第2話 冬の始まり
事件について話す前に、そこに至るまでのあらましを述べよう。
始皇帝が統一し「ひとつの中華」という概念を初めて人々の意識にもたらした秦帝国。
この秦帝国を倒した
その第7代皇帝・
武帝は16歳で即位し22歳で親政を開始すると、歴代皇帝が貯蓄した国力を解放し、積極政策に打って出た。
抜擢した
だが、払った代償も大きかった。度重なる大遠征により先祖代々の貯蓄を使い果たして財政は赤字へ転落、徴兵された数多の若者は過酷な環境での戦闘・寒さ・飢えで命を落とし
労働人口の減少により生産力は低下、さらに悪いことは重なる。史上最大規模の黄河決壊が発生し、被災した農民の多くは耕地を失い
武帝も無策だったわけではない。戦費を賄うため斬新な経済政策を打ち出した。
主な政策を簡単に解説する。まず専売制について。
人間の生命維持に必要不可欠なミネラルである
民間で流通していた利益を政府が独占することで、莫大な収益が国家財政に組み込まれることとなった。
統一貨幣の新規発行について。
このとき作られた《五銖銭》は1枚で5銭の価値を持つ少額貨幣で、ざっくりといえば現代日本の500円硬貨程度の価値の感覚であろうか。唐時代まで流通した優秀な通貨だった。いわば経済という国家の血管を流れる、貨幣という赤血球を良質なものとして、流れやすいサラサラの血液としたのだ。五銖銭は700年に渡り長く使われ、経済の安定に寄与することになる。
《均輸法・平準法》は簡単に言えば、国家が全国の商品流通と売買に直接介入し、物価を安定させ収益を国庫に入れるという経済政策で、財政再建という点では大成功を収めた。
だが、こうした政策は政府が独占企業となる民業圧迫でもあった。民間の商工業者や運送業者は失業し、膨大な戦費と武帝の贅沢による増税のため民衆の負担は増え、失業者や流民が盗賊化した流賊が横行し、治安は悪化した。
増大する社会不安に対し、武帝が起用した"
業績不振の罰で処刑されることを恐れた地方官は粉飾報告するしかなく、中央政府の認識と地方の現場の実情が乖離し、ますます社会が不安定化する負のスパイラルに陥った。
それが武帝の治世終盤の頃の世相であった。
平均寿命の短い時代である。治世40年を超え還暦を過ぎた武帝の肉体は衰え、贅沢な生活も災いし老化と病気に悩まされるようになっていた。
若き日の武帝は剛直な臣下からの耳の痛い諫言を聞き入れる度量があった。しかし老化により脳が硬直化して思い込みが激しく感情的に不安定となり、
司馬遷の発言に激怒したのはそのせいもあるだろう。
司馬遷の二の舞はごめんである。群臣は処罰を恐れ、武帝に逆らう者はいなくなった。
心身の弱った武帝の元には、直言する硬骨漢の代わりに、権力という甘い汁に群がる害虫のような怪しい連中が集まるようになった。不老長寿を説く
こうなると、秦の始皇帝と全く同じパターンである。彼らの影響で
前置きが長くなったが、ここからが今日の話の本題である。
この当時、《
巫蠱の起源については諸説あり定かではない。が、術師を「
巫蠱は特に女性の間で流行したようだ。現代でもおまじない・占いなどが女性の間で人気なのと同じといえる。2000年前と現代と、人間の基本的な思考にあまり差はないのだ。
だが、問題は国家の絶対者である皇帝がそれを信じているということだ。
司馬遷が李陵を弁護し投獄された
これは国家が「巫蠱の術は本当に効果がある」と公式に認めたことになるとも言えるだろう。
その3年後、司馬遷が出獄した
公孫敖は故・大将軍衛青の若き日の恩人で、過去二度の敗戦の罪でも賠償金で死刑を免れた男だが、巫蠱に関わると問答無用で極刑を回避できなかったのだ。
巫蠱の恐ろしさは、人形と儀式の跡が物的証拠とされ容疑者は無実を証明できないことにある。つまり誰かを罪に陥れるのにこれほど便利なものはないと言える。
老いて心の不安定な皇帝・それを畏怖する群臣と民衆・治安悪化による社会不安という可燃性ガスは充満し、爆発寸前の段階に達していた。
発火点となったのは
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