第7話 臍を嚙む

 IBAI本部の地下エアポートに着いたのが午前2時。全員ヘトヘトだったので、各々眠る場所を探しに行った。

 英俊と律は今朝一緒に出たゲストルームに帰ってきた。ほっと一息ついた律が部屋の窓を少し開けると、紬は外へ羽ばたいていった。

 人間に化けられる妖とはいえ、鳥である紬は、屋内より屋外の方が落ち着くのか、IBAIに来てからは、庭に植えられた楓の木に丁度いい場所を見つけ、羽を休めていた。そこに器用なフランクは巣箱を作って置いてやった。紬はチュピチュピと鳴いて喜びを伝えた。

 風呂に湯を張るためバスルームに入って行った英俊に、律はずっと考えていたことを伝えた。「秘密にしておきたいけど、エンジュはそれを望まないだろうし、やっぱり番人同士として、俺から伝えたいから。真実を話すことにする。俺1人で行きたいんだけどいいかな?」

 英俊はバスルームから出てきて、ベッドに腰かけている律に近づいた。「もちろん、律が最善だと思うことをしてくれていいよ。誰かに許可を取る必要はない。君は我々のヒーローだからね」律の服を脱がし始めた。「風呂に浸かろう」

「眠っちゃいそう」律は目を擦った。

律を引っ張って立たせ、手を引いてバスルームに連れて行った。「寝ていいよ、襲うから」

「ハハッ!今日はもうそんな元気ないよ」律は少し熱い湯に浸かると力が抜けていくのを感じた。どうやら英俊は少し熱い湯が好きらしい。

「俺もだ、その件は明日にまわそう」律の肩を撫でた。先ほど痛々しく裂けていた傷はどこにも見当たらなかった。その雪のように白い肌に英俊はやっと人心地がついた。

「すごく魅力的な提案だね」英俊の胸に頭をもたせかけた。

「楽しみにしてて、俺の技を惜しげもなく披露するから」律の美しく輝く銀色の髪を撫でた。

「それは期待しちゃうね、ハードル上げて大丈夫?」

「ああ、もちろん、忘れられないくらいの衝撃を与えてあげるよ」頭のてっぺんにキスをした。

 律はひとしきり笑うと真面目な顔をした。「明日はサルコスクスの腹を開けて、食べられた人を確認しないとね」

「場所が必要だな」ワニの腹から人間を引っ張り出すのだから、人目につかないところでないといけないし、そうなると8mの巨体をどこに置こうか悩んだ。

「サルコスクスは皮膚が硬くて分厚いから切るのに苦労するだろう。腹を切り開くのは俺がやるよ」

 2人は風呂から出て寝る支度を整えベットに入った。

 律は何か考え事をしているようだと英俊は思った。「どうかしたのか?」

「分からないことがあるんだ、エンジュは成長していなかったのになんで地獄の門が開いたのかなって。やっぱり俺じゃあ力を制御することができないのかもしれない」律は浮かない顔をした。

「自分を責める必要はない、律に落ち度はないんだから、それは分かっているだろう?被害を最小限に食い止めよう、それしかできることはない」英俊は律の頭を優しく撫でた。

「英俊、俺だって分かっているけど、それでも、もっと力があればと思ってしまうことってない?」

「気持ちは分かるよ、俺もこんな日は自分の非力さを痛感する。だけど、どんなに強い力を持っていても、全ての人を救えるわけじゃないのも事実だ」

「うん、そうだね」

「さあ、もう眠って」

 律は悔しい気持ちを抱えながら、英俊の胸に頭を押し付けて深い眠りに落ちて行った。

 翌朝コーヒーの香りに誘われて目を覚ました律は、すでに起きていてソファーに座りテレグラフィーで何かを読んでいる英俊を見た。

 真剣な彼の顔を暁光ぎょうこうが照らしていた。

 ゆったりと後ろに流れるウェーブのかかった髪、強さをあらわしているかのようなしっかりとした四角い顎、黒いTシャツの袖から覗く力強い腕。律はうっとりと見つめた。

「おはよう、何読んでるの?」

「おはよう、お目覚めか?蛍雪の報告書を読んでた。コーヒー飲むか?」

「うん、ちょうだい」律は上半身を起こして、背中を伸ばした。

 英俊はコーヒーを注いだカップを律に渡して、その体を引き寄せ頭のてっぺんにキスをした。

「ここから少し行ったところにある屋内競技場を使えるようにした。10時に解剖医とそこで落ち合う手はずにしたけど、よかったか?」

「それでいいよ」

 今朝も律は浮かない顔をしていた。これからエンジュに伝えなければならないことを思うとそれは至極当然だなと英俊は思った。

「今日は外に朝飯を食べに行かないか?〈ラフター〉ってすごく美味いオムレツを出す店があるんだ」

 律の心が躍るように弾んだ。「オムレツだって!俺卵が大好きなんだ、オムレツって聞いただけで涎がでる」

「そうか、それはよかった。それじゃあシャワーを浴びて出かけよう」

 2人は出掛ける支度をすると、IBAIの敷地からほど近い所にある店に向かった。

 その近さから、この店はIBAIの局員たちがよく利用するレストランだ。店内にはやわらかな音楽が流れ、美味しそうな匂いが漂っていた。

「よお、英俊、律さん」テラス席に座っていたフランクは、席から立ちあがって2人に手を振った。

 蘭、フランク、白鶴、犀星も朝食を食べに来ていた。

 フランクのように大声を出す気が無かった英俊は、手を上げて答えた。

「紫雲捜査官、おはよう」英俊と律が店内に入ると――60代前半くらいの女性――店員が挨拶した。

一華いちかさん、おはよう。オムレツ2つお願い」英俊は注文すると、フランクたちが座っているテラス席へ近づいて行った。「なんだお前たちも来てたのか」英俊と律は隣の席に座った。

「スタンドのサンドイッチは不味いからな」蘭はウィンナーを口に入れた。

「おや、皆さんお揃いでしたか」早朝とは思えないほどのさわやかな笑顔でやってきた蛍雪は、蘭の隣に座った。「皆さん早起きですね、うちのチームは朝が弱くてね。ギリギリまで起きてきませんよ」

「そうだ、蛍雪、10時から競技場でワニを解剖する予定だけど、お前も立ち会うか?」英俊が蛍雪に訊いた。

「そうですね、手が空いたら顔を出すことにします」

 律の前にオムレツが運ばれてきた。

 黄色く輝くオムレツとハッシュドポテト、ウィンナーにベーコンが乗った皿を輝くような瞳で見つめた。――緑の何かはキレイに黙殺した――パンとサラダが添えられていた。

律はオムレツをフォークですくって食べた。「おお、フワフワでトロトロだ!英俊、本当に美味いよ」

「だろ?シェフは俺の同級生なんだけど、オムレツ作るのだけは昔から上手かったんだよ」

「オムレツだけってなんだ!他のも美味いだろうが」厨房からシェフが怒鳴った。

「この距離で普通聞こえるか?地獄耳だな」

 浮かない顔をしていた律が今は笑っている、この後すぐにまた浮かないどころか、辛い立場に立たされることになると分かっていても、少しは和んでくれたようで連れ出してよかったと英俊は思った。

 律は緑色のもの以外は全部キレイに食べた。お腹が満たされた律は力が湧いてきたのを感じて、そうだ、エンジュにも食べさせてあげよう。美味しいものを食べれば少しは元気が出るかもしれないと考えた。

「エンジュに持って帰れないかな?」

「それなら、卵サンドを作ってもらえばいいですよ」フランクは店員に声をかけた。「一華さん、卵サンドを3つ作ってくれない?」

「かしこまりました」

「せっかくだから、雛菊と紬にも持っていきましょう」

 大勢で食卓を囲むことが楽しいようで、満悦しているフランクに申し訳なさそうに律が言った。「ありがとうフランク、でも紬は卵を食べないよ――だって共食いみたいなもんだろう?」

「ああ――思いつかなかった」

「ちょっと考えたら分かるだろう。紬は燕だぞ」白鶴はフランクをいつものようにせせら笑った。

 愕然としているフランクを律も笑った。「エンジュに2つあげればいいから、いいんじゃない?」

 律は大勢でワイワイと食べる食事が懐かしく、大好きだったので嬉しくなった。

「律、ブロッコリーとサラダが残ってるぞ」英俊は律の皿からブロッコリーをフォークに突き刺し律の口元に持って行った。「ほら食べろ」

「俺は緑色の食い物は嫌いだ」律は体を反らせてブロッコリーから逃げた。

「好き嫌いするからそんな痩せっぽちなんだ」

「俺は食べても太んないよ、栄養になってるわけじゃないんだから」

「そうなのか?じゃあ食った物はどこに行くんだ?」英俊はフォークに刺さったブロッコリーを自分の口に放り込んだ。

「それは俺も謎、どこかへ消えちゃう。だから不味いものは食べないんだ」

「朝からイチャつかないでくれるかな!」蘭は怒りに震えた。

「まあ、いいじゃないですか」蛍雪は最近恋人と破局したばかりだったので2人が羨ましかった。「お似合いですよ」

「そういうことを言うなよ、英俊が調子に乗るだろうが」蘭は蛍雪に指を立てて注意した。

蛍雪に向かって怒っている蘭を見て、あれはイチャついているうちに入らないのだろうかと律は首を捻った。

 腹が満たされた英俊たちはエンジュのところへ向かった。

 会議室につくと律は1人で部屋に入っていった。英俊たちは隣室でその2人の様子を窺うことにした。

 律は陣を解きエンジュとソファーに座った。英俊たちからは律の横顔しか見えない。

律は〈ラフター〉のシェフに作ってもらった卵サンドを2つ渡した。

 卵サンドを律から受け取ると、エンジュは大喜びでそれにかぶりついた。

 しばらくやり取りが続き、突然エンジュの体がグラッと前に傾いて、気を失った。律がその体を受け止めた。核心の部分に触れたのだろうと英俊は思った。

 エンジュを抱え上げベットに寝かせた律は、その頭をそっと撫でて、額に親が子にするようなキスをしてからエンジュを残し会議室を出た。

 英俊は律がなかなか戻ってこないので、心配になって様子を見に行った。律は廊下の先にうずくまっていた。英俊が律の隣に座ると、律が肩に頭をもたせ掛けてきた。

「俺のせいだ……」

「違う、そもそもの原因はエンジュを地上に落とした番人のせいだ。エンジュも律も悪くない」律の手を慰めるようにそっと叩いた。

「無力に感じるよ」

「あんなに強いのにか?巨大ワニを振り回してたのは誰だったっけ?あれにはほんとビビったぞ」

 律は軽く笑った。

 英俊は律の顔を両手で包み込み唇に優しいキスをした。

「エンジュの迎えが来るまで一緒に耐えよう」

「うん」律は英俊の体に抱きついた。

午前10時、英俊と律たちは全員競技場に集まった。松倉チームも時間が作れたようで全員来ていた。

 律はここに来たことがあった。その昔、まだここに黒岡軍の本部があった頃、夏祭りの時に兵士たちと海に飛び込んだのを思い出した。あの時と違って競技場は屋内になっていてここからは海が見えない。

 2階の観客席に立ち1点を見つめている律に英俊は声をかけた。「大丈夫か?」

「夏祭りって今もやってる?茅の輪くぐるやつ」

「ああ、やってるよ。最終日は俺の勇姿が見れるぞ、この競技場でラクロスの試合をするんだ」

「そうか……それは来年の夏が楽しみだね」

このことが解決した後も、ここに残ってくれるのかと思って一瞬喜んだが、『楽しみ』という言葉が似合わない表情をしている律を、どうしたのだろうかと訝しんだ。

「本当に大丈夫か?」

「ここは昔も競技場だったんだ。でもここから海が見えてたなって思ってた」

「思い出があるんだな――」

「楽しい思い出がね」ずっと1点を見つめていた律は英俊の方を向いて微笑んだ。「そろそろ始めよう」

 律には別の景色が見えていたんだろうと英俊は感じた。それにほんの少し胸がざわついた。

 解剖医の春日かすが時和ときわ臙脂色えんじいろの術衣の上に黒いジャケットを羽織り、すらりとした長い足には同色のズボンに実用的な靴という格好で現れたが、今は、頭のてっぺんから足の先まで真っ白な防護服に身を包んでいる。

 競技場の中央に立った律は、木箱を開けてサルコスクスを取り出した。

 遅れてITT部長、大八木朔もやってきた。「私も立ち会わせてもらうよ」

 昨日、律と犬に散々痛めつけられたサルコスクスは、ピクリとも動かなかった。

 律は無言でサルコスクスの腹を切り裂くと、時和の部下たちと一緒に中の人たちを慎重に外に出した。

 10分後遺体袋が5つ並んだ。行方不明者の数と同じだ。

 被害者たちに静かに黙とうした。

 遺体の簡単な検査をいくつか済ませた時和は、サルコスクスの腹の中に足を踏み入れてサンプルを取った。「私、23年この仕事をしてるけど、まさか自分がワニのお腹の中に入ることになるとは思ってもみなかったわ」

 英俊たちは指紋照合モバイルデバイスFMMDを使って身元の確認をしていった。

 蘭はデバイスの画面に表示された文字を読み上げた。「一人目がともえ豪大ごうだい男性42歳、間宮崎在住、専業農家、妻琴穂ことほ40歳、子供が2人長男15歳、次男13歳」

 犀星は昨日の調書と照らし合わせた。「巴豪大さん、仕事を終え帰宅しようとしていたところを襲われたそうです。気の毒に、次男の維也ゆきや君が一緒にいて、始終を見ていたそうです。維也君はお父さんの豪大さんが、とっさに側溝に隠したようで、無事だったそうです」

 英俊はFMMDに片腕のない女性の手のひらを乗せた。「こっちは雪田ゆきた麻生まお女性67歳、間宮崎在住、無職、夫隆正たかまさ71歳、子供はいない」

「雪田麻生さん、夫の隆正さんが言うには、妻が犬の散歩に出た切り戻らないと……」捜査の過程で人を亡くすのがこんなにも辛いなんて思いもよらなかった、犀星は震える手をギュッと握りしめて、一度口から大きく息を吸い吐き出した。

 動揺したようだったが、すぐに落ち着きを取り戻した犀星のその姿を、白鶴は横目でちらりと覗き見た。

 初めて会った時白鶴は、犀星をやけに手足が長い青年だと思った。すぐにこのひょろ長い青年が、妖術使いとしてはダメダメだと気が付いた。

 そして、同じ妖術使いから陰で――いや、面と向かってだな――馬鹿にされ、蔑まれているのを知って、この気弱な青年はすぐにIBAIを辞めるだろう、もって2日だと見積もった。

 それが意外にも毎朝きちんと一番乗りで出勤してくる。根性だけはあるようで、白鶴が犀星を気に入ったのはそういうところだろう。

 今も一呼吸置いたあと、あっという間に立ち直って見せた。この青年は本人が思っているよりも強いと、いつも遠巻きに観察していた白鶴は直感的に見抜いていた。

 職業の選択を間違ったのではないだろうか、捜査官にするには少々頼りない見た目ではあるが、鍛え上げれば使えるのではないだろうか、木の特性をもつ犀星の長い手足は役に立つのでは?と考えていたが、最強の師匠を得た若者はその実力を、本来持っている底力を見せ始めていた。

 やはり白鶴の人物評価は正しかったということなのだろう。

 蛍雪は男性にもう一度手を合わせてから、指紋照合デヴァイスに手を乗せた。「こちらは荒井あらい清玄せいげん男性62歳、間宮崎在住ですね。仕事は西バス勤務、運転手ですね。妻春乃はるの58歳、3年前にすい臓がんで他界しています。子供は2人、2人とも成人して家を出ています」

「荒井清玄さん、襲われたところを見た人はいないんですが、荒井さんと面識のあったスーパーで働いている女性が、今日は友人が遊びに来てくれるんだと、昼にスーパーへ買い物に訪れた荒井さんが、嬉しそうに話していたと言っていました。荒井さんの自宅には、女性のものと思われる靴が2足ありました。そして、荒らされた庭には、3人分の食事が用意されているようでした。おそらく、女性が2人訪ねてきていたのではないでしょうか?少なくともその2足の靴の持ち主は見つかっていません」犀星は残り2体の遺体を見た。2足の靴の持ち主は彼女たちなのだろうと思った。

 白鶴も手に黒い手袋をはめ、自分の手を保護すると被害女性の手をFMMDに乗せた。「猫塚ねこづか菜都乃なつの55歳、間宮崎在住、間宮崎市の飲食店経営、結婚歴なし、子供もいない、両親も早くに亡くしてるみたいだ。長い間ずっと天涯孤独だったようだ。荒井さんを訪ねてきていた1人かもな、職場も自宅も現場から遠い」

 フランクは恐る恐る被害者の手をつかんでデヴァイスに乗せた。フランクは遺体を扱う仕事が一番苦手だった。子供の頃に年上の従兄弟が観ていたゾンビ映画を一緒に観たせいだと思っていた。死体がひとりでに動き出しそうな気がするのだ。「若松わかまつ紫月しづき女性48歳、間宮崎市在住、バス会社の西バス勤務、夫卓実たくみ51歳、子供が長女19歳、次女16歳、長男14歳」

「西バスか、荒井さんは西バスの運転手だったな、ということは2人目の女性は彼女だろうな、白鶴、猫塚さんの前職は?」英俊が訊いた。

「えっと――西バスだ」

「元同僚か、偶然、悪い時に悪い場所にいた――人生何があるか分からないもんだな」自分たちのような職業の人間は、死に近いと言っていいだろう。ちょっとでも油断すれば、あっという間に棺桶の中だ。

 英俊は死の覚悟というものは持っていなかったが、自分が死んだあとのことは父親に託している。それは自分が捜査官という職業を選択したからだ。

 それが、危険と隣り合わせに働いているわけではない人でも、こうやって事故にあって思いがけず死ぬことがあるのだ。家族はやりきれないだろうと英俊の心が沈んだ。

 ワニの腹から出て来た検視官の白い防護服は、赤黒く染まっていた。手には片腕が握られている。「片腕がない女性の腕だと思うけど、他にも犠牲者がいる可能性を考慮して、念のため照合してみるわ」遺体袋に腕だけを納めた。

 英俊が時和に訊いた。「遺族に遺体を引き渡せるのはいつ頃になりそうですか」

「そうね、死因の特定は簡単に済みそうだから、3日後くらいかしらね」

「分かりました。よろしくお願いします」今朝元気に出て行った人が、冷たくなって帰ってくるのだ。英俊は近しい人をこんなにも惨い状況で亡くしたことは無かった。そんな自分はきっと幸運なのだろう。

 時和は助手に遺体を運び出す指示を出してから簡易の除染室に入っていった。

 銀色の髪が赤く染まってしまった律も、汚れを落とそうと時和の後から除染室に入った。

 英俊は自分のオフィスに篭って報告書を書いていた。

 10代の子供が父親や母親を、昨日失ってしまったんだと思うと心がズキリと痛んだ。悲劇とはあまりにも突然やってくる。

嫌な気分を晴らそうと自分の家族のことを考えた。少し鬱陶しい熱い男の父親と、強引な母親に育てたられた。子供の頃は2人を恥ずかしく思ったこともあったが、今は尊敬している。

 最も頼りにしているのは5歳上の姉だ。

しっかり者で優しい、英俊がケンカをして家に帰ると怪我の手当てをしてくれたのはいつも姉だった。

 そんな姉は忘れっぽい父のことも、忙しない母のこともかいがいしく面倒を見た。どちらが親でどちらが子か分からないほどだ。家族全員、姉には頭が上がらない。

 そこまで考えて英俊は、はたと気づいた。そういえば最近実家に帰っていない、そろそろ顔を出しておかないと、家に母親が押しかけてきてしまいそうだ。そうなれば生活の質がどうのこうのと捲し立てるに違いない。

 『生活の質向上セミナー』とかなんとかいう退屈な講演に引っ張って行かれてはたまったもんじゃない。

 少し悩んでテレグラフィーに母宛のメッセージを書いた。『明日の昼、急な仕事が入らなければ、午後顔を出しに行くんでよろしく』これで退屈な時間を過ごさなくていいなら安いもんだ。

 報告書を書きあげると、局長と大八木部長宛に送った。

 それから出張費やら、捜査官の時間外勤務の申請やら、細かい書類を黙々と作った。

 窓の外はいつの間にか日が傾き、室内を赤々と照らしていた。深まりつつある秋の空に夕日が輝いていた。

 英俊の目が潰れかけてきたころ、蘭がオフィスを覗いた。

「今日はもうなにも起きないみたいだから、そろそろ帰るけどいいか?」

「ああ、もう帰っていいぞ、何かあったら連絡する。俺は今日も律のところに泊まるから」

「そんな報告しなくていい!」

「ただ今夜の所在を知らせただけだ。そんなことよりお前、明日は親父さんと釣りに行くんだろう?」

「キャンセルするよ、こんな状況だし、呑気に釣りなんかしてられないだろう」

「いいよ、行ってこい、この状況がいつまで続くか分からないんだ、休める時に休んでおこう。それに親父さん楽しみにしてただろう、お前と釣りに行くの。俺にも自慢してきたぞ。『息子と2人で釣りに行くんだ』って、よほどに嬉しいんだよ。なんたって自慢の息子がロッジを予約してくれて、男だけの時間を過ごそうと誘ってくれたんだからな。喜ばないわけがないさ。俺も明日は実家に行ってくる」

 蘭は少し照れくさくなって、不機嫌な顔になった。「分かった、じゃあ何かあったら連絡してくれ急いで戻ってくるから、叔父さんと、叔母さんによろしくな」

 英俊は手を振って答えた。今日の騒動を思い出すと、死についてずっと考えていた英俊は、自分たちの誰かがあの場で犠牲になっていてもおかしくなかった。この先もっと危険な場所へ足を踏み入れなければならないかもしれない、家族には会える時に会っておいた方がいいとつくづく考えた。

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