第5話 僕のどうってことない一日 午後
昼食後、ソファーに座るお師さんの後ろに回って髪を梳く。黒い髪は健康的なつやつやで光を反射する。長くて、細くて手触りがいいのに櫛で梳っても途中で切れないというコシの強さも持っている。髪を梳いている僕にもご褒美だ。
「お師さんはこの後は店番するんですよね?」
「うひぃ!……ああ、うん。そうだね。今日は研究も作成も一段落してるからね」
「それじゃあ、いつものように勉強を見て貰っていいですか?」
「うん。大丈夫だよ。どうせ客なんてほとんどこないし」
「ありがとうございます。それじゃあ、僕はお昼の後片付けしてから店の方に行きますからお師さんもお腹がこなれたらお店の方に来てくださいね」
「えー。もうなでなでは終わりかい?」
「はい。寝癖も直ってきちんと美人さんになったので終わりです」
「えー、そうかな?」
「はい。僕にとってはお師さんは美人さんです」
「ウヒヒヒヒ」
お師さんがクネクネしながら照れ笑いを始めるのを見て、台所へと移動する。お師さんがあの笑い方を始めると戻ってくるまでに時間がかかるからだ。
台所に漬けておいた食器をスポンジぽい物体に石鹸をつけて洗い始める。スポンジぽい物は植物の繊維でもともとこの世界にあった物だけど石鹸はお師さんが僕の話を聞いて作った物だ。お師さん曰く、洗う物によって石鹸を変える発想はなかったとのこと。食器や料理道具用、衣服用、体用、髪用をあっという間に作ってしまった。使った感じとしては元の世界の商品と比べても負けないレベルだと思う。ただ、これだけではお師さんの凄さは終わらない。
綺麗に洗った食器を濯ぐために壷から生えている蛇口を捻る。当然のように水が出てくる。そう!これも師さんが作ったマジックアイテムだ!物語に時々出てくる水を使っても使っても水が湧いてくる壷だ。蛇口は僕の話を聞いたお師さんが後付けした物だが壷自体は僕が来る前からあるものだ。この壷はお師さんが内側に魔力回路を書き込んで魔力を通すと水が発生する魔石をはめ込んで作られているそうだ。
元の世界でも水道に繋がった蛇口なら同様のことが出来ていたがそれはたくさんの人の努力の結果だ。それを魔法の力とはいっても一人で実現しているお師さんは凄いと思う。そんな凄い魔法を凄い人の元で魔法を学べる僕は凄い恵まれている。僕に才能があるのかは分からないけどお師さんの役に立てるように頑張りたい!
洗い物が終り、自室から勉強道具を持ってお師さんが待つ、お店部分に移動する。お師さんはいつものようにカウンターに頬杖をつきつつドアの方を向いている。どんなに退屈そうでも別の作業をしないのは偉いと思う。一応、店番中に暇なら別の作業をしていいとお師さん自身は言っていたのだがお師さんが他の作業をしているのは見たことが無い。何か思うところがあるのなら聞いてみたいのだが聞いても大丈夫だろうか。
「おー、お弟子さん。ようやく来たね。勉強を始めようか」
お師さんに見てもらいながら勉強をする。現在はこの王国の基本的な文字を習っている。もともと本の虫と言っていい僕なのでこの世界でも読書がしたい。魔法がある世界ならなおさらだ。
「うんうん。お弟子さんはやっぱり物覚えがいいね」
「お師さんにそう言って貰えると嬉しいです」
「そっか~。それじゃあ、文字自体の勉強は問題なし。これからは私があげた本や辞書を使っていろんなことを知っていってね。それが進んで分からないことやどんなことがしたいか見えてくるはず。そしたらそれを私が教えてあげるよ」
「……あの、お師さん。いろんな本を読んで知識を蓄えるのは了解しました。でも、それと同時にお師さんから錬金術を教えて欲しいです」
「錬金術は地味だしあんまり人気ないよ?こう見えても私は結構いろいろ教えられるよ?」
「いえ。お師さんが大丈夫なら錬金術をお願いしたいです。お師さんが作るマジックアイテムを傍で見せて貰って、実際に使って錬金術が凄いことはいつも実感してます!……それに出来たらお師さんを支えることが出来るようになりたいでふぇ」
「お弟子さん~!!」
言葉の途中でお師さんが抱き着いてくる。いつものように正面から、顔が胸で埋まるように抱きしめられたので声と呼吸が詰まる。
「けーくんは可愛いなぁ~!可愛いなぁ~!」
抗う間も無く、両足が浮くのを感じる。軽々と持ち上げられたのが分かったが普段では体験できない感覚に怖くなる。しかし、ストップをかけたくてもお師さんの胸に埋もれてこもった声では浮かれているお師さんには届かない。
「私のけーくんは世界一だ~!!」
両足が浮いてるまま体を一方方向に回される力を感じる。視界の大半がお師さんの胸で埋まっているがお師さんが僕を抱き上げたままその場でクルクル回り始めているのだと感づく。狭い店内で振り回されるのも恐怖なのだがスピード感というか体にかかる遠心力の強さに背筋が凍る。多分、アイススケートの選手みたいな勢いで回転しているんじゃないだろうか?両手もろとも抱きしめられているのでタップも出来ず、お師さんが満足するまで僕はクルクルと一緒にまわることになった。
その後、解放されたが三半規管が酷使されたので勉強は強制終了となった。しばらく休んでおやつを作ることにする。今日はドーナツ。トッピングはシュガーとぼくの知らないが酸味の強い爽やかなフルーツのジャムにサワークリーム。この世界にはいろいろな物があるけどチョコレートはまだ見たことが無い。チョコレートのかかったドーナツがちょっと恋しい。
お師さんが店を閉めて、おやつの時間になる。今日のお店の営業はこれで終わり。元の世界のお爺さんが趣味でやっていた古本屋さんと同じ感じだ。お師さんから見たら店舗の経営で得る金銭何て誤差程度なのかもしれない。やっぱり何故、お店を開店して直接販売しているのか分からない。
「お師さん。今日のお店はどうでしたか?」
二口でドーナツ一個を消費しているお師さんを見ながらそれとなく聞いてみる。
「退屈だったよ」
予想通りな感じの返答だ。でも、お師さんは真面目に店番をやっている。どうやって理由を聞こうか考えていたのだが思いつかなかったので直球で聞いてしまう。
「お師さんは店番を真面目にやってますけど何か理由があるんですか?」
「私は錬金術師だからね」
「錬金術師は直接お店で商品を販売しないといけないんですか?」
「……」
思わず聞き返してしまったけどドーナツを取る手も止めて考え込むお師さんの姿を見るとやってしまったと思ってしまう。この世界での常識や慣習なのかもしれないのに。
「生活費を稼ぐために」
「店番の時間で依頼を一件こなせばそっちの方が収入は多いかな」
お師さんは優秀な錬金術師だからお店に置かれている薬や道具は確かに高品質だ。だが、お店に置かれている商品はあくまでも一般的な錬金術師でも作れる物。よく売れるが値段はそれほど高いものではない。お師さんクラスでしか制作できない物こそ値段が高く、利益率も大きい。
「お客さんの生の声を聴くために」
「生の声ってのがどういう意味かは分からないけどお客さんと雑談なんて無いかな」
分かっていたはずなのに。フォローをしなくてはと言葉だけが先に出てしまった。
お師さんは僕から見たら美人である。そんな僕から見ても不機嫌そうな顔をして、沈黙しているお師さんは近寄りがたい。たとえ不機嫌そうな顔で無言なのが人見知りのせいだと分かっていても。
「……なんでやってんだろ」
ぽつんと一言。居たたまれなくて、返す言葉も無かったけどその後はあっけらかんとした表情でドーナツを一つ残らず食べて貰えたので僕の気にしすぎかもしれない。けど、夕飯はいつも以上に気合いを入れてお師さんの好物を多めに作ろうと決意した。
「僕、考えたんですが」
「うん?」
夕食後は二人でお腹がこなれるか、眠くなるまでリビングでくつろぐのが日課になっている。向かいのソファーで寝そべりながら本を読んでいるお師さんに話しかける。
「お師さんは店番するの本当は好きじゃないですよね?」
「……そうだね。改めて考えてみると惰性でやってたことに気づいたよ」
「店番をやめてもいいって言ったらどうしますか?」
「うーん。やめてもいいならやめたいかな。……でも、それでけーくんの私をお世話する時間が減るのは駄目かな」
「店員さんを雇うのはどうですか?」
「……敷地に他の人を入れるのはあんまり考えたくないかな」
「どこかにお店を借りてそこでやって貰うのはどうですか?」
「そんなこと出来るの?」
「粉屋の店主さんがこの街の商店の顔役らしいので相談してみます。商店にとってもお師さんのお店はある方がいいと思うのできっと協力してくれます」
「ふーん。そうなんだ。……ねぇ、けーくん」
「……何ですかお師さん」
「おやつの時の言葉、気にしてたの?夕飯も気合い入ってたし」
「……ちょっとだけです。でも、いつか聞こうかなと思ってました」
「なんで?」
「店番してるお師さんは楽しそうじゃなかったんで」
「お店を借りて、人を雇うのはいつから考えてたの?」
「……ちょっと、前からです」
「ふーん。そうなんだ」
お師さんがニヤニヤした顔をする。ちょっと人前ではしない方がいい表情だとは思うけど他に人がいるときにしているのは見たことが無いので多分セーフだ。
お師さんの夜食を届けて僕の一日は終わる。ベッドの中で今日一日のことを振り返る。特に大事なのは外にお店を借りて、販売は人にやって貰うことだろう。そのことでお師さんと意見の擦り合わせをしたが結構見落としていることが多くて想像以上に大変そうだ。……それでも、頑張って計画を成功させたい。お師さんに受けた恩を少しづつでも返していきたい。そのためにも明日はどうしよう、何をやろうと考えている内に僕はゆっくりと眠りに落ちていった。
◇水湧きの壷
水生石と呼ばれる水気を宿した鉱物を触媒にこれを効率よく運用するために魔力回路が刻まれた壷の名称。魔力を流すことによってゆっくりと水が生成され壷を満たす。
水生石は水気が一定以上ある場所なら地域を問わず採掘できる一般的な鉱物である。ただし、採掘された場所によって水質に違いがあるため人気のある採掘場の水生石はそれなりに高額となる。
水湧きの壷の短所として水量が使用魔力に比例することがあげられる。結果として魔力量の低い人間にとっては「井戸で汲んだ方が楽」であり、いまひとつ普及には至っていない。
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