けーちゃんのみるみらい
藤原くう
第1話
経済そのものを生き物と捉えようとする動きは昔からあった。日本人経済学者が提唱した活喩経済学にしたって、経済を複雑系の一つとして捉える複雑系経済学とそれほど変わらない。どちらも予測が困難なのだ。
活喩経済学において、経済は少女と仮定する。
またジャパニーズがやりやがった。――そんな声が上がったのは当然といえよう。実際、経済界において様々な声が上がったし、一時のプロモーションのために少女のイメージを利用するな、という勘違いしたフェミニスト団体の表明もあったりしたが、それはさておく。
経済を擬人化する場合は、少女にしなければならない。赤ちゃんでも女性でも老婆でもなく、少女だ。それも門限過ぎても帰ってこようとしない、反抗期真っただ中のティーンエージャーでなければ正しい理解ができないからだ。重視されるのは年齢性別くらいで、後は自由となっている。
さてここで、日本の経済を擬人化してみよう。AIに、少女の精神性と性別を与える。服装とか体型等の見た目はどうでもいい。
設定が完了したら、後は見守るだけだ。できた少女が何をするのか、その結果として何が起きるのかを観察して、意味を考える。
それが、活喩経済学の行っていることであった。
あくびをする男が一人。彼のの名前は、佐藤。
言わずと知れたクレイジーエコノミストである彼こそは、活喩経済学を興した張本人であった。
彼の研究室には、私物と思われるぬいぐるみやら、ポスターやらタペストリーやらが至る所に置かれている。自宅からあふれてしまったものを勝手に持ってきているのだ。その数は今もなお増え続けて、ただでさえ狭い研究室を、さらに狭苦しくしている。
ぎゅうぎゅうの研究室の中央には、一台のコンピュータ。そこからは太いケーブルが伸び、奥のサーバーへと繋がっている。さらにサーバーは、壁を挟んだ向こうに置かれたスーパーコンピューターと接続されていた。
コンピュータの中には部屋が映し出されていた。パステルカラーの愛らしい部屋は、研究室と同じくらいの広さだろうか。椅子に座っているのは、少女だ。
「けーちゃんおはよう」
マイクに呼びかけると、画面の中の少女がピクリと耳を動かした。マイクを通してデジタル化された佐藤の声が、仮想上のスピーカーから放たれ、けーちゃんと呼ばれた少女へと届いたのだ。
椅子の上でパタパタと足を動かしていた少女は眉間にしわを寄せ、机の上のマイクをひったくる。
「だからけーちゃんって呼ぶなっ! 私の名前はケイ!」
経済の擬人化だから、経。そして、けーちゃん。安直なネーミングは、佐藤によるもの。
「ごめんごめん。つい忘れちゃって」
佐藤は椅子に腰かけ、マイクを引き寄せる。
大学での仕事は、基本的に彼女との応対に費やされる。もちろん、助教授として授業を行うこともあるが、ほとんどない。佐藤が教える活喩経済学は特殊性が強く、はっきり言って就職には利用できない。それどころか、マイナスになってしまうとまで言われる始末である。そんなわけだから、彼の研究室はいつだって閑古鳥が鳴いていた。もしくは、怒ったケイの声だ。
ケイがキーボードを打鍵すると、映像が切り替わる。といっても、少女は映したままで、彼女を捉えるカメラが切り替わったという感じだ。舞台とかテレビドラマのようなアングル。
「また無精ひげそのままにして。そんなんじゃモテないよ?」
「すっかり忘れてたなあ」
しげしげとざらついた口元を撫でる佐藤。彼が着ている白衣は薄汚れていたし、そこから除くワイシャツはすっかりくたびれている。何年も同じ服を着ているからだった。
佐藤にとって、経済の心理を探求することこそがすべてといってよかった。それ以外は興味がなく、ライフワークといってよい。
「でもさあ、うら若き乙女と一緒にいるのよ? 恰好くらいまともにしたらどう?」
「恰好がいいといいことがあるのかい」
「女性にモテるでしょ。それに、経済が潤う」
「確かに。服飾系の企業がもうかりそうだね」
うんうん、と頷くケイを見ながら、佐藤は別のウインドウに目を向ける。テキストエディタ。ケイの発言がテキスト変換され、逐一保存されるようにプログラムが組まれている。会話の内容を見返して、経済がどのようなふるまいをするのか見定めるというわけだ。今回の場合なら、「経済が潤う」というケイの言葉と前後の文脈を考えて、服を買えば服飾関係が儲かるだろう、という結果が出力されたと解釈するわけだ。まあ、この程度の単純さであれば、エコノミストでなくても、理解可能だ。そういう意味で、一時期、活喩経済学はメディアに引っ張りだことなった。――すぐに呆れられてしまったのだが。
色々なことがあったが、活喩経済学を突き詰めようとしているのは、それを生み出した佐藤だけ。そのことに関して、佐藤は何も思わない。あくまでこれは真理探究のツールに過ぎないのだ。間違っていると答えが出るまでは、やり続けるつもりであった。
それに、と佐藤は画面の向こうへと目線を投げる。
そこにいるケイに対して、愛情を感じるようになっていた。それは恋愛感情というよりは、友情。もしくは子供に対する愛情に近しいものだ。
――自分が研究を止めてしまえば、彼女はデリートされてしまうかもしれない。
五年間以上を共にしてきた、わが子のような存在が喪うのは、人とか服とかに興味がない佐藤であっても来るものがある。研究を止めないでいるのはそういった理由からでもあったが、いつか、その別れが来てしまうのではないかとも、佐藤は考えている。
「これを見てくれないか?」
いいわよ、という返事を待ってから、佐藤はデータを添付。表計算ソフトで作成されたデータが、レターの形になって送られていく。
「なにこれ」
「それは、うちの大学の予算だな」
「予算って、そんな大事なもの、私なんかに送っちゃっていいの?」
「なに、それほど重要なことは書かれていない。来年度予算の割り当てだしな」
ふうん、と言いながら、ケイは紙束となったデータの塊をパラパラとめくっている。佐藤が転送したのは、今度の予算委員会で決を採ることになっている予算案であった。それぞれの学科、研究室ごとに予算が割り振られている。注目されている研究や、大規模な学科はやはり予算が多い。佐藤が在籍する研究室の予算といえば、最低値であった。
佐藤はため息をつく。今年度比でも、予算は減少。右肩下がりでこのままいけば、研究は打ち切りとなってしまうかもしれない。すぐには大丈夫だろう。活喩経済学においては、AIを使用することになっており、そういう意味では工学部の研究にも寄与している。だが、AI研究がひと段落ついたり、スパコンが切り替わったりすることがあれば。
佐藤自身、ケイに予算書を読ませる、というアイデアを実行しようと考えた理由はわからなかった。ただ単に、思い付きだったのかもしれない。
ふんふん、と頷きながらケイが読み進めていく。言葉はかけづらい。
隣の部屋のスパコンが唸りを上げている気が、なんとなくする。ケイという意識は、その名を冠したスパコンによってエミュレートされているのだ。
ふう、とケイが息をついた。予算書が、机の上に投げ出される。
「なにかわかったかな」
「さあ」
「……だよなあ」
わかるはずがない。経済活動というのは、複雑な要素から成り立つ。それゆえ、複雑系とかカオスだとか言われるわけで、予算書だけでは、これからの予算割り当ての変遷などわかるはずもないのだ。
落胆した佐藤は、そうか、と言った。そんな彼を、モニター越しにケイがじっと見ている。
「そうだ。メンチカツ買ってきてよ」
「メンチカツ?」
「ほら、購買部で一番人気のやつ」
「あああれね。それにしても、いきなりどうしてまた」
「ここ。購買部の予算が上がってるでしょ。これはは売り上げが上がったから設備投資が行われることになったんじゃないかしら」
「なるほど」
だが、そうだからといって、購買部に行く必要はない。メンチカツはおいしそうだったが、佐藤は食にも興味はなく、実体を持たないケイはメンチカツを味わうことはできない。そうじゃなくても、今の時間――正午過ぎは人でごった返している。
気乗りしない佐藤に、ケイが指を振る。
「いいから。そうね、行くなら夕方がいいんじゃないかな。三回目のメンチカツ販売もあるし、面白いものが見られるかも」
「面白いもの」
「ええ、面白いものよ」
意味深に、ケイが笑った。
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