざるモノだけです。人に対して使う事はないのでご安心を」


 妙玖尼みょうきゅうにも弥勒を収めながらホッと息を吐く。思わぬ不覚を取ってしまった。正直紅牙が加勢してくれなかったら少々危なかったかも知れない。


「でも……どうだい、尼さん? アタシを助けて良かっただろ?」


 するとまるで彼女の心を読んだかのように紅牙が話しかけてきた。若干揶揄するような口調だ。


「それは……ええ、そうですね。あなたが一緒で助かりました」


 妙玖尼は溜息を吐きつつ素直に認めた。ここまで無事に潜入できたのもそうだし、その剣術の腕から『破魔纏光』を付与することで思わぬ戦力ともなった。あそこで紅牙を助けていなかったら、ここまで順調に事を運べていなかった可能性が高い。



「はは、分かってもらえりゃそれでいいさ。じゃあさっさとその『瘴気溜まり』とやらを処理しちまうかい?」


「そうですね。急ぎましょう」


 今の戦闘の音を聞きつけて他の敵が寄ってこないとも限らない。早く祓ってしまうに越した事はないだろう。2人はそのまま屋敷の中に踏み込む。屋敷と言っても所詮は山城の敷地内にある建物。そう大した広さがある訳でもない。


 入ってすぐに、中央に囲炉裏が据え付けられた広い板張りの座敷があり、その奥に襖で仕切られた部屋があった。もうここまで来ればはっきりと分かる。あの襖の奥から非常に強い邪気を感知できる。あそこに『瘴気溜まり』があるのは間違いない。


 2人は土足で無遠慮に座敷を横切ると、襖を思い切り開いた。そこは床机の上にいくつもの書物が並べて置かれている小さな部屋であった。海乱鬼の書斎的な空間だと思われる。


「……!」


 そこに、あった。


 部屋の隅にもう一つ丈夫そうな台があり、その上に……全ての光を吸収してしまうような黒一色の岩が置かれていたのだ。大きさは人一人が何とか抱えられるくらい。何か磨かれた鉱物のように光沢を放っている訳でもない。それはまるでそこにぽっかりと黒い穴が開いているかのような、一切の濁りなき暗黒を塗り固めたような物質であった。


 見た目の不気味さだけではない。それは今この瞬間も濃密な邪気を発散し続けており、邪気を感知できる妙玖尼としてはいるだけで気分が悪くなるような代物であった。これはこの世に存在してはいけない物だ。それが本能的に分かる。


「これだよ。アタシが言った黒い岩ってのは。これが『瘴気溜まり』ってやつなのかい?」


「ええ、間違いありません。これがこの地にあやかし共を呼び寄せ、あの外道鬼共を作り出した源泉です。すぐに浄化を始めましょう」


 『瘴気溜まり』は見つけ次第即浄化しなければならない。そして固体化した瘴気溜まりは尋常な手段では絶対に破壊できない。法力による浄化しか瘴気溜まりを消す方法はないのだ。妙玖尼は弥勒をその場に突き立てると、浄化のための儀式を行おうとする。だが……



「――鼠のように逃げ散ったかと思えば、『餌』を求めて再び侵入し、事もあろうに私の屋敷に入り込んで『餌』を食い散らかす。貴様らこそ人に非ざる雌畜生よな」



「……っ!!」


 冷酷な中にも怒りを湛えた声に2人は驚愕して振り返った。屋敷の入口にあの海乱鬼が立っていた。開け放たれた入り口の向こう側には大勢の外道鬼の姿も見える。


「か、海乱鬼……!」


「既にここは完全に包囲されている。貴様らに逃げ場はないぞ、雌鼠共」


 紅牙が思わず身構えるが、海乱鬼は冷徹に告げる。この状況からして恐らく事実だろう。流石に敷地内であれだけ派手に戦闘して気づかれないはずがなかったのだ。


「これから高山の街を攻める作戦で忙しいのだ。いつまでも貴様らごとき鼠にかかずらっている暇はない。早々に駆除させてもらおうか」


 海乱鬼が手を上げて合図すると、後ろに控えていた外道鬼どもが屋敷に入り込んでくる。数は三体。屋内なのでそれだけに留めているのみで、当然『包囲網』を敷いている鬼どもは大量に控えている。



「お、おい、尼さん! どうすんだい!? 流石にこんな数じゃ勝ち目はないよ!」


 刀を構えた紅牙が焦燥に満ちた様子で問いかけてくる。外道鬼共は二百体近くいるはずで、当然まともに戦う事など不可能だ。妙玖尼は即座に決断した。


「やむを得ません。『オン・ニソンバ・バザラ・ウン・ハッタ!』」


 法術『破魔纏光』を再び紅牙の刀に宿らせる。


「私は今よりこの『瘴気溜まり』を祓う法術に全霊を注ぎます。申し訳ありませんがその間、あなたは奴等を何としても足止めして下さい」


 ここで妙玖尼たちが助かる方法はそれしかない。今迫ってきている三体を首尾よく倒せても、順番待ちの敵が列を成している状態だ。すぐに限界を迎えるのは間違いない。


 それよりは『瘴気溜まり』を祓えば、それに依存している外道鬼どもは即座に全滅するはずだ。それに賭けるしかない。


「わ、分かった。それしかないようだね。なるべく大急ぎで頼むよ!」


 紅牙は顔を歪めながらも覚悟を決めたように外道鬼達に向かっていく。勿論妙玖尼は余計な問答なく即座に法術の発動に取り掛かる。発生したばかりの黒い靄のような物ならともかく、この『瘴気溜まり』は既に形を得るまでに凝縮されており、それを祓うとなったら相応の法力を込めた術でなくては不可能だ。


 そしてその法力を溜めるにはどうしても暫しの時間がかかり、しかもその間は無防備になってしまう。この上は紅牙と一蓮托生で命を預ける他なかった。


『ノウマク・サンマンダ・ボダナン……』


 あえて外界から意識を遮断し弥勒をその場に突き立てると、法術の発動に全身全霊を傾けて真言を唱えていく。




『ギヒャヒャヒャ!!』


「く……!」


 外道鬼の一体が刀を振り下ろしてくる。それを何とか躱した紅牙は反撃しようとするが、即座に別の外道鬼が文字通り横槍を入れてくる。人間離れした膂力で繰り出される槍は極めて高い威力と速度を誇る。紅牙としても軌道が見えていたとしても、刀で逸らしつつ受けるのが精一杯だ。


 二体の外道鬼を相手に苦戦する紅牙。しかし敵はもう一体いる。残った敵の注意が奥にいる妙玖尼に向きかける。


「あんたの相手はアタシだよ!」


 あえて大声で注意を引き付けながら斬りかかる。そいつの注意が妙玖尼に向いていた事が幸いして斬撃が当たる。妙玖尼の法術が宿った刀は外道鬼の身体を容易く斬り裂く。


(本当に癖になる威力だね! 大したもんだよ、法術ってのは! でも……流石にこの状況はちょっと厳しいね……)


 襲いかかってくる他の二体の攻撃を避けながら紅牙は内心で唸る。一体倒したが、即座に『順番待ち』の連中から新たな一体が乱入してきた。外は二百体近い外道鬼たちに包囲されているのだ。文字通りキリがない。


「何を遊んでおる。さっさと殺せ!」


 苛立った海乱鬼が怒鳴る。自分達を作り変えた主人・・の命令に鬼どもは猛って、攻撃が激しくなる。ここが広い屋外であったら紅牙は3対1の状況に耐えきれずに討たれていたかもしれない。


 だが屋敷の広間とはいえ、所詮は屋内。鬼どもは巨体も相まって自由な挙動を制限され、同時に襲いかかる事がし辛い状態となっていた。そのため紅牙は常に一体だけを相手にする位置取りをしやすく、何とか耐えられている状態であった。


 業を煮やした外道鬼の一体が強引に掴みかかろうと接近してくる。確かに屋内であればその方が有効だ。そして密着されてしまえば紅牙は膂力の差で鬼に捻り潰されるのみ。しかし……


「馬鹿だね!」


 通常であればそうだったかも知れないが、今の彼女は妙玖尼の法術によって鬼に対して無類の攻撃力を保持している状態だ。そんな彼女に強引に接近しようとすれば……


『ギエェェェッ!!?』


 破魔の光を宿した蜥蜴丸の刀身が、停滞なく外道鬼の肉体を貫き斬り裂いた。心臓を貫かれた外道鬼は断末魔の悲鳴を上げて崩れ落ちる。しかしそうすると即座に新たな外道鬼が投入される。常に三体の外道鬼を相手にしている状態を維持させられていた。



「はぁ……! はぁ……!! ふぅ……! はぁ……!!」


 紅牙は肩で激しく息をして、必死に呼吸を整えようとする。外道鬼三体を相手に常に立ち回りを意識しながら戦い続けているのだ。体力気力の消耗は著しいものがあった。甲冑から剥き出しの素肌は汗に濡れ光り、額や頬を伝う汗もひっきりなしに流れ落ちる。だがそれを拭っている暇さえない。


『グギャァァァ!!』


「っ!」


 外道鬼が二体同時に襲いかかってくる。一体を斬っているともう一体の攻撃への対処が間に合わない。紅牙はやむを得ず受けに回って回避を優先する。だが彼女が回避した着地点を狙ってもう一体の外道鬼が槍を突き出してくる。


「しま……っ!」


 敵の攻撃を躱した直後を狙われた為、上手く対処する事ができず、辛うじて攻撃自体は躱したものの、体勢を崩してその場に尻もちを付いてしまった。


「今だ、殺せっ!」


 海乱鬼の指示と共に、外道鬼が再び襲いかかってくる。紅牙は疲労もあってすぐには立ち上がれない。尻もちを付いた体勢では到底回避は間に合わない。


「……っ!!」


 もはやこれまで、と観念して思わず目を瞑ってしまう紅牙。だが……覚悟していた死の斬撃は中々降ってこなかった。


「……?」


 恐る恐るという感じで目を開いた紅牙は、今度はその目を大きく見開いた。


「な……」


「これは……まさか!?」


 紅牙の唖然とした声と海乱鬼の驚愕した唸り声が重なる。外道鬼の動きが止まっていた。いや、正確には動いている。だがそれは身体を小刻みに震わせる苦悶の振動であった。紅牙の前にいる連中だけではない。屋敷を包囲している外の外道鬼どもも軒並み悶え苦しんでいるのだ。


 心当たりは一つしか無い。紅牙と海乱鬼の視線が共にある一点に向く。



『ノウマク・サンマンダ・ボダナン……』


 そこには一心不乱に真言を唱える妙玖尼の姿があった。心なしかその体全体が光を帯びているように見えた。彼女の法力は光の帯となって真っ黒い岩……『瘴気溜まり』を取り巻いて明滅している。


「馬鹿な……形を得るまでに成長した『瘴気溜まり』を、1人の人間が祓うというのか!?」


「こ、こりゃ凄いねぇ……」


 呆然と呟く2人の構う事なく、無我の境地にある妙玖尼は更に法力を高めていく。


「……っ! やめろぉぉっ!!」


『――オン・マリシエイ・ソワカ!!』


 海乱鬼がそれまでの余裕や冷静さをかなぐり捨てたように叫んで屋敷に乗り込んでくるが、その前に妙玖尼の法術は完成していた。


『瘴気溜まり』を祓うための大掛かりな儀式法術『浄天常地』。発動には時間がかかり大きな隙を伴うが、その場に蟠る邪気や瘴気を確実に祓う、非常に強力で有用な法術であった。


 その法力を一身に受けた『瘴気溜まり』は一溜まりもなく、眩い光に覆われて完全に消滅してしまった。同時に全ての外道鬼どもが苦悶の末に血反吐を吐いて死んでいく。生命源たる邪気を失った鬼や妖怪の末路だ。人に非ざる力を手に入れた、極めて大きな代償とも言えた。


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