第五幕 弥勒
時は僅かに前に遡る。地下牢に放り込まれて鎖で繋がれた
(……見張りはいないようですね。まあ普通なら脱獄される心配もそうそうないのでしょうが……)
彼女を閉じ込めておくには少々不用心であった。目を閉じ、丹田に力を込めて瞑想する。
法術は基本的に妖怪の類いを滅する為の力ではあるが、人や物体に対しても効果がない訳では無い。そのため彼女が修行してきた高野山でも繰り返し、自衛以外で無闇に人や動物に対して破壊的な法術を用いないよう課せられる。
『……オン・アミリティ・ウン・ハッタ』
小さく真言を唱える。すると妙玖尼の内から法力が波動となって放出され、彼女を拘束していた鎖が弾け飛んだ。妙玖尼は服の埃を払い落とすと立ち上がり、牢の扉の前に歩み寄った。そして扉を施錠している錠前に手を翳す。
『オン・アミリティ・ウン・ハッタ!』
再び同じ呪言を唱える。ただし今度は先程よりもやや強めの法力だ。彼女の手の先から光の波動が放出され、頑丈そうな錠前が壊れ飛んだ。牢は開いたが少し大きな金属音が鳴ってしまった。妙玖尼は今の音を聞きつけて誰か見張りが降りてこないか緊張した。
「…………」
とりあえず誰も来る気配はない。妙玖尼は息を吐いて気を取り直すと、扉を開けて牢から出る。
(さて、次は『
弥勒とは彼女が愛用している錫杖である。高野山から退魔の旅に出る際に師より授かったもので、彼女の法力との親和性が非常に高い仏具である。それ自体が棒術による護身具になる上、彼女が扱う法術の効果を高める媒体としての役割もある。弥勒があるのとないのとでは雲泥の差だ。
弥勒には妙玖尼自身の法力が付与してあり、離れた場所にあってもその所在が分かるようにしてあった。まさにこのような状況を想定しての対策だ。
その感覚によると弥勒はここからそう離れていない場所にある。恐らくこの紅天狗砦の内部だ。
『……オン・タラク・ソワカ』
砦の地上階に通じる出入り口の前で索敵用の法術を発動させる。周囲の邪気や妖怪の気配を探るための術だが、人や動物の気配を感知するのにも役立つ。とりあえず扉の前に人はいないようだ。大広間のような場所があり、そこに大勢が集っている。何らかの会議でもしているのだろうか。こちらには好都合だ。
極力物音を立てないように忍び足で砦内部を進む。特に侵入者も想定されていないからか、廊下などに巡回の兵士はいないようだ。程なくして彼女は弥勒が所在していると思われる部屋の近くまで到達した。
他の部屋よりもやや造りが立派な金属の扉が据え付けられていた。恐らくは宝物庫の類いか。だが厄介な事にその扉の前に、槍を持った見張りが1人立っていた。弥勒さえあれば兵士の1人くらいどうという事はないが、その弥勒を取り戻すにはあの兵士をどうにかする必要があるというジレンマだ。
(やむを得ません。相手は賊です。師よ、お許しを……)
心の中で自戒を破る懺悔をすると、妙玖尼は角に隠れた状態でわざと床を大きく踏んで物音を立てる。
「……! ん? 誰だ……?」
当然気づいた賊が胡乱な声を上げるが、妙玖尼はそれには応えず再び物音を立てる。流石に不審を抱いたらしい賊が槍を構えて近づいてくる。その気配を感じ取って妙玖尼は法力を高める。不意打ちできる機会は一度きりだ。
法力を高め、賊を充分に引き付けてから、妙玖尼は一気に角から飛び出す。
「おわっ!?」
『オン・アミリティ・ウン・ハッタ!』
急に飛び出してきた場違いな尼僧の姿に賊が驚く。大きな隙だ。妙玖尼は両手を突き出すようにして真言を唱える。その手から強烈な光の波動が迸った。
賊は身体をくの字に曲げて吹き飛んだ。そのままうつ伏せに倒れ込む。起き上がってくる気配はない。完全に気絶しているようだ。奇襲は上手く行った。見張りが1人で助かった。もう1人いたら無手で立ち向かわねばならない所だった。
とりあえず今の一幕を聞きつけた誰かがやってくるような気配はない。しかしいつ誰が通りかかるとも知れないので急いだ方がいいだろう。金属の扉は施錠されていたが、牢を開けた時と同じ法術をぶつけると錠前が弾け飛んだ。
「……!」
扉を開けると案の定そこは宝物庫であったようで、かなりの量の銅銭や銀銭が無造作に木箱に詰められており、他にも金の塊と思われる鉱物や宝飾品、宝石の類いも見受けられた。またそれだけでなく刀や槍といった武器も立て掛けられていた。恐らく『戦利品』だろう。そしてその中に……
「あった……!」
見間違えようのない愛用の錫杖……弥勒が無造作に木箱の上に置かれていた。妙玖尼は躊躇いなく弥勒を手に取る。馴染みの深い感触や重量に安心する。
「っ!?」
だが……次の瞬間、彼女は背後に
先程法術で昏倒させたはずの賊兵が起き上がっていた。そしてまさにその賊から邪気を感じるのだ。男の顔が醜い笑みに歪み、その目が赤く光る。
「……! お前は……まさか!?」
妙玖尼は男の
「やはり……『外道鬼』!!」
罪人やならず者が邪気に侵される事で変じる『鬼』の一種。まさに人が連想する『鬼』という存在の代名詞的な種類で、その力は常人を遥かに超える。
『グギギ……オ、女……ウ、美味ソウダナ……! ク、食ワセロ。犯サセロォォォ……!』
「……っ!」
外道鬼は赤く発光する目をギラつかせて、醜い牙が生え並ぶ口から涎を垂らしながら飛びかかってくる。狭い部屋で逃げる余裕がない。錫杖を振り回して大立ち回りも出来ない。
「く……真言界壁!!」
早速取り戻した弥勒を床に突き立てて、目の前に法力で出来た光の壁を展開する。外道鬼が構わず光の壁に突進してくる。巨大な質量が衝突する。
「ぐっ……!!」
衝撃が伝播し身体を揺さぶられる妙玖尼。もし弥勒がなかったら一撃で障壁が破られていただろう。
『グガァァァァァッ!!!』
外道鬼は狂ったような雄叫びをあげて光の壁に殴り掛かる。その度に凄まじい衝撃で身体が揺さぶられる。このまま防御しているだけではジリ貧だ。いずれ必ず破られるだろう。そうなる前に反撃しなくてはならない。
外道鬼の攻撃を防ぎながら、一方で攻撃用の法力を練り上げる妙玖尼。攻撃と防御両方に法力を割いている状態で精神力が物凄い勢いで削られていくが、それに焦る事なく極力冷静に法力を練り上げていく。
外道鬼は連続で拳を叩きつけてくるが、必ず攻撃と攻撃の合間に隙がある。奴が拳を打ち付けて、次の攻撃を繰り出そうと振りかぶった瞬間――
(――今!!)
『オン・マイタレイヤ・ソワカ!!』
光の障壁を瞬時に解除して、溜めに溜めた法力を乗せた弥勒を突き出した。錫杖の先から光の輪が射出され外道鬼を包み込んだ。
『グガッ!? ギゲオォォォォォォッ!!!』
退魔の法力が込められた光の輪は、邪なる鬼を内外から焼き尽くす。外道鬼は苦悶の叫びと共に消滅していった。
「……ふぅ、何とか打倒できましたね。しかし賊が外道鬼に変じるとは。よもやここにいる賊共は皆既に……?」
息を吐きつつも悪い想像に眉根を寄せる妙玖尼。あの見張りが特別な存在だったようには見えない。それがこのように鬼に変わったからには、恐らく他の賊共も既に外道鬼と化している事だろう。
(……あの
基本的に邪気に侵され鬼に変じるのは男だけだ。そして鬼は絶対に人には御せない。もしこの外道鬼の裏にいるのがあの海乱鬼という男だとすると、紅牙は何も知らず利用されているだけで、用済みとなったら殺される可能性が高い。
「…………」
妙玖尼は自分に迫ってきた妖艶な女武者の姿を思い返した。女の身でありながら賊に身をやつしていたのは何かやんごとない理由があるに違いない。賊といえども人だ。少なくとも鬼や妖怪に襲われているようであれば助けるのも吝かではない。
妙玖尼は先程感知した、大勢の人の気配が集っている部屋を目指して進む。と、その途中で異常を感知した。その部屋に集まっている人間達が一斉に邪気を発散し始めたのだ。これは先程の外道鬼と同じものだ。やはりここの賊達は全員既に鬼へと変じていたのだ。
隠れながら進み目的地の広間へと到達すると、そっと様子を窺う。そこには彼女の予想通り、大勢の外道鬼が
「……!」
海乱鬼は誰かに対して饒舌に話していた。よく見ると鬼達に包囲される形であの紅牙という露出甲冑姿の女武者がいた。やはり彼女は何も知らなかったようだ。女は鬼には変じない。このままでは彼女は鬼共に嬲り殺しにされるしか道はない。
海乱鬼はあの外道鬼共を使って、高山の街を攻める計画を立てているらしい。放置すれば高山は地獄絵図となるだろう。魔を祓う妙玖尼の使命としても、この鬼共や海乱鬼を放置する訳にはいかなかった。その
彼女は法力を高め弥勒を突き出した。
『オン・マイタレイヤ・ソワカ!』
錫杖の先から法術の光輪が放たれ、こちらに背を向けている最寄りの外道鬼の一体を包み込んだ。そして有無を言わさず消滅させてしまう。
「……! 何者だ……!?」
海乱鬼や鬼達が一斉にこちらに視線と注意を向ける。それだけでなく絶体絶命の危機にあった紅牙も、開いた包囲の穴からこちらを見て目を瞠る。
「な……あ、あんた……」
「……凡その事情は察しました。言いたい事は色々ありますが、今はまずここから脱出する事を優先しましょう」
魔を滅する妙玖尼の使命を果たす、そして生き残りを懸けた戦いが始まった。
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