第15話 終結
IBAIの地下エアポートに着いた英俊たちを局長と数人の捜査官が出迎えた。
英俊は局長の方へ歩いて行った。「局長、戻りました」
「よくやった。全員無事で何よりだ。報告書は明日で構わない、一息つきなさい。大八木は彼らが留置場に連れて行く」
待機していた捜査官たちは、イリデッセントクラウズの後方から大八木朔を連れ出した。
3匹の犬を連れた律は、英俊の肩に手を置いた。「俺もついて行くよ、手首を縛られて身動き取れないとしても、指は動く。妖術を使われたら厄介だ」
「ああ、頼む。俺はオフィスで待ってるから」英俊は律の顔に顔を近づけて顎をそっと撫でた。「十分注意してくれよ」
律は英俊の腕をさすって、唇を軽く吸った。「大丈夫、後でね」
局長に休めと言われたが犀星は律の後ろをついて行くことにした。微力ながら初めて捜査に関わることができた犀星にとって、記念すべき事件だ。最後まで見届けたかった。
街に明かりが灯り始め、オフィスの窓を幻想的に彩っている。
明日でいいと言われた報告書を書きながら、英俊はオフィスで律を待っていた。何故か誰も帰宅しようとしなかった――こんな時、真っ先に婚約者のところへ向かう白鶴までもが、日報を仕上げている。気が昂っているのだろうと英俊は思った。
無理もない、仲間だと思っていた人間が犯人で、更には友人が拉致されたんだ。訓練された捜査官とはいえ、そう簡単に平常に戻ることはできないだろう。淡々と書類仕事をこなしていれば、しだいに心が落ち着いていく。
だけど、問題が全て解決したわけではない。エンジュの迎えが天国から来ないうちは、気を緩めるわけにはいかない。休める時に休んでおかなければと英俊は思って、部下たちに命令しに行こうと自分のオフィスを出た時、律と犀星が戻ってきた。
「ただいま、無事に収監したよ」
「ありがとう」英俊は律の滑らかな頬にキスをした。「もう帰ろう。今すぐに律を抱きたい」
律は軽快に笑った。「英俊の頭にはそれしかないの?」
「男だからな当然だ」英俊は誇らしげに言った。
英俊の耳元で律は囁いた。「俺もだよ、今すぐに英俊に飛び掛かりたい」
英俊は律を抱え上げてチームのメンバーに言い放った。「俺は帰る。今日はもう終わりだ。お前らも帰れ」
律は英俊の体に足を絡ませ、笑い声を上げながら英俊の唇を奪った。
2人がオフィスを出て行くのを、ぽかんと見つめていた白鶴は婚約者に『今から帰る』とメッセージを送った。「――俺も帰る」彼女と一緒にベッドに入り、美味しいワインを飲み、気持ちを切り替えることにすると決めて、白鶴はオフィスを出て行った。
蛍雪に声をかけようかと思ったが、オフィスに蛍雪の姿が無かったので、後でメッセージを送ってみようと考え、蘭も帰り支度を始めた。「俺も帰るよ」
「送ろうか?」フランクは帰り支度をしながら訊いた。
「大丈夫、今日は実家に帰ることにする。いろいろ話したいこともあるし」
「そうか、それがいい、親父さんたちによろしくな――実家の教会が日曜の昼に開いてるミーティングがあるんだ、親しい人を亡くした人たちが集まるんだけど、もし親父さんたちが来てみたいなら、いつでも歓迎するって伝えてくれないか?」
「フランク――ありがとう」これは蘭に言いたかった言葉なのだろう、そこを両親を持ち出して遠回しに言ったのは、フランクが気を使ってくれたのだろう、蘭のプライドを傷つけないように配慮してくれたのだと蘭は理解した。
蘭の性格を考えると、そのミーティングにはいかないだろうことを分かっていて、フランクは遠回しに、いつでも話を聞いてやると言いたかったのかもしれないと、拉致された時に打たれた薬の影響が出てきたようで、ズキズキと痛む頭でぼんやり考えた。
フランクと蘭は地下のエアポートまで一緒に行き、それぞれのマーブルに乗ってIBAIを後にした。
フランクは1人暮らしの家に帰るのは嫌だったので、実家の教会に行こうかと思ってオフィスを出たが、途中考え直して中華のテイクアウトを買ったあとIBAIに引き返してきた。
自分と一緒に帰ったはずの蘭のマーブルが、エアポートに停められていた。心配になって蘭を探そうとしたが、蛍雪のマーブルもまだ地下にあることに気づいて蛍雪に連絡した。そしてエンジュのところへ向かった。
蘭はフランクを心配させたくなかったので、帰ったふりをしただけでIBAIに戻ってきていた。
胸が塞いで晴れない気持ちのまま両親に会いたくなかった。自分が打ちひしがれていることを、どんなに隠そうとしても、あの二人にはバレてしまうと分かっていたからだ。
蘭の優しい養父母は、そんな蘭の姿を見て心を痛めるだろう。今でも十分すぎるほど、心配をさせてしまっているのだから、これ以上あの2人を苦しめるわけにいかないと蘭は思っていた。
蘭は人気のないIBAIの廊下をとぼとぼと歩いた。歩いて考えたかった。いや、目的の場所までの時間を稼ぎたかっただけなのかもしれない。
蘭はグルグルと回る頭の中で消化しきれない思いを、ただ漂わせた。会って何になるというのだ、血が半分繋がっているというだけで、自分の人生と彼の人生が今後交わることは決して無いし、こうなってしまったことは彼の選択であって、自分にはどうすることもできなかったことなのだと言い聞かせてもやはり、後ろめたさが拭えなかった。
生まれた時は兄の方が幸運で、生きた人生は弟の方が幸運。血を分けた兄弟の運命は正反対だった。
朔が収監されている檻の前に蘭は立った蘭に気づいた朔がボタンを指さした。押せば中にいる人間と会話ができる。
ボタンを押そうとした手が躊躇って拳を握った。話をしたいような、したくないような複雑な気分で蘭はボタンを押した。
朔は穏やかに言った。「やあ、来てくれてうれしいよ。君に酷いことをしてしまったね。君と仲良くなりたかったのは私の本心だ。けど君が羨ましくてしかたがなかったのもまた本心だ」
「もし俺が生まれていなければ、あんたから父親を奪うことも無かった」
「そうだね、だけどそれでは意味がない。結局私は父の1番にはなれないということだからね。1番は蘭、君だから」
「それは分からない、本人に直接聞いたわけじゃないだろう?」
「まあね、蘭、私たちの父は優しい人だったよ」朔は思い出を見ているかのような目をした。「君は死んだと思っていた。あの日、母は私をあの家に残し、眠る君を抱きかかえて出て行った。殺すのは忍びなくて、でも家に残して行けば誰かに犯行が気づかれてしまう。だから遠くへ捨てに行ったのだろうと思った」
「養父から俺を保護した日の話しを聞いた。絶滅危惧種の保護をボランティアでやっていて、あの日は寒蘭の様子を見に森へ来ていたそうだ。赤ん坊の泣き声が聞こえてきて不思議に思った養父は道を引き返した。それで俺を発見した。5分前に停めたマーブルの横に俺がいたんだそうだ――あんたの母親は俺を殺す気なんてなかったんじゃないかな」
朔は悲しそうに微笑んだ。「――君が生きていてよかった」
「あんたのオフィスで一緒に仕事をした日、俺はあんたと仕事ができたのが嬉しくて、養父母の話しをしてしまった。申し訳なかった」
「いや、いいんだ。君の話しを聞いて優しい両親がいる家庭を想像した。君が異母兄弟じゃなくて本当の兄弟だったらって思ったよ。私も君の養父母の元で一緒に育っていたら、なんて馬鹿な想像をしたよ」朔は悲しそうに笑った。
「あんたの養父母には腹が立つし、報いを受けさせてやりたいと思う」
「ありがとう。蘭は優しいね。だけどもう終わったことだよ。私があの2人から逃げ出せなかったのは私の弱さのせいだ。逃げ出す機会はいくらでもあった。こうなってしまったのも私が自分で選んだ人生だ。だからそんな顔をしないで」
蘭はいつの間にか唇を噛みしめていた。「あんたがしたことは許せないし、極刑を受けるべきだと思う。だけど少しでもいい環境で刑が受けられるように働きかけてみる。妖術使い用の刑務所ならプライバシーは守られるし、他の受刑者と会うことはない。公式には妖術使いじゃないけど、実際あんたは妖術が使えるんだし、俺の進言は簡単に通ると思うよ」
刑務所にいる人間も妖もIBAIが捕まえた連中だ。その中に入ればどうなるかは察しがつく、妖術使いは妖術を封じ込めるために、専用の部屋があてがわれる。そこなら刑を全うするまで生きていられるだろう。
刑期によっては、死ぬまで出られない可能性もあるが、すぐに死なせてしまうのは何かが違うと思った。これは兄に対する情けなのだろうか、罪に対する憤りなのだろうか、今の蘭には分からなかった。
少しでも楽な死に方ができたらそれでいいと、死を覚悟していた朔の瞳から涙がこぼれ落ちた。「君を陥れようとしたのに、君を、君の仲間もろとも殺そうとしたのに――ありがとう」
蘭はむせび泣く朔に、なんと声をかけていいか分からず無言で立ち去り、来た道をまた1人とぼとぼと歩いた。
蘭の生家から出てきた白骨死体の検査を、ラボの検査員を脅して急かしてやろう――いっそ泊まり込めば、最新情報を真っ先に手に入れられる――と地下に降りて来ていた蛍雪は、フランクから『蘭が心配だ、一度は帰ったはずなのに、IBAIに戻ってきているようだ。フォローをよろしく頼みます』というメッセージを受け取って、留置エリアのゲート前で待っていた。
「すっきりしましたか?」
「うん、少しね。なんでここにいるって分かった?」
「フランクがね、一緒にIBAIを出たはずの蘭が戻ってきているようだって、心配して連絡してきたんです。それでオフィスを覗いてみたのですが、いなかったので、多分ここだろうなって思ってきてみました」蛍雪は蘭の手を引いて歩いた。
蘭はぽつりと言った。「妖術使い用の房に入れるよう進言しようと思う――間違ってるかな?」
「間違ってるかどうかじゃなくて、蘭がどうしたいかですよ。蘭がそうしたいと思うなら、そうするべきです。私は支持しますよ」
「分からないんだ。腹が立つし、報いを受けて当然だと思うのに、死なせちゃいけないって、何故そう思うのか、これは情けなんだろうか」
「そうですね、蘭は優しいから、彼が育った環境に同情するだろうなって分かっていましたよ。それにほんの少しの罪悪感を感じている。自分だけ、いい家族に恵まれたから。今すぐに折り合いをつける必要は無いと思います。君が答えを見つけるまで私はずっとそばにいますし、君が望む限り隣に立ち続けます」蛍雪は蘭の手に口をつけた。
顔を赤くした蘭は何かを吹っ切るように、大きく息を吐き出した。「英俊は怒るだろうな」
「彼は白黒はっきりつけるタイプですからね、どんな理由であれ、罪を犯す人間が許せないのでしょう。今回は義弟が巻き込まれたのですからなおさら、律さんとぶつかりそうな気がしますね」
蘭は英俊と律がケンカになったら、きっと自分にとばっちりが来ると思って勘弁してくれと心の中で悪態をついた。
「ところで、なんでフランクは俺が戻ってきてることに気づいたんだろう」
「それは彼も戻ってきているからじゃないですか?」
「何のために?」蛍雪が乗ってきたマーブルに蘭は乗り込んだ。
「それは当然エンジュのためでしょう」
「あいつ本気かな?」
「さあ、それはどうでしょうね、もし本気なのだとしたら、エンジュが天国に帰ったあと荒れるでしょうね」蛍雪は蘭を抱き寄せて顎をつかんだ。蘭の唇に唇を合わせた。「家に帰りましょう」
シンメトリックな白い外観の3階建ての建物の前に、蛍雪はマーブルを止めた。
蘭は蛍雪のマーブルに乗って自宅まで帰ってくると、蛍雪の手を引いて家に招き入れた。
家に入った途端2人は濃厚なキスをした。蛍雪は蘭を壁に押し付けて、股の間に足を差し入れた。蛍雪の手は素早く動き、蘭のシャツのボタンを外しにかかった。
あっという間にはだけさせられた蘭は、蛍雪の体を押して離れさせた。「待って、先にシャワー浴びたい」
「じゃあ一緒に浴びましょう」既に股間は準備万端だった蛍雪は、すぐにでも押し倒してしまいたかったが、2人の記念すべき初セックスだ、ここは蘭のペースに合わせて最高の時間にするべきだろうと思った。
「それはダメ、1人で浴びたいからちょっと待ってて」
「どうして?一緒に浴びた方が効率がいいですよ、楽しいですし、私は蘭と一緒に浴びたいな」蛍雪は抱きしめて蘭の耳にキスをした。
「男同士だといろいろと準備がいるんだ」蘭はごにょごにょと恥ずかしそうに言った。
真っ赤な顔をした蘭に蛍雪の欲望が燃えた。「ではその準備とやらのお手伝いをしましょう」蛍雪は蘭を抱え上げてバスルームに向かった。
焦った蘭はじたばたと手足を動かした。「降ろせよ!ダメったらダメ!大人しく待ってろって、じゃないと追い出すぞ!」
わざとらしくシュンとしてみせながら、蛍雪は蘭をバスルームの床に降ろした。
「リビングで待ってて、飲み物とか食い物とか勝手に漁っていいから」蘭は蛍雪をバスルームから追い出し、鼻先でドアを閉めた。
男同士の知識をほとんど持ち合わせていない蛍雪は、蘭があんなに恥ずかしがる準備とはいったい何だろうかと気になった。
冷蔵庫の中にあったビールを1本持ってリビングのソファーに座り、テレグラフィーで検索した。検索結果を読みながらビールをゴクゴクと飲んだ。
これはなかなか面白そうだ、毎回恥ずかしがる蘭を虐めて、可愛い顔を見てやろうと蛍雪の意地悪な心が疼いた。
バスルームから出てきた蘭に蛍雪はビールを1本渡して耳元で囁いた。「お尻はきれいに洗えましたか。私が洗ってあげてもいいんですよ」
蘭は顔から火が出そうなほど赤くなった。「うるさい!変なこと言ってないで早くシャワー浴びて来いよ!」蘭は蛍雪をグイグイ押してバスルームの中に閉じ込めた。
バスルームから出てきた蛍雪は、ベットの端に腰かけている蘭を押し倒した。
「やっと君に触れられる、お預けを食らっていたんですから、優しくなんてしてあげませんよ、覚悟してくださいね」蛍雪は激しいキスをした。
蛍雪が触れたところが熱を放ち蘭は快感に身を震わせた。ずっと恋焦がれていた人から求められて、蘭の心は張り裂けそうだった。蘭の瞳から涙がこぼれ落ちた。
蛍雪は蘭の涙を拭って瞼にキスをした。「蘭、大好きです。君は私のもの」
蘭の反応を探りながら手をせわしなく動かした。口で蘭の体を味わい自分を昂らせる。
上気した顔に我慢ができなくなり、蛍雪は蘭の中にゆっくりと入った。
押し開かれた蘭は蛍雪の背中にしがみつくことしかできなかった。激しく揺さぶられ我を忘れて切ない声を上げた。
蛍雪は体勢を変えて蘭を後ろから抱きかかえた。蘭の胸を弄び首筋に唇を這わせる。
蘭の全てを味わい尽くしてしまいたかった。狂おしいほどに愛おしい――蛍雪は自分が怖かった。溺れ行く心が怖かった。
蛍雪は蘭の中から一度抜け出して体勢を変え、蘭を仰向けにするとゆっくりと再度侵入し濃厚なキスをした。蛍雪は蘭の体を揺さぶり、快感を与え続けた。
溶けてしまいそうなほどの熱にうなされた蛍雪の首筋に、蘭は歯を立ててさらに煽った。
2人の心が溶け合うと、蘭が高みへと昇り詰め、蛍雪も昇り詰めた。
息を整えゴロリと横になった蛍雪は、蘭を抱き寄せて髪に唇で触れた。心地よさにとろんとしたした目で蘭が蛍雪を見つめた。
蘭の体をしっかりと抱きしめる。「蘭、そんな顔されたら独占欲が強くなってしまう。この寝室に閉じ込めてどこへも行かせたくないです。でもそんなことをしたら君は暴れ回るでしょうね」
「当然だ、俺を閉じ込めるなんてこと誰にもさせないぞ。でもこうやって蛍雪と一緒に一日中くっついてるのも悪くない」自分で言って恥ずかしくなった蘭は目を逸らした。
「なんて可愛いこと言ってくれるんですか、私の下半身に打撃を与えて弄ぶなんて、酷いな蘭は魔性の男ですね。もしかしてもう1試合したいとかかな」
「違う!そんなんじゃない、ただちょっとそんなのも悪くないかなって思っただけだ」蘭は慌てて弁解した。
蛍雪はクスクス笑った。「分かってますよ。エンジュの件が片付いたら、週末のんびり過ごしましょう。映画を観るのはどうです?ピザとポップコーンを用意して、ソファーに寝っ転がるんです。夜は一緒に料理をしましょう。メキシコ料理とメキシコワインとかよさそうですね」
蘭はその提案がとても楽しそうでワクワクしたが、子供みたいにはしゃぐのは嫌だったので顔には出さなかった。「うん、よさそうだ」
「メキシカンハットを買いましょうか」はしゃいでいるのは蛍雪も同じだった。
「それはいらない」
「Si」(スペイン語で『はい』の意味)
蘭は蛍雪の胸に顔を埋めた。「――蛍雪、俺のところには何の情報も入ってきてないんだけど、両親の遺骨って出たのかな?」
「はい、出ました。今、蘭のDNAと照らし合わせています。明日の昼頃には結果が出るそうです」
蘭は驚いて顔を上げた。「そんなに早く⁉︎いつもは3日ぐらいかかるのに」
「皆、君の力になりたいと思っているのですよ」蘭の背中を撫でた。蛍雪はラボを急かしに行ったが、そんな必要無かった。全員全力で仕事をしていた。
蘭は躊躇いがちに言った。「忙しくなかったらで良いんだけど、両親と対面するとき一緒についてきてくれる?」
「どんなに忙しくてもついて行きますよ。蘭以上に大事な用事なんてありませんから」
「――ありがとう」蘭は蛍雪の腕に抱かれながら眠った。
蘭が眠ったのを確認して蛍雪も眠った。
翌朝目を覚ました蛍雪は、喜びの感情の海に浸っていた。一昨日まで何の意識もしていなかった――というよりは、この気持ちに気づいていなかったことが不思議でならなかった――隣で気持ちよさそうに眠る蘭が、蛍雪の心を蕩けさせた。
満たされるというのはこういうことかと、切ないくらいに胸が締め付けられるような恋しさを感じて嬉しくなった。
「これは恋か……」
大きな欠伸をして、蘭が目を覚ました。「――おはよう」
「おはよう、君が隣で寝ている幸せを、かみしめていたところです」
「朝っぱらから恥ずかしいこと言うなよ!」照れて顔を赤くした蘭は、蛍雪に見られるのが恥ずかしくて、布団を急いで抜け出しバスルームに向かった。
「えー、いいじゃないですか本当の事なんですから」蛍雪は強引に蘭とシャワーブースに入った。「朝は一緒にシャワー浴びますからね。湯を38度で」
2人の体を38度の湯が打った。
「2人で入ったら狭いだろ」そうは言ったが、昨晩のように追い出すことはしなかった。
「嬉しいくせに、素直じゃないですね」蛍雪は蘭に反論の余地を与えず唇を奪った。
じゃれあいながらシャワーを浴びた2人は、バスルームから出てきて、朝食の準備をした。蛍雪が目玉焼きを作り、蘭はコーヒーをセットしてパンを焼いた。
美味しそうな匂いがキッチンに充満した。
ダイニングテーブルに皿を並べて2人は席についた。
「蛍雪、一旦着替えに帰る?」蛍雪の服が昨日と同じことに、英俊が目ざとく気づくだろう。あいつのことだ、絶対に冷やかすに違いないと思った蘭はさりげなく訊いた。
「いいえ、IBAIに着替えを一式置いてあるのでそれを着ますよ」
「そうか、でもそれだとまた服をIBAIに持ってこないといけないから、不便じゃないか?自宅に寄って着替えてきたらどうだ?俺待ってるよ」
「私の家は逆方向ですし、置いてある着替えもたまには洗濯しないといけませんから」蘭の落ち着かないそぶりを見て蛍雪はピンときた。「ああ、そうか、私が昨日の服のままだと、昨夜どこにいて何をしていたのかバレてしまうから着替えてきて欲しいのですね」
「英俊が絶対何か言うに決まってる」蘭は口を尖らせた。
「気にしなくていいのに、服が違ったとしても私たちが何をしたか、皆気づくと思いますよ。捜査官ですから」
「あからさまなのが嫌なんだ!」蘭はトーストを齧って、ムスッとした顔を隠した。
頬を染めた蘭を蛍雪は可愛いと思い、愉快そうに口角を上げた。「分かりました、では自宅に寄って着替えてきましょう」
2人は使った食器を片付けて、身支度を整えると蘭の自宅を出た。
蛍雪の自宅のリビングでソファーに座り、蘭は今日のニュースを読み始めた。殆どニュースの内容は頭に入ってこなかった。初めて入った蛍雪の部屋に浮かれていたからだ。
大きな革張りの黒いソファーに、塗装されていないゴツゴツした木のテーブル、部屋の中央に置かれたビリヤード台。窓際には8人が座れそうな長いダイニングテーブル。壁際には高価そうな自転車――蘭にはよく分からなかったが、蛍雪は学生時代ロードレースの選手だった。大会で優勝したこともあるほどの実力の持ち主らしい。きっとそれ用の自転車だろう――寝室は階段上のロフト。
倉庫を改装して造られたお洒落な家は、まるでモテる男の条件を詰め込んだようなインテリアに彩られている。何人もの女をここに連れ込んだのかと思うと蘭は少し嫉妬した。
蛍雪はもっとスタイリッシュで、モダンな部屋に住んでいると勝手に想像していた蘭は、意外だと思った。「蛍雪っぽくない家だな」
「そうですか?この部屋気に入ってますよ。特に大きな窓と、そこから見える景色が最高なんですよ。海が見えるでしょう?」
蘭は窓に近づいた。大きめのテラスから芝生の庭が広がり、木々の間から遠くに海が見えた。「うん、綺麗だ」
「内装はこの家に合うよう選びました。こういう雰囲気が好きなのですよ。飾らない感じがね、安らぐのです。子供の頃の反動でしょう、実家はきらびやかな家で落ち着かない。優秀な兄と弟は両親の自慢なので、私には、帰って来いなんて言ってこないのが有難いくらいです」
「蛍雪のお父さんって総合病院の院長だよな」
「そうです。兄が副院長で弟は次期外科部長候補、優秀な兄弟で助かりますよ。私がふらふらしていても何の文句も言われないのですから」
「そういうものか?」週に一度は必ず、実家へ帰っている蘭は少し寂しい気がした。
着替えてロフトから降りてきた蛍雪は、蘭を後ろから抱きしめた。「蘭はご両親と仲がいいですからね、数年顔を合わせなくても平気でいられる、私たち家族の関係が不思議でならないでしょうね。これでも、うまくいっていますよ。それぞれがちゃんと役割を果たしているって言うのかな、私は道楽息子です」
「主任捜査官で、すごく優秀だ。道楽なんかじゃない」
「家族にとっては道楽なのですよ。それに、好きな捜査官の仕事を続けさせてもらえているのだから、道楽でいいのです」
納得がいかないと思ったが、自分と両親の関係が特質なのは知っていたし、他人様の家庭に口を出すべきではないと蘭は思った。
「蛍雪が優秀なのは俺が知ってるし、俺が褒めてあげる」
「ありがとう、そんな風に愛を告げられたら、時間が無いのに押し倒したくなってしまうじゃないですか」蛍雪は蘭の唇を吸った。
IBAIに向かうマーブルの中で、蛍雪は思う存分蘭を抱きしめた。IBAIに着いたら、きっと離れろと言われるだろうと推測していた。
それでも蘭の困った顔が見たくて駄々をこねるつもりでいた。
マーブルから降りた蘭は、蛍雪の予想通り遠ざけようとした。
蘭の腰を抱き寄せ、顔を近づけようとしている蛍雪の顔を、蘭はグイっと押した。
「やめろよ、こんなところでキスなんかしたら、他の人に見られてしまうじゃないか」
「私は誰に見られても構いませんよ」蛍雪は蘭の反応をおおいに楽しんだ。
「俺が気にするんだ!仕事とプライベートは分けたいんだ」
「そういえば蘭の浮いた話って聞いたことが無かったですね、こっそり隠れて付き合っていたのですか?嫉妬しちゃうな」
「蛍雪はどうなんだよ、女が途切れたことなんてないじゃないか」
「あれ?嫉妬してくれてるのですか?嬉しいな」蘭の顔を両手で挟んで唇を舐めた。
「な!何するんだよ!ふざけると怒るぞ!」
蛍雪は笑いを堪えきれなくなった。「蘭は本当に可愛いな。仕事中にキスしたりしませんよ。その代わり、2人きりになった時は私の好きにさせてもらいますからね」
蛍雪の意味深な表情に蘭はドキドキした。「変なことしないなら別にいいけど」
「決まりですね。さあ仕事をしに行きましょうか」
2人は一緒にオフィスへ向かった。
何食わぬ顔をしてオフィスに入ってきた蘭の肩に英俊は腕を回した。「昨日の話し聞かせてやろうか?俺と律がどんなふうに愛し合ったか」
「聞きたくないっていってるだろ!」英俊の腕を振り払った。
「お前はどうだったんだ?聞かせろよ蛍雪と寝たんだろ?」
英俊は蘭の予想通りからかってきた。ちゃんと服は着替えてきたというのに、これだから捜査官ってやつは嫌いだと蘭は思った。
「――うるさいほっとけ」
「ああ!やっぱり!お前たちヤッちゃったんだ」
中学生のようにはしゃぐ英俊に蘭は飛び掛かった。
それを横で見ていた律はゲラゲラ笑った。
そこへフランクが出勤してきた。「何だ?こいつらまた仲良ししてんのか?」
「松倉主任とセックスしたことが英俊にバレて、恥ずかしくなった蘭が英俊に飛び掛かった。ってところだ」白鶴が冷静に分析した。
「なるほど、セックスする相手がいるだけいいじゃないか、俺なんて……」フランクはめそめそした。
白鶴はまた分析した。「お前だって昨日は良い思いしたんじゃないのか?エンジュのところにずっといた。間違ってないだろう?」
「何で分かるんだ⁉お前俺のこと見張ってるのか?」
「バカか、推理したんだよ。今日はいつもより30分出勤してくるのが遅い。だけどお前はちゃんと今朝シャワーを浴びてきている。しかも毎朝のランニングをサボったらしい。いつもはすっきりした顔をしているのに今日は眠そうだ。要するに、寝坊したか、昨夜はIBAIに泊まって朝になってから一旦家に帰り、シャワーと着替えを済ませて戻ってきたってところだろう。お前の分かりやすい性格からしたら、後者だろうと思ったんだ」
「スゲーな、鳥肌立った」白鶴の完璧な推理にフランクは目を丸くした。「でもだからって良い思いしたわけじゃないさ、夕飯を一緒に食べて少し喋って、俺はソファーで眠っただけなんだから」
ギャーギャー喚き散らしながら、取っ組み合いの喧嘩をしていた蘭は手を止めた。「フランクはエンジュに本気なのか?」
「エンジュは可愛いよ。だけど天国に帰らなきゃならないんだから、本気になるわけないだろ」フランクは蘭の質問に軽く答えたが、日に日に魅力的な女性に成長していくエンジュから目が離せなくなっていた。
昼少し前、英俊のテレグラフィーが蘭の生家から発見された遺骨は、蘭の両親のもので間違いないと一報を告げた。英俊は蘭を呼び寄せて包み隠さず伝えた。
同じ報告が入り、オフィスの入り口に立って待っていた蛍雪に蘭は歩み寄った。分かっていたことだけど、実際に事実を突きつけられると蘭の心はズキンと痛んだ。蘭は蛍雪と一緒にラボへ向かった。
ラボに到着した蛍雪は、ちらりと蘭を見た。表に出さないようにしているが、やはり動揺しているようだと思った。ラボの主任であり解剖医である時和に、蘭に代わって声をかけた。「昨日見つかった遺骨を見せてもらえませんか?」
「ええ、いいわよ。ついてきて」時和は蛍雪と蘭を遺体保管庫に案内した。
両親の遺体は冷たい解剖台の上に慎重に並べられ、白い布がかけてあった。
「時和先生、丁寧に扱って頂いてありがとうございます」蛍雪は礼を言った。
「当然よ、いつまでいてもらっても構わないわ。私はオフィスにいるから、何かあったら声をかけてね」時和は保管庫を出て行った。
蘭はそっと白い布をめくった――父の黒ずんだ頭蓋骨の頭頂部が見えた。それ以上見る気になれなくて布を元に戻した。
「この2人に育てられてたら、俺はどんな人生を歩んだんだろうか?養父母は手塩に掛けて俺を育ててくれた大事な家族なんだ。今の人生が一番良かったって思わないと遣り切れない――でもそうしたら俺は実の両親より養父母がいいってことになってしまって、薄情な息子だなって思うんだ」
蘭の肩を蛍雪は抱いた。「蘭が薄情な人なわけないでしょう?育ててくれたことに感謝できる人なのですから。実のご両親が育ててくれていたら同じように感謝したでしょう。血のつながりよりも、一緒に過ごした時間が人の心に響くだけです。何も悪いことじゃありませんよ」
「……うん」蘭は白い布の上から、父の手があるであろう辺りをそっと撫でた。
「お葬式をして、きちんとお墓を立ててあげましょう。そして時々そこを訪れて息子の成長を報告してあげたらどうですか?2人はきっと喜びますよ」
「そうだな」母の頭に優しく手を置いた。白い布越しに硬い骨の感触が蘭の手に伝わってきた。
「これが終わったら家族旅行に出かけて、ゆっくり家族の時間を楽しむといい。今年の冬は寒くなるそうですから、暖かい南の国はどうですか?」
「それはよさそうだな。母さんは一度、地中海地方に行ってみたいって言ってたから、国内から出ようとしない父さんを一緒に説得してみよう」
「いいですね、あちらは食事も美味しいですし。1カ月ほどかけて巡ってきたらどうです?誰も文句は言わないと思いますよ」
「1カ月か――」
「私と1カ月も離ればなれになるなんて寂しいなって思いました?」蛍雪は蘭の顔を覗き込んでニヤニヤ笑った。
「思ってない!」図星を突かれて蘭は恥ずかしさでいっぱいになり咄嗟に否定した。
保管庫を出て行くとき、扉の前で立ち止まり両親の遺体を振り返った。
両親と赤ん坊の頃の自分が映っている古びた写真を、胸ポケットから取り出し、破れてしまうような気がしたので、指先でそっと撫でた。蘭はこれを絵にして家のどこかに飾ろうと思った。
写真をもう一度胸ポケットにしまいなおして、扉を開けて待っていてくれた蛍雪の手を握った。
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