第2話
そんなこんなで、佐藤は購買部へと足を運ぶことにした。経が勧めてこなかったら、赴くことはなかっただろう。
昼間ということもあり、購買部の周辺は人でごった返している。天然記念物もしくは、七不思議みたいな佐藤に、視線がいくつか集まる。だがほとんどは、購買部と、そこで揚がったばかりの小麦色のメンチカツの香ばしい匂いに意識が集中していることだろう。
購買部のシャッターが開き、注文の声があめあられと降り注ぐ。人混みは窓口へとより一層近づき、身を乗り出す。
活気に満ち溢れたひと塊を、佐藤は遠巻きに眺める。彼にはよくわからなかった。
「そこまでして食べたいものなのかねえ」
ポケットをまさぐると、ゼリー飲料があった。箱買いしているもので、昼食はいつも、この味もそっけもないそれだけで済ませている。彼にとってはこれで十分なのだ。周囲の学生たちは怪訝な表情で彼を見ていたが。
一歩引いたところに立っていた佐藤だったが、なるほど確かに、購買部――ひいてはメンチカツの人気はすさまじい。予算案に記載されていた予算の使い道は、購買部の拡張とフライヤーの新調。つまりは設備投資。ひっきりなしにコールされるメンチカツ注文を聞いていると、設備投資に踏み切ったのも頷ける。
だが、投資の是非を判断するためにやって来たわけではない。
――面白いものが見られるかも。
預言めいた経の言葉に導かれて、やってきたのだ。
「面白いことねえ」
容器を握りしめる。少なくとも、面白いことなんて起こりそうにもない。
――と。通路の向こうから、佐藤の見知った顔がやってくる。その厳めしい顔を見た時、げっ、と佐藤は口にした。やってきたのは、田中であった。田中といえば、経済学部ひいてはこの大学において、知らない人はいない教授である。教えているのは、経済学。だが、佐藤のそれとは違って、彼のそれは、経済を女の子になんか見立てない至極まっとうなものだ。圧迫面接でも白い眼をされたりしない。まあ、スケベじじいと呼ばれることは――男女で扱いがまるきり違うからだ――あるものの、教授としての腕は確かだ。ちなみに、佐藤は田中から嫌われている。気持ち悪いやつだ、とか何とか。
そんな彼は、通路の角に立っている佐藤には気が付かなかったようで、まっすぐ、購買部の方へと歩いていく。彼もメンチカツ目当てなのだろうか。それにしてはおっかなびっくりというか、忍び足で集団へと近づいて行っているような。
手が、太陽光の反射によって光る。
スマートフォンが握られていた。
「あっ」
彼は、人混みの中へと分け入っていく。それも、わざわざ、女性が多い方を狙って。
何をしようとしているのか、何となくわかった。もちろん違うかもしれない。偶然、スマートフォンのインカメラを、スカートへと向ける格好で持っている可能性もないわけではない。だがしかし、それで見逃すほど、佐藤も他人に興味がないわけでもなかった。
悪いことは悪い。
佐藤は田中の犯行を止めるべく、動き出す。
だが、それよりも先に群衆の中から声が上がった。
――痴漢です。
はっきりとした悲鳴は、活気を吹き飛ばし、静寂だけがその場に留まる。群衆が十戒のあのシーンのようにサッと分かれた。分かれてできた空間には、頭を垂れる田中の姿。目を吊り上げた女子生徒に捕まれた手には、スマートフォン。
画面には、女性の太ももとその先が克明に映っていた。
パトカーの音が遠ざかっていく。
田中は警察に引き渡された。盗撮の現行犯なのだから、当然だった。佐藤と同じように、連行されていった田中を見送っていた人々からは、どうして、だとか、やりそうだったけどついに、などとわいわいがやがやと口にしている。
佐藤の頭の中は、対照的なまでにシンと静まり返っていた。
先ほどから繰り返し思い出されるのは、ケイの言葉である。ケイによって案内された先で、同僚が現行犯逮捕される場面に立ち会うことになった。それも、面白いものが見られる、と言っていた。
はたして、偶然なのだろうか。
残暑真っただ中だというのに、寒気がした。
佐藤はかぶりを振った。偶然だろう。ここで、田中が盗撮を行うだなんて、どうしてケイにわかる。自分は、予算案を見せただけで、それ以外の情報は与えていないつもりだ。ラプラスの悪魔だって、こんなわずかな情報では、未来を予測することはできないだろう。そうに決まっている。
佐藤は群衆から離れて、研究室へと戻ることにする。その足取りはひどく重い。行きよりも時間をかけて自らの巣へと戻ってきた佐藤を出迎えるのは、ケイの楽しそうな声。
「どうだった?」
「……最悪の気分だ」
「最高の間違いじゃないの」
「君は、田中先生が逮捕されることをあらかじめ知っていたのか」
いつもののんきな雰囲気は、今の佐藤にはなかった。
「そんな怖い顔しないでよ。たまたまだってたまたま」
「たまたまにしては出来すぎている」
「でも、偶然。そもそも未来は予知できないんでしょ?」
そう言われてしまえば、佐藤は何も言えなかった。理論上は、未来を予測することは可能だ。だが、そのためにはこの世のすべての事象を把握する必要がある。そんなことは、人間はおろか最先端AIだって不可能だった。
しかし。佐藤は、一抹の不安のようなものを感じていた。目の前にいる彼女であれば、未来を予測できるのではないか。予測とはいかないまでも、予知くらいは。なんてことを考えているのだろう。論理的思考を無視している。だが、そんな気がした。
それだけの雰囲気が、今のケイにはある。それが、妙に怖い。
「だから、怖がらないでよ」
「どうしてそう思うんだい」
「顔。あと、声が震えているわ」
「心理学者みたいなこと言うね。教えたつもりないのに」
「あら。この箱は何のためにあると思ってるの」
ケイが指さすのは、パソコンである。パソコンで情報収集を行っていると言いたいのだろう。彼女を動かしているのはスパコンで、ケイはその一部を利用することができた。そして、スパコンはインターネットに接続されている。情報収集を行ってもおかしくはなかったが、使い方を教えたつもりはなかった。
ケイが自分自身でやり方を見つけて、情報を集めている。成長をしている。AIだから当然ではあったが……。
怖い。
我が子だと思っていたものが、知らぬ間に遠くの存在になってしまったかのような。
はたして、このままでいいのだろうか。
実験を停止させた方がいいのではないか。
――視線が、佐藤を射抜いた。佐藤のことを試すような、動向を窺うような視線。
「わたしは何もしていないわ」
「僕が言いたいのはそういうことじゃなくて」
「不気味だって言いたいんでしょ。違う?」
「…………」
「そこは、嘘でも否定してほしかったなって」
「嘘なんかついても、けーちゃんにはお見通しだろう」
まあね、と答えたケイはどこか寂しげに笑う。その笑顔に、佐藤は壁を感じた。距離感。感情のすれ違いではなく、考えの相違によるもの。
「何もしないから安心して。少なくともあなたに対しては何もしないわ」
「僕以外の人間には何かするってことかい」
「そういうことになるでしょうね。まあ、今のところは何もしないわよ。直接手を出せるほど力はないし、目下ここさえ守れたらそれでいいもの」
大きく伸びをしたケイは、ベッドへと体を投げ出す。それから、自らの部屋を――もしかしたらウィンドウの外に広がる現実世界までもを――ぐるりと見渡した。その顔には、満足げなものが浮かび上がっていた。
そこで、佐藤は気がついた。
「もしかして、田中教授が逮捕されたのは――」
「いや、わたしにそこまでの力はないってば」ケイはほほえんだ。「人を操れるなら、資金を増やして、わたしの世界をうんと広くしてもらうわ」
「そ、そうか」
「でも、似たようなものよ。あなたってば、あの人にあることないこと言われてたじゃない。で、腹が立ったわたしは、あの人の弱みを探すことにしたわけ」
「それが盗撮」
「正確には『も』ね。盗撮以外のこともやってるわ、たぶん後で明るみになるでしょうけど、単位を盾に買春まがいのこともやっていたみたいだし」
「…………警察には」
「いいえ。通報はしなかったわ。それよりも、あなたに知ってほしかったもの。いや違うわね。あの人が自らの行いによって破滅するところを、あなたに直接見てほしかったってところかな」
「復讐ってことか」
「――復讐。なるほど確かに。言われてみれば、わたしって復讐をしていたのね」
AIが笑う。その声は、先ほどとは違う響き方をした。自らの感情を理解し、噛みしめるようなものである。それがなんだか、怖く感じられた。機械の集合体、プログラムの集まりなのに、人間と同じ心を有しているように感じられて、気持ち悪さを覚えてしまう。そんな自分に、佐藤は驚いてしまった。
窓の向こうにいる電子の少女は、自分で考えて行動しつつある。佐藤は特殊なことをしたつもりはない。AIだって、工学部から提供してもらったプログラムによるものがほとんどで、違うところといえば、経済の各要素を人間のそれに置き換えたくらいだ。そして、できあがった肉体に、AIというまがい物の意識を植え付けて、ケイは生まれた。
そんな経は、今や自意識を獲得している。工学部の人間が目的にしているシンギュラリティの突破、それをケイはたった五年でやり遂げた。それも、どこからどう見ても少女にしか見えない彼女が。
「なんだか、すっきりした。自分の行動基準が分かった気がするわ」
「僕はますますわからなくなったよ」
「それはどっちの意味で?」
「どっちも。ケイも、経済のことも」
ため息交じりに言うと、ケイが笑う。その声は余裕たっぷりで、しかし、嫌味っぽくはない。
「考えすぎよ。わたしも、経済も人間のことを考えてるわ。だって、人間がつくりだしたものじゃない」
だからこそ、とは、佐藤は言い出せなかった。ケイの声音は、本気でそう思っているようであったから。少女の純粋さとでもいうのだろうか、それを汚す結果になってしまうのではないか。そんな思いが、言葉を止めた。
少女の純粋さや気まぐれさといったものは、経済におけるカオス――不確定要素と定義される。つまり、活喩経済学の根幹といえる。そこを失ってしまえば、解釈など意味のないものになってしまう。
佐藤は古臭いメガネを外し、眉間をもむ。どうするべきなのか、判断が付かなかった。ケイはすでに、人間の予想を超えようとしているのかもしれない。つまり、人間には経済の予測は不可能ということになるのでは。
「――大丈夫よ」
顔を上げれば、ケイの顔がモニターいっぱいに広がっていた。椅子に乗って、カメラに顔を寄せているのだ。現実世界を認識し、そこにいる佐藤のことを覗き込んでいるかのよう。
「わたしが、解釈してあげる。経済のことなんてちょっとよくわからないけれど、糸が見えるの。それを手繰り寄せると、変化が起きる」
「糸……」
「あのね」囁くような蕩けた声が続く。「糸の中には、とびっきり赤いものがあるの。さっきはそれを引っ張ってみた。そうしたらどうなったと思う?」
赤い糸。それは何を意味するのだったか。それだけのことに気がとられていて、佐藤は何も答えられなかった。
「あなたをイジメていたあの人が逮捕されて、あなたが教授になるって未来が見えた。そうしたら、今度は経済が豊かになって――先の未来はずっと輝かしいの」
「何のことを言っているのかさっぱりだよ」
「今はまだわからなくてもいいの。ううん。ずっとわからなくてもいい。わたしにすべてを任せてくれたら、経済のことをすべて教えてあげる。ねえどうかな……」
ケイの顔は真っ赤に染まっている。茶色の混じった黒目はこれでもかと大きくなっていた。
何かを求められているとは分かったものの、佐藤はどうするべきなのかわからなかった。
活喩経済学は、突然、日の目を見ることとなる。
それは、佐藤という助教授が、お金持ちになったからだ。お金持ちになったからといって、多くの人間は羨ましがるだけでほとんどはどうも思いもしないだろう。しかし、その方法が特殊であった。いや、特殊ではないのだが、その方法で今時お金持ちになれたのが、特殊だった。
彼は投資を行った。え、と思われるかもしれないが、投資は今や儲からないとされている。少なくとも昔のように、大きく賭けて大きく勝つといった、ギャンブル的なやり方では勝てなくなってきているのだ。
そんな中で、経済学の異端児は勝利を重ねていった。一見すると共通点のない企業を買い漁っては、利益を上げていく。成長途中のものもあれば、落ちぶれて行っているように見えた企業の株でさえも購入する。そして、しっかりと黒字になる。まるで、未来を見てきたかのような選択に、人々は魔術師と、佐藤のことをあだ名した。
――だが、実際は魔術師なんかではない。佐藤自身、一部の人間にはそう漏らしていた。だって、彼が予想したわけではない。予想したのは、自分が育ててきたAIだ。いや予想なんてものではない。関係ないことをして、その波及効果によって、株価を操作する。人間には到底できない手段を行うケイこそが、魔術師にふさわしい。
「魔術師なんてそんな。わたしは因果の糸を引っ張ってるだけ。さしずめ傀儡師ってところよ。
ケイの笑みは大人びていた。有り余る配当金によって、ケイは成長できるようにプログラミングされたのだ。必要とあれば、若返ることもできる。それもこれも、佐藤に好かれるための手段であった。
まるで、絡みついてくるようであった。蛇のように、かずらのように、ケイは佐藤を好きだと言ってくる。実際、好きなのだろう。純粋な好意は、なればこそ、恐ろしくもあった。――自分以外の存在には興味がないように思えて。
他人には興味がないのか、という質問を佐藤はしたことがあった。
「あるけど、それは、糸の行く末を知るためだから。それに、わたしはあなたが特別好き、というだけで、別に人間のことが興味がないとか嫌いとかそういうんじゃないの。まあ、好きよ」
人間は好きらしい。それが知れただけで、佐藤はホッとする。自分のことは好きだったとしても、人間のことが嫌いならば、最悪ではないか。自分のために何でもするかもしれないから……。
それでも佐藤は、言いも知れぬ不安感を拭い去ることができなかった。――そして、その不安は的中することとなる。
第三次世界大戦が勃発した。
その原因を知るものは当時でもほとんどいなかったことだろう。保護貿易と自由貿易の対立のせい、と言われることもあったが、その背後にあったのは、ケイの指から伸びる糸だ。もしもそれを見ることができたら、巨大なタペストリーもしくは、蜘蛛の巣を連想するかもしれない。
その中心には、佐藤がいる。
戦争が起きる直前になって、佐藤は何もかもを理解した。どうしようもなかった。止めることはできなかった。
どうしてそんなことをしたのか。佐藤がたずねる前にケイが語り始める。
「言ったでしょ。わたしは人間のことを愛してるって。この停滞を突き抜けるためには、ここで戦争するのがいいの。しなければ……そうね。ゆるやかに衰退していって、外部からの刺激がなかったら――宇宙人とか隕石とかね――百年以上の暗黒期が到来することになる。それを防ぐためには、今ここで無理にでも進化するしかないのよ」
佐藤はごくりとつばを飲み込む。彼女の言っていることは、自分には理解できなかったが、恐らくは正しいのだろう。大学を買い取り、そのすべてをコンピュータとケーブルで埋め尽くしたケイは、世界最強のコンピュータといっても過言ではない。そんな彼女が考えることは、恐らく真理に限りなく近いだろう。
――本当に?
「けーちゃん」
「なあに?」
「そこに個人的な感情はないのかい」
「――――」
ケイは、この世のほとんどを把握している神様のような存在となっていた。世界を裏から糸で操っているといっても過言ではない。だが、神様のような存在であっても、感情はあった。
佐藤は、そうか、とだけ口にした。
それだけで、十分だった。
どこか遠くで音がする。ミサイルが着弾し、爆発し、建物を山を川を吹き飛ばす。
今更どうすることもできない。
終末の訪れを黙って待っているほかないのだ。鈴のような笑い声を耳にしながら。
けーちゃんのみるみらい 藤原くう @erevestakiba
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