第8話 家族

 英俊は〈ラフター〉に寄って、事前に注文しておいた食べ物を受け取り会議室に向かった。

 会議室に入ると律とフランクと犀星の3人、エンジュと雛菊と紬の3人が2チームに分かれて黒岡軍の精鋭部隊を題材にしたテレビゲームをやっていた。

 プレイヤーは兵士になりきって刺客や凶暴な妖を退治していき、5つある軍の頂点を目指すというものだ。

 黒岡軍がIBAIに変わって50年になろうとしているが、今もこの精鋭部隊に憧れている子供たちは多い。だからこのテレビゲームも人気を博している。

「ほら、飯を運んできてやったぞ!」

「ありがとう!英俊!」律は偽物の刀を振りかざして振り向いた。

「律は律のプレイヤーをやってるのか?」

「そうだ、俺がゲームになってるなんて知らなかったよ。これすごい面白い、犀星が伊織君のプレイヤーなのは良いんだけどさ、晴翔のプレイヤーがフランクなんだ、全然しっくりこないからさ、英俊が晴翔のプレイヤーになってよ」

「あ!律さん酷いな、俺はこれでもIBAIで一番、剣術が優れてるんですよ」フランクは腕を組んでふんぞり返った。

 満面の笑みで飛び上がって喜ぶ律を、英俊は可愛いと思った。

「ゲームはまた後からにして、先に飯食べようぜ、俺は腹が減った」今朝気絶したエンジュの表情は今も少し硬かったが、笑顔をうっすらと浮かべていた。

 きっとフランクが気を使ってゲームを持ち込み、少しでも明るい雰囲気を作り出そうとしたのだろう。彼はそういう男だ、少々お馬鹿なところはあるが、それでも他人から好かれるのは、彼が細やかな気遣いを嫌味なくするからだろうと英俊は思った。そうできる人は案外少ない。簡単なようで簡単ではないということだろう。

「やった!注文通り!激辛ブリトー」フランクはブリトーにかぶりついた。「これだよこの辛さが癖になるんだ」

「何でお前は家に帰らないんだ?蘭と白鶴は帰ったんだろう?」いつもなら金曜の夜になると、いそいそと帰って行くフランクの使い走りをさせられた英俊は、疑問に思って訊いた。

「蘭はITTに行ったかと思ったら、ここに戻ってくるなり、明日の早朝に親父さんと釣りに行くから先に帰るって言って出て行った」

「何であいつはITTに行ったんだ?」

「地獄の門を閉じる呪文が書かれた本を、大八木部長に見せてもらいに行ったんだ」フランクはもう一口、ブリトーにかぶりついた。

 律はすごい大口だなと思い、面白いものを見るようにフランクを見ていた。3口くらいでブリトーが食べられてしまいそうだ。

「大八木部長の博識に感謝だな」あれ以上時間がかかっていたら、本当に危なかったと、考えるだけで英俊は肝を冷やした。

「白鶴は婚約者のところへいそいそと帰って行ったよ」フランクは苦々しい顔をした。「で、俺がここで何をしているかって?俺は金曜の夜なのに予定がないからここで楽しく遊んでるんだ。悪いか!」フランクは口を尖らせた。

「なんだ、豆腐屋の子とは別れたのか?」

3ヶ月以内に別れるほうに賭けた俺の勝ちだなと英俊はほくそ笑んだ。

「彼氏ができたから関係を終わりにしたいって言われた、それで俺は『幸せになれよ』って言ってやったわけだ。はあ、俺って寂しい男だな」

 相性さえ合えば交尾に発展する動物とは違って、人間の恋愛は厄介だなと雛菊は密かに思った。

 食後2時間ほどゲームを楽しんだ英俊と律は海辺を散歩した。

夜の海は真っ黒でどこか不気味だ。

英俊は会議室からずっと律の手を握ってここまで歩いた。手を放したくなかったのは、律に頼まれて、黒岡軍史上最強と言われた柳澤晴翔のプレイヤーをやったからかもしれない、ゲームの中の男に嫉妬したのだ。かつての律の恋人に。「明日は非番だから、実家に顔を出してこようと思ってる。1ヶ月行ってないからそろそろ行かないと母が怒り出しそうだ」

「仲いいんだな」

「悪くはない程度だ。蘭のところほどじゃないさ、蘭は毎日メッセージのやり取り、してるし、家族でチームを組んで宝探しのモバイルゲームまでやってる」

「いいな、楽しそうな家族だ」

律が記憶を探っているような目をした。過去を思い出しているのだろう、黒岡軍の精鋭部隊は、血のつながった家族がいない律にとって、紛れもなく唯一家族と呼べる存在だったのだろうと英俊は思った。「律も明日一緒に来ないか?」

「俺?行っていいの?」

「もちろんだ、両親もきっと喜ぶ。まあでも、俺の家族は個性的だから大変だぞ」今のIBAIは組織だ。律の家族にはなりえないだろう。せめて自分の家族やチームのメンバーだけでも、律の家族に加えてもらいたかった。

 2人は海辺をしばらく散歩して、体が冷えた頃にゲストルームに戻ってきた。

 ベッドに潜り込んだ英俊は、律を後ろから抱きしめた。「そういえば昨日保留にした件があったのを今思い出したよ」律の首筋にキスをした。「今日中に片付けてしまわないか」

 律は首に伝わるくすぐったい感触に吐息を漏らした。「すごくいい案だな。俺も思い出したことがあるよ」律は振り向いた。「すごい技を見せてくれるんだろう?」

「そうだ、覚悟して、離れられなくなるぞ」英俊は律の唇を奪った。

 その甘い言葉に律は熱いため息を漏らした。

 英俊の絶え間なく動く手や唇に律の体が反応する。快感をひとつ残らず愛おしむように追いかけた。

 英俊は律の反応が良いところを執拗に攻めた。体の下で震えながら耐えている律の体温が英俊を煽り昂らせた。我慢できなくなった英俊は律の中に滑り込んだ。

 律は入ってきた感触に息をのみ恍惚となった。息の合った2人は同じリズムで動き、律は英俊の髪の毛に手を絡ませ、引き寄せると唇を吸った。こんなに愛おしい人を一瞬だって手放せるわけがない。英俊の指に自分の指を絡ませ指先に口を付けた。

 律の誘うような視線と指先から伝わる熱に英俊は浮かされた。律の腰をギュッと掴むと激しく揺さぶった。離れられないのは自分のほうだった。愛しているという言葉だけでは足りないほどに、彼を求めている。そして彼の心が欲しいと、欲深い英俊の男の部分が荒れ狂っている。

 重ね合わせた唇からお互いへの想いが溢れる。

 苦しそうな表情の律が英俊を高みへと押し上げ、英俊の執拗な攻めが律を高みへ昇らせた。

 ほぼ同時に自身を解き放つと、英俊はクラクラとする目眩を覚え、ぐったりと律の体の上に覆いかぶさった。

「俺はもう指1本だって動かせないくらいに脱力しちゃったよ」

 下敷きにしている律の上から降りて、律を引き寄せると頭のてっぺんにキスをした。「俺もだ、もう寝よう。ライトオフ」英俊は室内のライトを消して眠りに落ちた。

 律が翌朝目を覚ますと、英俊はまだ寝ていた。昨日は先に目を覚ました英俊がコーヒーを淹れてくれた。今日は自分が淹れようかとも思ったが、まだ英俊の腕の中から抜け出したくなかったので、もう少しまどろむことにした。

 英俊は自分の世話をやくのが好きみたいだし、少し甘えるのも悪くないと思って、そのまま英俊の匂いを嗅ぎながら幸せを味わった。彼が隣で寝ているそんな些細なことが一番幸せなんだと感じられた。

 朝飯はまた〈ラフター〉でオムレツが食べたいな。英俊が起きたら提案してみよう。それと英俊の実家に行った帰りに、酒を買ってきておかなければなどと考えていると英俊が目を覚ました。

「おはよう」英俊は律の頭に口を付けギュッと抱きしめた。

「おはよう、なあ英俊、俺またオムレツが食べたいな」

 呆気にとられた英俊は微笑んだ。「起き抜けに何を言うかと思ったら、オムレツか、そんなに気に入った?」英俊は起き上がってベッドから出るとフルオートコーヒーメーカーをセットした。

「うん、あのオムレツ最高だ」

「そうか、それはよかった。じゃあ食べに行こう」律に湯気が立ち上る温かいコーヒーのカップを渡した。

 律は自分で選んだとコーヒー豆の芳醇な香りと深みのある味を長々と堪能するとシャワーブースに向かった。

 午前中は律と雛菊が一緒になって、ああでもないこうでもないと議論を交わしながら、何やら作っているのを英俊は横目で見ながら本を読んだ。

 いつのまにか日は1番高いところに昇ろうとしていた。秋晴れの今日は釣り日和だ。蘭と親父さんは楽しんでいるかなと英俊は思い、今日は一日何事もなく過ごせますようにと祈った。

「律、そろそろ実家に行ってみよう、紬と雛菊はどうする?一緒に俺の実家に来るか?」

 雛菊は首を横に振った。「私は遠慮しておくわ、妖を知らない人間は苦手なのよ。人間も慣れない妖は苦手でしょうしね。エンジュの様子を見に行ってくる。お土産を買ってきてちょうだい」

「私もここにいます」紬は雛菊の手を握った。

 あまりしゃべらない紬の声を英俊はこの時初めて聞いた。小さな声だったが可愛らしい鈴を鳴らしたような声だった。

「俺の家族が妖を怖がるとは思えないが――まあいい、土産だな。実家の近所にある和菓子屋の団子を買ってきてやるよ。シナモンが効いてて美味いんだ」

「楽しみにしてるわ」雛菊は紬と一緒にエンジュのところへ歩いて行った。

 個人用マーブルが止めてある場所まで英俊は律と並んで歩いた。「何を一生懸命作ってたんだ?」

「簡易的な陣だよ、誰にでも使えるようにした。だけど簡易だから短時間しか使えない。また地獄の奴らが出てきたら、これを使って一瞬動きを止める。その間に急所を狙えばいい」

「便利だな」律が差し出した短いペンを英俊は受け取った。

「それあげる。地獄の奴らにしか効かないから注意して、ボタンを押すと光線が出る仕組みだ。試作だから3回しか使えないよ」

「ありがとう、助かるよ」英俊はポケットにそれを押し込んだ。

 英俊と律はマーブルに乗り込んで英俊の実家に向かう途中、ケーキ屋に寄って英俊の母親が好物だというアーモンドケーキを買った。

 律はアーモンドケーキの匂いをクンクンと嗅いだ。甘い香りが律の鼻に広がり幸せな気持ちになった。

「後で食べような」英俊は愛おしそうに律の頭を叩いた。

「うん、すごく楽しみだ」

「ここが俺の実家だ」英俊がマーブルから降り立ったのは、閑静な住宅街の一角に佇む白い壁と赤いレンガの屋根が目を惹く、清潔そうな家だ。

 前庭には花壇が設けられ、花々がおくゆかしく咲いている。誰かが手をかけ育てているのが窺える。花や木というのは、精霊が宿ることがあるほどに尊いものだ。大切にしないと罰があたってしまう。

「いい家だな」

「そうか?この辺りはみんなこんな感じだ。俺はどうもこういうメルヘンチックな家は好きになれない」

 律は周りの住宅を見渡した。確かに似たような家が立ち並んでいた。

「英俊とこの家は確かに不釣り合いだね」律はメルヘンチックな家に住む、ポロシャツを着た英俊を思い浮かべて愉快そうに笑った。「俺が言いたかったのは、ここは陽の気が満ち溢れているってことだよ」

「そうか、まあ、この辺りで悪いことが起きたなんて聞いたことがないな」

この住宅街に住んでいる人たちは、比較的良い生活を送っているようだ。どの家も前庭に花が植えられている。

「いい所みたいだな」

「治安はいいよ、家族連れが住むのに丁度いい環境だ。街までマーブルで20分くらいだし、近所に大型のショッピングモールもあるしな」

「天気がいいから外のテラスにいるはずだ」英俊は玄関からは入らず家の裏手に回った。

 英俊に案内されて家の裏手に回ると、英俊の読み通り両親は外のテラスにいた。整えられた庭と大きな湖が広がっていた。

 父親がテーブルのセッティングをし、母親が大皿に盛った料理を運んでいた。

 40歳くらいの女性と12歳くらいの女の子と10歳くらいの男の子が、ふさふさの毛並みの大型犬と一緒にフリスビーをして遊んでいた。

「あれ、姉さん、来てたんだ」

「当たり前でしょう、母さんからあんたが人を連れて来るって聞いたのよ。そんなの来ないわけにいかないでしょう」

「ああ、紹介する律だ」英俊は律に紹介した。「姉の葵星きほ、それと姪の糸優しゅうと甥の勇帆ゆうほだ」

 父親が割って入った。「律ってあの律か!地獄の番人の!ああ、なんてことだ、生きてるうちに会えるなんて夢みたいだ、そうだ一ノ瀬にも連絡しないとな、あいつ飛んでくるぞ」

 落ち着きを失って慌てている父親の姿に、早速頭痛がしてきた気がして英俊は額に手を当てた。「蘭と親父さんは今日釣りに行ってるよ」律に紹介した。「父の善耶よしや

 善耶が律の手を両手で握ってぶんぶん振った。「いやあ、お会いできて光栄です。俺のことはヨシって呼んで下さい」

「何だよ『ヨシ』って」英俊は父親のはしゃぎっぷりに呆れて、首を左右に振った。

「昔からの夢だったんだよ、『リツとヨシ』コンビみたいだろう?」

「親父、手を離せよ」まだ律の手を握ってぶんぶん振っている父親の手を英俊は離させた。

「英俊あんたいったい何考えてるの!両親の家に悪魔を連れてくるなんて!もしものことがあったら――」葵星の声は怒っていたが、表情には恐怖が現れていた。悪魔で地獄の番人の武勇伝を、幼いころから父親に聞かされて育った。葵星は英俊のように憧れを抱くのではなく、恐怖を抱いた。

 葵星が言い終わらないうちに英俊は遮った。「姉さん!そんな言い方ないだろう?律は人を傷つけたりしない」

 律は英俊の腕に宥めるように手を置いた。「いいよ英俊、怖がって当然だ。俺は先に帰ってるよ」

「あら、許さないわよ帰ったりなんかしたら。あなたが誰なのかなんて私には関係ないわ、英俊が人を連れて来るって言うから、余分にご飯を作ったのよ、食べて帰ってくれないと料理が余ってしまって困るわ」家から出てきた60代の女性――柔らかい雰囲気の中に、随分とおっかない何かが潜んでいるような女性だと律は思った――が、律の手を引っ張って行って無理やり椅子に押し込んだ。「ほら、あなたたちもボケっと突っ立てないで席につきなさい、食事にするわよ」

 呆気にとられた英俊は姉と口論するのをやめて律の隣に座った。

「母の瑛海えいみだ、ちょっと強引な人なんだ、逆らわないほうがいい、母を怒らせたら付きまとわれるぞ」

「聞こえてるわよ英俊、あなたが仕事ばかりで私生活を疎かにするから見ていられないだけなの」瑛海はテーブルに大きな鉢を置いた。

 律はそのゆで卵が入ったサラダに胸が躍った。ゆで卵を食べるために、ここは緑色の何か――律にはそれが何の葉っぱなのかよく分からない、〈ラフター〉のサラダに入っていた物に似てなくもない――を我慢して食べる価値があるだろうかとサラダごときに懊悩した。しかし、律にとっては早急に処理しなければならない重要案件だ。

 英俊は律に耳打ちした。「演説が始まるぞ、母さんは生活の質向上――QOLだっけ?――ってものに入れ込んでて蕪木かぶらぎ也奈人やなととかいう胡散臭い奴の講演を聞きに行ってるんだ」

 卵に気を取られていた律はハッとして英俊を見た。「蕪木也奈人なら俺も知ってる。講演を聞きに行ったよ、面白かった。俺もあの人好きだ」

 英俊だけじゃなく葵星と善耶も目を丸くした。瑛海が入れ込んでいる理由は、蕪木也奈人がとんでもない美青年だからだと思っていたのに、あんな退屈な講演を瑛海以外に面白いという人がいたとは驚きだった。

 あのどこか胡散臭い美青年に英俊は嫉妬した。もしも律に気のあるそぶりでもしたら叩き潰してやろうと思った。

 瑛海は家族から理解してもらえなくてやきもきしていたが、やっと同士を見つけて喜んだ。「そうでしょう?この子たちったら全然也奈人様の良さを分かってくれないのよ。今度講演を一緒に聞きに行きましょうよ」

 どうやら母の心を律はつかんだようで、QOLについて英俊にはちんぷんかんぷんな話をして盛り上がっている2人は、講演へ蘭の母親とフランクの母親も誘って一緒に行く算段をしているようだった。

 律の持ち前の明るさと屈託のなさは、さぞ母親世代の女性に好かれるだろうと、英俊はその3人の母親が律を可愛がる様子を想像して、ちょっとばかし律を取られた気がした。複雑ではあるが、律に家族のような存在が増えることは嬉しかった。

 勇帆は椅子に座って足をバタバタさせながら目を輝かせて訊いた。「ねえ、律は悪魔なんだろう?僕、授業で習ったんだ」

「元は人間だったけど今は悪魔だよ」

 糸優も歴史の授業で習った人物に興味津々だった。勇帆よりも少し年上だから噂話もよく聞いていた。「私、いつもゲームでは律のプレイヤーをやるのよ。悪魔の目を最近手に入れたの。数分間しか使えないし、一度使っちゃったら1時間は使えなくなっちゃうんだけどね。律の目も時間制限があるの?」

 勢いよく喋る2人の子供たちに、律は懐かしい過去を思い出して微笑んだ。黒岡軍にいた頃はよく子供たちと遊んだ。

「俺のプレイヤー?それは嬉しいな。俺の目に時間制限はないよ。いつでも好きな時に好きなだけ使える」

 糸優と勇帆は口々に「今もできる?」「見たい!」と囃し立てた。

 葵星は父親に促されて律と同じ食卓についたが、視線を律から離さなかった。それは子供を守る母親の目をしていた。

「こら、2人ともやめなさい、食事中よ」葵星が窘めた。

「俺も見てみたいな」葵星の険しい顔を知ってか知らずか、善耶は律に向かってずいっと顔を突き出して言った。

「親父、はしゃぐのはやめてくれ、見てるこっちが恥ずかしくなる」英俊は額に手を当ててため息をついた。

 祖父が孫と一緒に目を輝かせているのが面白くて、律は可笑しそうに笑った。「いいよ」と言うと律の瞳が黒々と光った。

 吸い込まれそうな瞳を、善耶と糸優と勇帆は食い入るように見つめて「――おお」と感嘆の声を同時に上げた。

 律は瞳の色を薄い紫水晶色に戻した。「ハハッ!いい反応だな」

 それから小一時間、あれこれと世話を焼く瑛海と、子供たちと一緒になってはしゃぐ善耶を見て、英俊の家族は楽しいなと思いながら律は、瑛海の絶品料理を堪能した。

「すごく美味しかったよ。瑛海さんの作る料理は絶品だ」律は皿をキッチンに運んだ。

「そう?嬉しいわ、いつでも食べにいらっしゃいね。私はね、英俊の友達は全員私の子供だと思っているの。だからあなたも私の子供よ」律の手を取った瑛海は軽くそして愛情を込めて手の甲を叩いた。食事中は始終笑顔だった律が、葵星から言われた言葉に内心傷ついていたのを瑛海は鋭く見抜いていた。

 母親というものを知らずに育った律は、『私の子供』と言われて喜びと恥ずかしさでむず痒くなった。「――ありがとう」

 照れている律を見て英俊の胸に温かいものが広がった。

 英俊と律が並んで庭に出てくると、子供たちは湖のほとりで遊んでいた。

 湖に向かって英俊は椅子を2脚並べて律と一緒に座った。

 糸優と勇帆だけでなく、近所の子供もそれぞれの家の庭先で思い思いの遊びを楽しんでいた。時折子供たちの笑い声が響いた。

 律は椅子の背に体を預けくつろいだ。こんなに満たされた気持ちになったのはいつぶりだろうかと考えた。男娼として生き、死して悪魔となり長い間地上を彷徨ってきた律は満たされたことが無かった。初めて充足を感じたのは、出会った当時、黒岡軍大佐だった柳澤やなぎさわ晴翔はるとに『愛してる』と言われた時だ。それは味わい難い幸福を律にもたらした。

 黒岡軍の相談役に就任すると、晴翔の兄と兄嫁は律の両親のような存在に、精鋭部隊は兄弟のような存在になっていった。それまで家族と呼べるのは紬だけだった律にとって、掛け替えのない仲間だった。

「みんな楽しそうだな」

「子供の頃は蘭と一緒によくこの湖で遊んだんだ。泳いだり釣りをしたり子供のいい遊び場なんだ」

「子供の頃の英俊と蘭はきっと可愛かったんだろうな」

「悪ガキだったかな。よく泥だらけで帰ってきて母さんに2人して怒鳴られてた」

「あはは、瑛海さんに怒鳴られるのは怖そうだ」

 その時突然、糸優と勇帆の叫び声が上がって、すぐに水の跳ねる音がした。

 英俊と律は椅子から弾かれるように立ち上がって湖に向かって駆け出した。律が湖にできた波紋の中心に飛び込むと、英俊も続いて飛び込んだ。

 父親の善耶と並んで座り、話をしていた葵星も悲鳴を聞いて、慌てて湖のほとりに駆けつけた。ぶるぶると震えながら水辺にうずくまっていた糸優を葵星が抱きしめ、善耶は葵星の肩を抱いて律と英俊が飛び込んだ時にできた湖の波紋を見つめた。

 大きな波紋が小さくなり消えかかった時、律と英俊が湖から顔を出した。律の腕にはぐったりとした勇帆が抱えられていた。

 律は英俊に勇帆を渡した。「水虎すいこだ!湖から人を遠ざけてくれ!」律はまた湖の中に潜った。

 英俊は意識を失った勇帆を腹の上に乗せて、顔が水に浸からないよう、背泳ぎで岸まで泳いだ。

 水から上がると勇帆を善耶に託した。「家の中に入ってて」

 善耶は意識を失っている勇帆を抱きかかえて、葵星と糸優を連れ家の中へ駆け込んだ。

 英俊はすぐさま水辺で遊んでいる子供たちを、砂を操って水辺から遠ざけた。

 それに驚いた親たちが家の中から出てきた。「英俊!いったい何事だ!」

 英俊は叫んだ。「湖に水虎が出た!家の中に入っててくれ!」

 砂に乗って運ばれキャッキャッと笑っている我が子を、親たちは素早く抱え上げると、家の中に飛び込んでドアをきっちり閉めた。

 善耶は家の中にいた瑛海に、葵星たちと部屋の奥へ行くように言い、自分は窓から外の様子を窺った。

 湖の上では水虎が大暴れしていた。律が水虎を追いかけ、英俊は砂を巻き上げて水虎の行く手を阻み湖から出られないようにした。

 自分がもう少し若ければ一緒に戦えるが今は引退した身、ここで出て行っても足を引っ張るのは目に見えている。悔しかったが善耶はただ外の2人を見守った。

 一瞬の隙をつき、律は水虎の背中に飛び乗って印を結び陣を描いた。

 青く光る美しい水虎の背に乗り、濡れた銀色の髪からキラキラと水滴を零し、まるで最高のおもちゃをもらった子供のような笑顔で、風を切るよに駆ける律は儚く、絶世の美しさに英俊は目が離せなかった。

 水虎の体は見る見るうちに小さくなり手のひらに収まるほどになった。

 どちらが勝つかハラハラしながら、窓にへばりついて見ていた住民たちは、律の勝利に歓声を上げた。

 律は水虎を筒状のアクリルケースに入れて、英俊のところへ戻ってきた。「妖は人に悪戯をするだけで襲わないものなんだけど、水虎は子供に噛みついてしまうんだ。祓ってしまったほうがいいんだけど、滅多に姿を現さない水虎だし、もったいないから使役できるかやってみるよ。犀星を使役者にしたらいいかも」

 ——妖とは恨みを抱いて死んでいった動物の傷ついた魂で、実体のない彼らは霊力によって姿形を保っている。よって殺すことはできない。彼らが人間を襲った場合封印するか、祓うかのどちらかである——

「何故、縛の陣を使わなかった?」

「水虎は賢いからね、縛の陣にそうやすやすとは捕まらないよ、手で捕まえた方が早い」

「なるほど、そういうことか」

「うん、紬だって縛の陣に捕まるようなへまはしないと思うよ。あいつも水虎も空気の淀みを見分けるから、素手で捕まえるのも難しいだろうけど、気配を完全に消してしまうことができたら、気づかれずに背後に立てるだろう」

「律にしかできない荒業といったところか?」

「そんなところかな、水虎や紬ほど賢い妖を捕らえるなら、巧妙な作戦を立てて、罠におびき寄せるのがいいだろうね。紬に練習台になってもらって訓練するといいよ」

 2人が並んで家へ向かって歩き出すと善耶が駆け寄ってきた。

「勇帆が目を覚まさない――」

 青褪めた顔をした善耶の肩を律は、元気づけるように掴んだ。「見てみよう」

 瑛海に支えられて座っている糸優は茫然としていた。

 葵星は泣きながら腕に抱えている息子の名前を呼んで、目を覚ましてくれと懇願していた。

 律は勇帆の体を探った。「傷はないようだ、噛まれたわけじゃないから心配いらない。ただびっくりして気を失ったんだろう、おかげで水を飲まずに済んだ」律は手のひらを勇帆にかざすと、濡れた髪の毛や服の余分な水を絞り出してから勇帆の体に霊力を送った。

 勇帆はすぐに目を覚ました。全員が詰めていた息を吐き出し安堵した。

 葵星は勇帆の体に顔をこすりつけて喜んだ。

「お母さん痛いよ」何があったのかよく覚えていない勇帆は、状況がのみ込めなかった。

 それからしばらく、のんびりとした時間を律と一緒に過ごした英俊は、日常に戻るのを少しばかり憂鬱に思いながらも夕方5時ごろ「そろそろ帰るよ」と告げた。

 善耶は律に耳打ちした。「君が現れたってことは、何か大きなことが黒岡で起こっているんだろう?英俊を、チームの他の者たちをよろしく頼む、俺や瑛海にとって大事な息子たちなんだ」

「必ず守ると誓うよ」

 英俊と律が土と木を使って作った迷路で、遊んでいた子供たちが走ってきた。

「律兄ちゃん、ありがとう、迷路すげー楽しいよ!」勇帆は妖に襲われたことなんてなかったことみたいにケロッとしていた。

「おい、俺も手伝ったんだから俺にも礼を言えよ」英俊は勇帆の頭をワシャワシャと撫でた。

 甥っ子を可愛がる英俊を見て律は、この無邪気な笑顔の男の子を、失わなくて良かったと心底思った。湖の底で水虎に体を咥えられている勇帆を見た時は寒心した。噛まれていたら命が危なかっただろう。

「また遊びにきてくれる?」弟が襲われるところを見ていた糸優は、勇帆と違いまだ怯えが腹の底に居座っていた。

「もちろんだよ、まだ怖い?」

 律の問いかけに糸優は黙って首を横に振った。

 手を握りしめて俯いている糸優が、やせ我慢をしているのは誰の目にも一目瞭然だった。

「糸優は強いね、俺が君くらいの時はもっと怖がりだったよ。君は強いけどさ、お母さんや勇帆が怖がるといけないから、糸優にこれを持っていてもらおう」律は4枚の形代かたしろを糸優に渡した。「お父さんとお母さん、それから勇帆と糸優の身代わりだよ。また怪物が襲ってきたらこの形代に息を吹きかけるんだ、そうすれば身代わりになってくれるからね」

「うん、律兄ありがとう」

「何もなくても、怖いなって思った時は、いつでも英俊に連絡しておいで、俺が飛んできてあげるからね」

「うん!」糸優の硬い表情がいくらか柔らかくなった。

 葵星は律の手を引いて家族から遠ざかった。「さっきはごめんなさい、あなたの事を追い返そうとしたりして、あなたがいなかったらどうなっていたか、想像するだけでも怖ろしいわ。でも分かって私は家族を守りたかったの」

「分かってるよ、気にしなくていい、俺は全然気にしてないから」葵星に手を引かれた律は、強引さは母親譲りなんだろうなと思い、それぞれ似たところがある家族を可笑しく思った。

「ありがとう、それと勇帆を助けてくれたこと、糸優を落ち着かせてくれたこと、本当にありがとう」

「俺は英俊が好きだ。英俊や家族が傷つくようなことは絶対にしないし、誰かが傷つけようとしたら俺は容赦しない。それが誰であっても」

「あなたを信じるわ」葵星は目からあふれ出しそうな涙を拭った。

「さあ、2人を仕事に戻らせてやろう」2人の話しが終わるころ合いを見計らったように、善耶が近づいてきて葵星の肩を抱いた。

 英俊と律はマーブルに乗り込み、温かな家族へ手を振ってIBAIに向かった。

 律と英俊は途中、忘れずに土産を買い、雛菊と紬とエンジュが――雛菊が言うには女同士の会話らしい――談笑している所へ届けて夕食を食べに行った。

英俊から何が食べたいか聞かれた律は迷わず「焼き鳥!」と答えた。

よほど鶏が好きなのだろう、勢い込んで言ったその言葉に、ひとしきり笑った英俊は、自分の行きつけの焼き鳥屋に律を連れて行くことにした。

 〈焼鳥むつせ〉は古民家を改装して営業している。店内は4人掛けテーブルと2人掛けテーブルが各2つ、カウンター席が7つある。

 店の引き戸を開けて暖簾をくぐると、30代後半くらいの女性店員が声をかけてきた。「いらっしゃいませ――英俊、今日はまた、えらい別嬪べっぴんさんを連れて来たわね。目の保養になるわ」

「だろ?美味い焼き鳥を食わせたくて連れてきた。ここより美味い店は黒岡には無いからな」

「また上手いこと言って、何も出ないわよ――カウンターに座って」

 英俊と律はカウンター席に座った。

 カウンターの奥、調理場には40後半に差し掛かろうかという男性が1人で串に刺さった鳥を焼いていた。

「こりゃ驚いた、本当にキレイな顔してる――」何かに気が付いたようでその男は絶句した。「あんたもしかして律さんか!」

「うん、律だよ。よろしくね」

「腰抜かしそうだ。母ちゃん、あの律さんがうちの店に来てくれたぞ」

 水とおしぼりを持って先ほどの女性が戻ってきた。「うそでしょ!10歳の息子があなたに夢中なのよ。ちょっと一緒に写真撮らせてもらっていいかしら」

「うん、いいよ」

 どうやら目の前のガタイの良い丸顔に小さな目の男と、気さくで声の大きいふくよかなこの女性は夫婦のようだ。

 店内にいた客も騒ぎに気が付いたようで、写真撮影と握手会が始まってしまった。

数名しか入れない、狭い店内でよかったと英俊は思った。

 律は一通り賞賛の声に照れながら礼を言い、写真撮影に快く応じてから英俊のところへ戻ってきた。

「何でみんな俺のこと知ってるんだ?」

「黒岡軍は黒岡に住む者にとっての誇りなんだ。その黒岡軍のヒーローは律だから、みんな律に感謝してるんだよ。それにゲームの影響も大きい。一番人気のキャラクターは律だからね」

「そうなのか、なんかちょっと照れくさいな」

 常連の英俊はメニューも見ずに注文した。「ビール2つ、それから揚げ出し豆腐と酢もつ、あとフルーツトマト、串はいつものように順番に出して」

 40過ぎの男がカウンターの奥、調理場から返事をした。「あいよ、なあ英俊、IBAIは最近なんかあったのか?ITTからよく出前の注文が入るんだ」

「知らないな、何も聞いてない。ITTは部長が変わったばかりだから何かとバタバタしてるんだろう。あの部長、真面目な人だから部下にもきっちり仕事させてるんじゃないかな」パニックを起こさせないため、英俊は真実を知っていながらはぐらかした。

「そうか、ならいいがな、巨大なワニが人を喰ったってニュースでやってただろう?それでITTが連日連夜徹夜で仕事してんのは、こっちにもワニが出るって情報をつかんだからじゃないかって噂になってんだ」

「そうなのか、だけどワニなら大丈夫だ。退治したし、これ以上出現することはないよ」

「英俊が言うなら安心だ、それにこっちには律さんがいるんだしな、ワニぐらいどうってことない。他の奴らにも安心するように言っとくよ」

「そうしてくれ」

 ビールが来たので、英俊と律は瓶をカチンと鳴らして、戦友と今日の働きを労った。

 英俊は主に、よくできた息子の務め。律は子供の遊び相手と、英俊の家族に気に入られる努力だ。

 律はビールをゴクゴクと喉を鳴らしながら飲んだ。1日の終わりに素晴らしい締めくくりだ。冷たいビールに美味い飯、至高のひと時だと思った。「何もなければ明日は、犀星を特訓しようと思うんだ」

「あいつ物になりそうか?」

「一角の人物になってくれないと困るよ」律はため息をついた。「霊力が低いのは修練のやり方に原因がありそうだから、彼に合った方法さえ見つけられれば上手くいくと思うんだよね」

「うちのチームは危険な任務が多いから、力をつけてもらわないとな」

 黒岡に来た目的は招き猫の成仏だったが、鳥を食べるのも重要な目的の1つだった。念願の鳥を頬張って律はご満悦だった。「うん、結局のところ妖術使いは霊力の高さがものを言うんだ。術自体は難しいものではないからね」

「ああ、見てて分かる。霊力が高いと言われている妖術使いほど、陣が輝いて見える。今のIBAIで霊力が最も高いのは増田局長だろうな。前にうちのチームにいた高橋さんも高かったが、律に到底及ばないってことは分かる」

「高橋って聞いたことがあるんだけど、光輝君の血縁者だったりする?」

「そうだ、光輝さんの孫だよ」

「そうなのか!光輝君の孫も妖術使いになったのか」

「うん、優秀な人だったよ。チームを任されてすぐの頃、何かと助けられた。まだまだひよっこだった俺を育ててくれたのが高橋さんだ。半年くらい前に退職して、何故か陶芸家になってるよ。夫婦で隠居生活を楽しむんだそうだ。娘さんは、青京せいきょう支局で妖術使いをやってる。なかなかの凄腕らしいぞ」

「ハハッ!なんだか楽しくなってきちゃった。光輝君もちゃんと子孫に伝承してたんだね。その娘さんにも会ってみたいな」

「きっと腰を抜かすだろうな」

「柳澤の血を継いでる犀星だって素質は十分にあると思ってるんだ。ただそれを上手く引き出せていないだけなんじゃないかな、彼は少し特殊な感覚を持っていると感じるから、開眼したらとんでもない妖術使いになるかもしれないよ」

「IBAIきっての妖術使いになれるということか」

「そうだね、将来が楽しみだよ。それにしてもやっぱり黒岡の鳥は美味いな」

「そうか、気に入ってくれたならよかった」嬉しそうに焼き鳥を食べる律に英俊は幸せを感じ、もっと彼の笑顔が見たいと果てない欲望を抱いた。

 律は日曜日を宣言通り、朝から晩までみっちり犀星の特訓に費やし、英俊はそれを見学したり、エンジュの様子を見に行ったりして過ごした。

 チームのそれぞれが思い思いの週末を過ごし何事も無く過ぎていった。

 月曜日の早朝8時、チームのメンバーはオフィスに集まった。

 全員表情が硬いのは仕方のないことだった。いつも冗談を言って白鶴に呆れられているフランクでさえ、押し黙ったままだ。

なぜこんなに重苦しい雰囲気に包まれているのかというと、今日これからサルコスクスの被害者が家族の元へ帰るからだ。

 貨物用のマーブルに、モルグで働く局員たちが、遺体を積み込むのをオフィスで静かに待っていた。

 1時間ほどしたころ英俊のテレグラフィーに積み込み完了の通知がきた。英俊たちは地下エアポートへと向かった。全員どことなく足取りが重かった。

 不可能だと分かっていながらも英俊は、もっと早く到着できていれば助かったかもしれないという思いに囚われた。

 それを察したのか、律が慰めるように英俊の腕を撫でた。

 3日前の夜、間に合ってくれと願いながら降り立った川に、英俊たちを乗せたイリデッセントクラウズは到着した。

 今日の午前中にIBAIの捜査官が、被害者の遺体を乗せてくるという知らせを受けていた住民は、家族の帰りを家の外に出て、今か今かと待っていた。

 英俊たちは貨物用のドアを開けて、棺を1つずつ丁寧に下ろした。

 蘭は棺の窓を開け、故人の顔が見えるようにした。

 間違いであってくれ、家族は行方不明なんかじゃない、きっと帰りが遅くなっているだけなんだという考えに縋った日から、日を追うごとに絶望していった彼らは憔悴しきっていた。

 両脇を支えられて、ふらふらとした足取りで棺に近づいた50代の男性が、棺を抱きしめるようにしてくずおれた。

 次々に降ろされた棺は涙を流す家族や友人たちに出迎えられた。

 荒井清玄に招かれていた2人が猫塚菜都乃と若松紫月で間違いないかどうか、荒井清玄のテレグラフィーを調べれば分かることだろうが、猫塚菜都乃の遺体に話しかけている3人の女性に気づいた英俊は話を聞いてみようと思い近づいた。

「IBAI捜査官紫雲英俊です。この度はお悔やみ申し上げます。お辛いところ恐縮ですが、お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」

逞しく鍛え上げられた肉体の男が、同情の色を浮かべながら柔らかく微笑む姿に、3人の女性はうっとりとした。

小松こまつ菜々美ななみです」

友田ともだ瑠香るかです」

相川あいかわ瑞希みずきです」

「皆さん、猫塚さんとはお友達ですか?」英俊が訊いた。

 その中でも1番年長だろう、50代くらいの小松菜々美と名乗った女性が、涙をハンカチで拭いながら答えた。

「はい、私たち以前同じ職場で働いていたことがあって、今でも交流があったんです」

「若松さんと荒井さんも同じ職場だったそうですね」

 小松菜々美は息をつまらせながら話した。「はい、猫ちゃんとしーちゃん、あ、若松紫月さんのことです。それから清玄さんは30年以上前からの知り合いで、西バスに一緒に入社してきたんです。でも猫ちゃんは退職して夢だった飲食店を数年前から始めたんです。彼女の作る料理はとっても美味しくて、私たちよく通ってたんです」

 40代の長い髪を後ろで1つにまとめている友田瑠香は、悔しそうに声を震わせた。「まさか3人が同時に亡くなるなんて、もしこれがあの日じゃなかったら――」

「あの日というのは?差し支えなければ教えて下さい」英俊が訊いた。

 40代の美人だと言えなくもない相川瑞希が答えた。「月に1度、3人は同窓会だと言って集まっていたんです。大抵は清玄さんの家に」

 隣で聞いていた若松紫月の夫、卓実が話に加わった。「奥様が亡くなられてから菜都乃さんと妻は、清玄さんがちゃんと暮らしていけてるか心配してたんです。紫雲捜査官、菜都乃さんに家族はいません。我々が家族のようなものです。遺体は私が引き取りたいと思っているのですが、構いませんか?」

「もちろんです、故人も友人に送り出してもらいたいでしょうから」英俊はその場を離れた。

 第3の被害者の可能性も僅かにあったが、荒井清玄の自宅に訪れた2人の女性は、猫塚菜都乃、若松紫月で間違いないと断言していいだろう。

 2人が月に1度訪れる楽しい語らいの日が、最悪の日になるなんて誰が想像するだろうか、運命とは残酷なものだと思った。

 帰途に着く英俊たちのイリデッセントクラウズを、雨が打ち付けた。マーブルの中は、いよいよどんよりとした気分になった。

 この雨が亡くなった人たちの涙のように思えて、フランクはパーカーのフードを目深にかぶってテーブルに突っ伏した。

 英俊のテレグラフィーが通信を告げた。画面の表示にはITT大八木の文字。

「こんなときに!異象の発生だ」クソったれと心の中で悪態をつきながら応答した。ゆらりと大八木朔が現れ、全員が息を呑んだ。

「異象を感知した。IBAIより西の方角、そのまま向かえるか?」

 雛菊の目が白くなった。「多分大丈夫、でもこれって異象って呼べるかしら、とにかく場所は分かるわ」

「では、くれぐれも気をつけて」大八木朔は通信を切った。

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