第23話 飛び込む亀が掴んだものは
『階級は僕が上だ。僕の指示に背いた場合、君たちが反乱分子と見なされる。それでも僕が間違っていると思うなら、僕を斬ればいい』
「アーシムさん!? ちょっと待って下さい!」
アーシムのピンチに、
このままでは彼は殺されてしまう。それをただインカム越しに聞いているだけなんて耐えられない。だからお願いした。
「パラさん。この中に誰も乗っていない船ってありますか? もしあるならその船に横付けして下さい」
「えっ、何で?」
「私が注意を引きつければ、アーシムさんを助けられるかもしれないので」
私もサルモーネやクロイと同じ銀髪碧眼だ。新たなオセアーノが姿を見せれば兵士たちのヘイトがこちらに向くのではないかと考えたのだ。
しかし、このクルーザーからでは人目を引くのは難しい。せめてあの甲板と同じ高さでないと。
そこで一つ思いつく。だったら凪沙もどれかしらの帆船の甲板に行けばいい。
けれどそれにはクリアすべき問題があって。
誰にも見つかってはいけない。そして誰かを巻き込んではいけない。
先に騒ぎになってしまっては元も子もないし、凪沙の命懸けの作戦によって無関係な人が危険に晒されるのは避けたい。
結果、無人の船があるならそれが最善だと思った。
「いやいや、ナギサちゃん戦えないじゃん? それにアーシム君に死なせないって約束しちゃったし。もしキミに何かあったら私が責任問われるんだって」
「確かに私は戦えませんし、パラさんに迷惑をかけてしまうのはごめんなさい。それでも私は、どうしてもアーシムさんを助けたいんです」
凪沙の真剣な眼差しに、パラは困ったなぁといった様子で青い髪をくしゃくしゃと掻いた。はぁっと溜め息を吐いて、それからゆっくりと首を縦に振る。
「分かった。ナギサちゃんは本当にアーシム君のことが大切なんだねぇ。とりあえずそこの船は補給船だから今は誰も乗ってないはず。甲板までは階段上るだけだし迷うことはないっしょ」
「ありがとうございます……!」
パラが帆船のすぐ真横までクルーザーを動かしてくれた。
凪沙はひょいと飛び移って、誰もいない薄暗い船内を歩く。
インカムから漏れ聞こえてくるのは、アーシムが追い詰められている状況。
一刻を争う。早く甲板に行かなければ。
「あっ、あった」
ようやく階段を見つけ、二段飛ばしで駆け上る。
一階ごとに折り返しながら上を目指し、半分ほどまで来ただろうか。
すると突然、耳元でパラの叫び声が響いた。
『ちょいちょいみんな、何か蛸の口が光ってるよ!』
静寂の中にいた凪沙は、鼓膜が破れそうなほどの大音量に思わず足を踏み外しそうになる。何とか踏み留まって、それから首を傾げた。
「タコの口が、光ってる……?」
この階段には窓が無いので
とりあえず階段を上りながらインカムに耳を傾ける。そして、続けて流れてくる緊迫のやり取りでその言葉の意味に気付く。
あの巨大ダコがビームを放った?
にわかには信じられないが、こんなタイミングで冗談を言う訳がないので事実なのだろう。
『三番艦退避! 狙われるぞ!』
再び海異がビームを発射しようとしているらしい。どうやら狙われているのはアーシムたちの乗る船とは別の帆船のようだ。
と、ここでようやく夜空が目に飛び込んできた。やっと甲板だ。
『こちら三番艦。乗組員の緊急離脱許可を』
『そんなのどうでもいい! 船なんか捨てて早く飛び降りろ!』
アーシムは一応窮地を脱したようだが、一難去ってまた一難。今度は艦隊全体に別のピンチが降り掛かっている。
もしも艦隊が崩壊するようなことがあれば、彼がビームの犠牲になる可能性が高まる。
最初にやろうとした事とはちょっと違うけど、今はこれがアーシムさんのために私がすべきこと。お願い、間に合って……!
凪沙は甲板の端まで走って立ち止まると、思い切り大きく息を吸い込んだ。
意を決し、今にもビームを撃ちそうな巨大ダコに向かって叫ぶ。
「タコさん、こっちです!」
今までの人生の中で一番大きな声が出て、自分でもこんな声量が出せるのかと少し驚いた。
海異の巨体がゆっくりとこちらを向く。
良かった、三番艦から意識を逸らせた。と、ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間。
不気味に蒼く光る眼と目が合う。タコは敵意を剥き出しにして、凪沙のことを強く睨みつけていた。
「ナギサ、君は何をやっているんだ! 早く逃げて!」
遠くからアーシムの声が聞こえてくる。彼は怒っているようだった。
当然だ。だって私は、クルーザーから出ないようにという言い付けを破ったのだから。
ごめんなさい、アーシムさん。
心の中で謝りつつ、真っ直ぐに海異を見つめる。
凪沙が囮になれば、アーシムたちが攻撃する隙が生まれるはず。
だから私は、ぎりぎりまで逃げない。
タコの口に青白い光が灯る。
「っ!」
もうすぐビームが来る……!
『ナギサ!』
『ちょいちょいナギサちゃん死にたいの!?』
『えっ待って、ナギサちゃん危ないよ!』
『ナギサ、早く逃げろ!』
『おい何してんだお前!』
未だに回避しようとしない凪沙に、アーシムやパラ、クロイ、サルモーネだけでなく、見知らぬ男性までもが慌てて呼びかけてきた。
私は別にビームを受けるつもりなんてない。
あの日、東京五輪の大舞台で命を落としたはずだったのだから最悪いつ死んでも構わないと思っている節はある。けれど今死んでしまっては、大切な人がまた傷付いてしまうかもしれない。それでは私がこの世界に来た意味が、本当に無くなってしまう気がするから。
よし、今だ……!
凪沙は舳先に向かっておもむろに助走を開始した。歩幅を合わせ、反動をつけ。タコがビームが発射するのと同時に勢いよく踏み切った。
悲鳴が響き渡る中、手の指先から足のつま先までぴんと伸ばした姿勢で海面へと迫っていく。
高飛び込みの経験がこんなところで役に立つとは。
この高さからであれば難なく着水できる。それどころかノースプラッシュだって狙える。
そう。私はこの時、完全に油断していた。
放たれたビームが先ほどまで凪沙が乗っていた補給船を直撃し爆発が起こる。
その爆風が突如として襲いかかってきて、体勢を崩してしまった。
「あっ……!」
ぐるぐると景色が回る。上下の感覚を失う。
これは、あの日と全く同じだ。
立て直す暇もなく、爆発の影響で酷く波打った海面に身体を打ち付ける。
かなりの衝撃だったはずなのに痛みは全然感じなかった。
ぼんやりとした月明かりが遠ざかっていく。
届かないと分かっていながら手を伸ばして、それからゆっくりと瞼を閉じる。
ああ。これで私の人生は、今度こそ終わったんだ……。
凪沙の意識は、夜の昏い海の、深い闇の中へと沈んでいった。
スマホのアラームが鳴って、それを寝ぼけたまま無意識に止める。
再び眠りに落ちそうになったところで、はっと目を覚ました。
香川県の自宅の、自分の部屋のベッドの上。
いつもの朝のようだけど、どこか違和感がある。
そうだ、何か変な夢を見ていたような?
そんな時。ふと、ある名前が口を衝いて出た。
「アーシムさん……」
不意に涙がこぼれる。
そっか、私。
全部思い出した。
けれど、その記憶はどこか現実離れした、夢の中の出来事みたいに感じられて。
じゃあ、オリンピックでの失敗も無かった?
だとしたら夢で良かった。私はどうやら悪夢を見ていたらしい。あんなことが現実にならないように今日も練習頑張らないと。
安堵しつつ、スマホのロックを解除する。そして、ホーム画面の日付表示を見て目を疑った。
二〇二〇年八月六日。すなわち、東京五輪女子10m高飛込決勝の日。
意味が分からない。状況が飲み込めない。
開会式とか予選とかは、夢じゃなかったってこと?
「どうして私、自分の家にいるの!? 選手村に泊まってたはずなのに……!」
大慌てで階段を駆け下りて、一階のリビングへ向かう。すると朝食の用意をしていたお母さんが不思議そうな顔をして言った。
「おはよう。どうしたの、なぎちゃん? そんなに慌てちゃって」
「どうしたも何も、今日オリンピック!」
「えっ、オリンピック……?」
母はきょとんと首を傾げた。
会場まで見に来てくれるって言ってたのに、飛行機のチケットも予約してたのに何で忘れてるの!?
しばらくして、姉の
「朝からうるさいなぁ。どったの凪沙?」
「お姉ちゃんどうしよう! 今日オリンピックの決勝なのに!」
何をどうしたら良いものか。助けを求め、混乱状態のまま胸にしがみつく。
よれよれのスウェットを引っ張られながら、千波は僅かばかり考える。それから「あぁ」と呟き、得心がいった様子で凪沙の頭を撫でた。
「延期さえ無ければ今日が決勝だったっけか。凪沙はずっと今日に向けて頑張ってきたんだもんな。そりゃ遣る瀬ないよな。でもその想いは一年後にぶつけられる。だから今日も練習頑張ってこい」
ぽんぽんと、頭を二回優しく叩かれる。
「それじゃ、私はこれから寝るから。おやすみ〜」
「ちょっと千波? また朝までゲームしてたの? いい加減大人なんだから」
「はいはい起きたら聞きますよ〜」
「全くもう……。あっ、なぎちゃんの朝ご飯すぐ用意するからね」
私の焦りとは裏腹な、いつも通りのゆるい会話。この温度差は何だろう。
それに、お姉ちゃんが言った一年後ってどういうこと?
そわそわとしながらも、とりあえず朝食を待つことに。
誰も見ていないテレビには、朝の情報番組が流れていた。今は地元ローカル局のアナウンサーが県内のニュースを読み上げている。
『次のニュースです。香川県内で昨日確認された新型ウイルスの新規感染者数は五人で、県内でも再び感染が広がっている模様です。外出時には引き続きマスクの着用やソーシャルディスタンスの確保など、感染対策を心掛けて下さい』
新型ウイルス? 感染者? これ、何のニュース……?
更なる謎が増え、ますます頭がこんがらがってしまう。
「はい、朝ご飯。今日も練習行くんでしょ? お弁当作ってあるからね。あっそれと、マスクの予備はまだある? 無かったらそこの引き出しに入ってるから」
ダイニングテーブルにご飯と焼き鮭、卵焼き、お味噌汁が並べられる。
「う、うん。いただきます……」
やけに鮮明な夢を見て、起きたら記憶が曖昧で。おかしなことがありすぎて、世間は知らないことで溢れていて。私は一体どうなってしまったの?
母の作ってくれた朝ご飯は、いつもなら美味しいはずなのに。もはや味なんて一切感じられなかった。
それから一年が経ち、二〇二一年八月五日。東京アクアティクスセンター。
新型ウイルスの影響で延期されていた東京五輪の女子10m高飛込決勝の日を迎えた。
疑問やモヤモヤが完全に解消された訳ではなかったが、今日に向けてしっかりと練習を積み、コンディションを整えてきた。フィジカルもメンタルも演技をする上で問題はない。
『無観客の静かな会場に今、日本期待の金メダル候補、
高さ十メートルの飛び込み台の上。程よい緊張と興奮を感じながら、ふーっと息を吐く。
やけに脳にこびりついている、あの悪夢を正夢にはしない。
『女子10m高飛込決勝、亀有選手一本目、今踏み出した!』
凪沙はゆっくりと助走を始め、台の先端で踏み切ると華麗に宙を舞った。
ひねりを加え、ほとんど水飛沫を立てずに入水。
『一本目、亀有選手見事にノースプラッシュを決めて見せました!』
素早く水面に顔を出し、前髪を掻き上げる。
コーチ陣の拍手と、カメラのフラッシュの音が広い会場に微かに響く。
歓声が無いのは、やっぱり慣れない。
プールから上がりながら無人の観客席を見渡して、凪沙は少しだけその光景を寂しいと思った。
そんな無人であるはずの観客席にはスタッフでもメディアでもない二人の人影があった。
けれどその姿は、凪沙はもちろん他の誰の目にも映らない。
ゆるめのパーカーを着た小学校低学年くらいの男の子と、夏服ブレザーの女子高生。水の神ネプトゥヌスと、彼の監視役であるサラーキアだ。
次々と演技を行う選手たちを応援しつつ、ネプトゥヌスが言う。
「いやぁ、それにしても本当にギリギリだったな。まさか彼女があんな無茶をするとは。おかげで記憶の改竄は間に合わなかった」
「でも、ちゃんとオリンピックで最高の演技が出来てる。だからこれで十分だよ」
サラーキアが土下座までして頼んでこの世界を巻き戻してもらったのは、凪沙に東京五輪の大舞台で金メダルを獲ってほしかったから。
記憶を書き換えられなかったことで戸惑わせてしまったのは申し訳ないが、
スポーツマンシップの欠片もない邪魔者は排除した。あとは彼女が自らの実力を存分に発揮するだけ。
「これでお前の目的は果たされたわけだが、俺のやったことは一時しのぎにすぎない。彼女はいずれまた、向こうの世界に引き寄せられるだろう。また辛い思いをさせるかもしれんぞ? それでもいいのか?」
一度別の世界に転生させた人間は、元の世界に戻しても長く留まることはできない。遅かれ早かれ、やがて再び転生することになる。
「うん、それでいい」
「ははっ。お前のしたことはあの人間のためではなく、結局は自己満足ってことか」
「そうだよ。これは全部私のため」
「何故そこまで彼女にこだわる?」
問われてサラーキアは、最後の演技に向けて飛び込み台の上で集中する凪沙を見上げた。それから穏やかに微笑み、ただ一人の親友に向けて呟く。
「だって、凪沙ちゃんは私の心を救ってくれた救世主だから。ヒロインはハッピーエンドじゃなきゃダメなんだよ」
『亀有選手、九本目。最後の演技、これも素晴らしい着水です!』
凪沙が全九回の演技を終える。
最後まで目立ったミスも無く、日本のコーチたちは早くもガッツポーズをしている。
『さあ得点が出ます。優勝は……亀有凪沙選手! 日本の期待の星、見事金メダル獲得です!』
結果は他の選手に圧倒的な点差をつけての優勝、金メダル。
「お父さん、お母さん、お姉ちゃん! やったよ!」
表彰台の一番高いところに立って満面の笑みを浮かべる凪沙は、首にかけられた黄金のメダルよりも美しく輝いていた。
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