第6話 サルコスクス
午後20時、現場に到着した。マーブルの中はずっと重たい空気が流れていた。
捜査官たちの心を映したかのように、夜空は厚い雲に覆われ、点々とある街灯だけが辺りをうっすらと照らしていた。
律は紬の頭を撫でた。「紬、先導してくれ」
紬が翼を羽ばたかせて飛び立った。
「私も先に行くわ」光のように眩しい4本の尾をフワフワと躍らせながら空を駆けていく天狐の姿は、名状しがたい光景だった。
「雛菊は飛べるのか⁉」フランクは仰天した。
「天狐は神獣だからね、ほとんど神だよ。俺やエンジュみたいな番人より格上の存在だ」
「うそだろ!俺たち神と喋ってたのか……」フランクは目を丸くした。
それどころではないと律はフランクの驚愕を意に介さず、マーブルの向きを変え、紬と雛菊を追った。
しばらく川に沿ってマーブルは上流へとゆっくり進んだ。
それは突然に英俊たちの前に現れた。
「デカすぎるだろう!ありえない!こんなでかいトカゲ見たことないぞ!8mはあるんじゃないか?」
「これはトカゲじゃない、『サルコスクス』――ワニだよ」もしも律の考えが当たっているならば最悪の事態になりかねない。国が崩壊する恐れがあるのではないかと背中を冷たい汗が伝った。
「この国にワニはいないはずだ。外国の生物だろう?」英俊は目に映る光景を信じられなかった。
「このワニは大昔に絶滅した。どこの国にも存在しない――地獄のワニだ」
横に並ぶマーブルから蛍雪が顔を突き出した。「地獄のワニがどうして地上にいるんです?」
律は悄然とした。こんな事態だけは避けたかった。「地獄を自力で出てくることはできない、だけど方法が一つある。それは地獄の門を開くことだ。エンジュの霊力が働いて地獄の門が開いてしまったんだろう――他の奴らが出てこないように門を閉じないと」
1人でも多くの市民を助けるためには選択をしなければならないと自分に言い聞かせ、律は紬と雛菊を呼んだ。
「お前たちは英俊たちを連れて、地獄の門を探してくれ」
英俊たちと離れるのは気が進まなかったが、市民の命を脅かしているサルコスクスを倒すのが先決だと律は考えた。
紬がチュピチュピジーと鳴いた。不満を表す鳴き声だ。1人でサルコスクスと戦おうとしている律に怒っているのだろう。危険は大いにあるが倒せない相手ではない。
それに開いてしまった地獄の門から厄介な奴が出てくる前に、一刻も早く閉じてしまわなければならないなら手分けするしかない。
彼らにサルコスクスを倒す力は無いが、地獄の門を閉じるだけなら出来るだろうと律は判断した。
雛菊も同じ考えだった。もどかしく思ったが、この状況で手助けが必要なのは悪魔ではなく人間のほうであることは明らかだ、それに律は地獄のワニ1匹くらい、誰の手助けが無くとも倒せるだろうと考えて紬に合図した。
雛菊を姉のように慕っている紬は、渋々従った。
「律はどうする?」どんなに強い律でも、8mもあるワニ相手となると危険極まりないのではないだろうか。英俊は単身でワニに立ち向かおうとしている律の身が心配だった。
「俺はサルコスクスを地獄に送り返す」
「危険だ!他の番人の応援は得られないのか?」
「面白がって見学に来る奴はいるだろうが、力を貸してくれる奴はいないだろうな、この地上から人間がいなくなれば、悪霊を退治してまわってる俺たち地獄の番人は、仕事が無くなって楽ができるからね。願ったり叶ったりだと喜ばれてしまうだろうな」諦めを滲ませたような表情で律は言った。
「なるほど、本当に俺たち人間は地獄の番人から嫌われてるんですね」悲愴な顔でフランクが言った。
「俺たち悪魔は生きている時に散々虐げられてきた奴が多いからね、仕方がないよ」天狐の姿のままマーブルに乗り込んだ雛菊に、律は英俊たちの命を託した。「行ってくれ」
8歳の時に誘拐されて娼館に売られた律は、男娼として働き、16歳の時、客に殺され短い生涯に幕を閉じた。無理心中だった。
悪霊になりかけていた律を救ったのは、前任者の番人だ。律が番人の継承を受け入れると前任者は、その魂もろとも泡のように消えていった。
「気を付けて!」雛菊はマーブルから飛び降りた律の背中に向かって叫ぶと急いでイリデッセントクラウズとファイアフライを動かした。
英俊たちはさらに上流へと登った。後方で稲光が走った。
蘭は犬が現れたんだと直感で悟った。黒岡軍の資料で読んだことがある。律は3頭の地獄の犬を従えていると書いてあった。3頭は律に忠実で律が呼ぶと地獄から這い出してくる。その時に稲光がするのだ。今その資料に書いてあったことが目の前で起きた。蘭の心は衝撃に打ち震えた。
しばらくマーブルを天狐の姿で動かしていた雛菊は――変化するための妖力を他に回せるので、天狐の姿の方が妖力が強い――人間の姿に変化した。
「ここよ、奥に滝が流れてる。滝の裏側が地獄の門だわ。門は開いたままだから何が出て来るか分からない、十分気を付けてよ。あなたたちに何かあったら律にどやされるのは私なんだからね」雛菊は古びた小さな神社の前でマーブルを止めた。
フランクは金の玉を取り出して剣に変え、両手でしっかりと持った。「ああ、マジで化け物とか出てこないで欲しいんだけど」
「何だよ、怖いのか?」震えるフランクを、霊力を巡らせた剣を持った白鶴はせせら笑った。
「だって地獄の化け物だろ?さっきのやつみたいな巨大な毒蜘蛛とか出てきたらどうすんだよ、俺悲鳴上げちゃいそう。なあ、ゾンビとか出てこないよな」
「そんなに怖がるなよ、うっとうしい、つられてこっちまで怖くなってくるだろうが」いつでも打ち鳴らし火を操れるように、蘭は金属の棒を両手に持った。
先頭を行く雛菊の後ろについた英俊たちは、周囲を警戒しながら足早に進んだ。
雛菊は滝に顎をしゃくった。「滝の裏側よ」
白鶴とタマルは水を操って、そっと滝の水をカーテンのように左右に開いた。
「――暗くてよく見えないな」蘭は金属の棒を打ち鳴らして火を生み出した。
「うわ!なんだありゃ!手がいっぱい生えてるぞ」慌てふためいたフランクが剣を横にぶんぶん振った。
蛍雪が冷静に言った。「フランク、私には手が生えてるんじゃなくて、地獄から出てこようとしてる化け物たちが、手を伸ばしているように見えるのですが」
「ああ、なんだそうか、崖から手が生えてるのかと思ってビビった」
「はやとちりだな」白鶴はため息をついた。
「彼らは引っ張ってもらわないと出られない小物のようね、今のうちに閉じたほうがいいわ」雛菊はフランクの怖がりように少しうんざりしてきた。
「でもどうやって?」地獄の門なんて見たのはこれが初めてで、開いたり閉じたりする方法があることも英俊は知らなかった。
「地獄の事は私には分からないわ、あなたたちが考えるしかなさそうよ」
閃いたフランクは拳を手のひらに打ち付けた。「律さんが持ち歩いている地獄につながる木箱は蓋がしてあるだろう?蓋をしちゃえばいいんじゃないか?」
蘭は黒岡軍の資料に、ヒントが書いてあったかもしれないと思って必死に思い出そうとしたが、
「あの蓋には術がかかっていたんじゃなかったか?」蘭が言った。
全員が犀星と蛍雪チームの妖術使い
一灯が肩を竦めた。「地獄から何も出てこないようにする陣なんて聞いたことあるはずないだろう?」
「ですよね――地獄の番人に会ったのだって奇跡に近いのに、地獄のこと知ってるわけないですね」英俊は頭を抱えた。律は今どうしているだろうか、怪我していないといいがと心配で気が気でなかったが、ここから手助けできることは無い、今やれることをやるしかないのだと気持ちを切り替えた。「ここで考えてても答えは見つからない」英俊はテレグラフィーを操作した。
英俊のテレグラフィーに数名が現れた。「局長、大八木部長、それから捜査官の皆さん、お知恵をお借りしたい、緊急事態です。地獄の門が開きました」
「なんだって!」海星は顔を盛大に顰めた。
「今はサルコスクスというワニだけが出てきて暴れています。地獄へ送り返そうと律が1人で戦ってくれています。なので律の力を借りられません。地獄の門を閉じる方法を探してください」
英俊に呼び出されたIBAIの局長の増田海星、ITTの部長大八木朔、それから主任クラスの捜査官たちは、資料を片っ端から探った。
「ちょっとちょっと、お兄さんたち!悠長に探してる暇なくなっちゃったみたいだよ」フランクは自分の目を疑った。穴から手をニョキニョキ出している化け物たちを
木の根を伸ばし蛍雪は穴を塞いでいった。「時間稼ぎになればいいのですが……」
蛍雪が張った木の根を鳥は忌々し気に見つめて嘴で突っつき、木の根で出来た壁を破壊していった。
英俊は木の根でできた壁の上に土壁を作ったが、ズボッと鳥が勢いよく飛び出して来た。
「皆さん急いでください、地獄の生物が出てきました――犀星、情報が入ったら知らせろ」英俊はテレグラフィーを犀星に放り投げた。
「了解!」
「英俊!」フランクが叫ぶ。
英俊はすかさず砂を操ってフランクを持ち上げた。
フランクは剣を振り回して、6m近くありそうな翼を持った鳥と戦った。
一灯は縛の陣を張ったが、何の効果も無かった。「ダメだ、縛の陣は効かない、律さんに妖術が効かないんだから、こいつらにも妖術は効かないということか――伊豆倉、俺を持ち上げてくれ」
松倉チームの〈土〉の特性を持つ
雛菊は空を飛び回る鳥の邪魔をして、フランクたちを助けた。
この鳥は体が大きいぶん、剣が当たりやすそうなものなのに、動きが素早すぎてフランクの剣も一灯の剣も空を切るばかりだ。
街に飛んで行ってしまうことを、何が何でも阻止しなければならないが、このままでは2人の体力が尽きてしまう。火で焼いて焼き鳥にしてやろうと蘭は思った。「雪歌、焼き鳥にしてやろうぜ、英俊、空吾俺たちを持ち上げてくれ」
蘭と雪歌が火を放った。広範囲に放たれた炎は鳥を焼いたが、その体が焦げることはなかった。
「クソったれ!全然焼けない」
蘭が悪態をついた時、タマルと一緒に滝の水を押さえながら、這い出て来る化け物を水圧で押し返そうとしていた白鶴が叫んだ。
「英俊!すごく気持ち悪いものが出てきた」
鳥が化け物たちを蹴散らしてしまったので、ぽっかりと開いてしまった真っ暗な穴の中から全長2mほどのヤスデが、水圧をものともせずズルズルと這い出てきた。
ヤスデがウゴウゴと地面を這う姿に蘭は鳥肌が立った。「俺が行く!」両手に持った金属の棒の先に炎の剣が現れた。
地獄の生物を火で焼くことができないと分かった蘭は剣で叩き切っていった。真二つに切られたヤスデは、ビクビクと体を震わせ焦げ臭い匂いを放った。
蛍雪は穴を木の根で塞ごうとしていたが、ヤスデは木の根をバキバキと音を立てて食いちぎってしまうので、埒が明かない。
しかし、全く役にたたないわけでもない。ヤスデが這い出して来るスピードを多少は緩めることができているだろうから、後はヤスデを叩き潰すことにした。
蛍雪の体に巻き付いていた鞭が、するするとほどけ緑色の光りを放った。「蘭、加勢しましょう」鞭を勢いよく振り下ろしヤスデを叩きつぶした。
折り重なるようにして這いまわるヤスデの動きは、鳥ほど素早くなく、蘭と蛍雪は次々に退治して言った。
「こいつら一体何匹いるんだ?まだ出てきてるぞ、火で焼くことができればこんな害虫、一発で始末してやるのにな」見たこともないほど巨大な虫だが、所詮はヤスデだ。なのになんで自分たちはこんなに手こずらされているんだと、蘭は頭にきた。
「鳥にしろヤスデにしろ、彼らが火を恐れないのは、地獄の炎に耐えうる体だからということかもしれませんね」空中でフランクと一灯と雪歌が剣をふるい、雛菊が駆け回る様子を蛍雪は仰ぎ見た。鳥におちょくられているように見えなくもない。
「もう、何なんだよ、くそっ!やばそうなのが出て来たぞ!」白鶴が叫んだ。
白鶴とタマルの水圧を易々と通り抜けて、30㎝ほどある牙を口から覗かせたヒョウが飛び出てきた。
こちらの動きを窺うように注意深く観察しながら、ゆっくりと左右に足を運び、飛び掛かる絶好の機会を待っているようだった。
ヤスデを叩いていた蛍雪はヒョウめがけて鞭を打った。
ヒョウは前足を折り曲げ、狙いを定めると一気に飛び上がって飛んできた鞭に噛みついた。鞭を引っ張られないよう蛍雪は足を踏ん張った。
これに噛まれたらひとたまりもなさそうだと思ったタマルは、ここで自分たちは終わりかもしれないという考えが頭をよぎった。
愛猫は自分が二度と帰ってこないことを悲しむだろうか、数年前、自宅に迷い込んできた子猫は傷だらけで、今にも死んでしまいそうなほどに弱っていた。
首もすわっていないような子猫を、かわいそうに思ったタマルは家に招きいれた。そんな飼い主の危惧とは裏腹に、すくすくと育ち、巨大猫と言われるほどに成長した。
両親よりも恋人よりも、愛猫の顔が浮かんだ自分は薄情だなと鼻で笑った。
「ダヴィード!穴を見張っててくれ」白鶴は背負っていた弓を手に持ち氷の矢を放った。
氷の矢を避けようと咥えていた鞭をヒョウが離した。
「白鶴、助かりました」もしもあのままヒョウに体ごと放り投げられていたら、岩壁に衝突して自分は死んでいただろうと思うと、蛍雪は背筋が寒くなった。
体勢を立て直した蛍雪はヒョウの足元に生えている草をグングン伸ばして、ヒョウの足をからめとろうとした。
喉の奥から出て来るような恐ろしい声を出しヒョウが威嚇した。
草に気を取られているヒョウに向かって、白鶴は矢を3本連続で放った。間髪入れずに放たれた矢はヒョウの体に命中した。
地を揺らすほどの唸り声を上げ、猛り狂ったヒョウが白鶴に向かって突進してくる。蛍雪はすかさず足に鞭を絡みつかせ一気に引っ張る。ヒョウの体が横倒しになり地面を滑った。
ヤスデに取り囲まれ始めた蘭を英俊はちらりと横目で確認すると、砂を操って持ち上げた。これでヤスデが体を這いあがってくる危険は無くなったが、折り重なるようにしてとめどなく出て来るヤスデに、蘭1人だけでは追いつかなかった。
英俊は犀星が持っているテレグラフィーに向かって叫んだ。「急いでください!これ以上出てきたら対応しきれない!」
朔も叫び返した。「焦らせるな、見つかりそうなんだ。あと少し耐えてくれ!」
「もう、なんでこの鳥こんなに素早いんだよ!全然剣が当たらないじゃないか!」イラついたフランクは歯ぎしりした。
「フランク、動きに癖があるはずよ、先を読むの」雛菊が言った。
先を読めと言われたって、鳥の習性になんて詳しくないんだから、そんなの無茶だろうと思ったがフランクは集中した。そして鳥の動きを頭に叩き込んだ。
朔の喜びに満ちた声が響いた。「あった、見つけました。穴を塞いだ後呪文を唱える。『
「鬼沢さん、ここは俺と雪歌に任せて!穴を塞いでください」フランクが一灯に言った。
「分かった」一灯は穴に向かった。「犀星、お前も一緒に呪文を唱えるんだ」
一瞬迷った。自分が失敗したら――『失敗するかもなんて考えなくていい、焦らずやれば必ずできる』という律の言葉を思い出して気を取り直した。
「了解!」音に集中すればきっとやれる。
空吾が穴を土で埋めると、一灯と犀星は同時に印を結び呪文を唱えた。
「空蝉に来ること罷りならぬ八大地獄隔て封じる」
2人の声が綺麗に重なった――煌々と金色に光る陣が現れ、土でできた壁を覆った。
フランクは見えた気がした。鳥は進行方向に長い嘴を振ってから動いているようだ。その動きはほんのわずかで一瞬しかない、頭を使うよりも体を動かすことの方が得意なフランクは考えたって仕方がない、やけくそだと思って剣を天に向かって突き上げた。
フランクの剣が空を切った次の瞬間、剣が鳥の喉に突き刺さり脳天を貫いた。「よっしゃあ!どんなもんだ!フランク様をなめんなよ!」
穴が閉じたことで新たなヤスデは這い出てこなくなり、蘭もヤスデを切りつくした。周囲には鼻をつまみたくなるような焦げ臭い匂いが漂っていて、蘭は顔の前を手のひらで扇いだが、何の役にも立たなかった。
白鶴が放った氷の矢が何本も体に突き刺さったヒョウは、蛍雪の鞭で縛り上げられていた。
空から降りてきたフランクが歩いてきて、身動きが取れなくなっているヒョウをしげしげと見た。「これまたでっかい猫だな!」
英俊は背に背負ったグレイブでヒョウの首を切り落とした。
テレグラフィーから歓声が上がった。つながっていたことをすっかり忘れていた英俊は、岩の上に置かれた自分のテレグラフィーを取りに行った。
「喜ぶのはまだ早いです。一番巨大で凶暴なワニが残っています。律のところへ戻ります」
「テレグラフィーをつないだままにしておいてくれ」海星が言った。
「分かりました。ではこのままで」
「用があれば退出してくれて構わない」海星はそう言ったが、誰も退出しなかった。
地獄の番人律対地獄の生物巨大ワニ、こんなすごい戦い見逃してなるものかと誰もが思っていた。手に汗握る試合になることは簡単に予想がつく。密かにビールとポテトチップスが欲しいと、全員が思っていることは明らかだったが、不謹慎極まりない発言を誰も口にはしなかった。
英俊たちは急いでマーブルに飛び乗った。
律と別れた場所まで英俊たちが戻ってくると、律と犬たちは、人間の血肉に味をしめたのか、地獄に帰ろうとしないワニと壮絶な戦いを繰り広げていた。
何があったのか、地面には謎の大きなへこみがいくつもできていた。
巨大なワニと素手で戦う瘦せっぽちな律を、知らない者が見たらとんでもなく馬鹿な奴だと思うだろう。
だが、その瘦せっぽちは地獄の番人であり、悪魔でもある。そんな彼が地獄の生物とやりあえるだけの腕力を持っているのは当然だ。
律は拳をワニの体にめり込ませた。ワニが呻き声を上げる。
2頭の犬が首に噛みつき、1頭は尾に噛みついて振り回した。
優雅な身のこなしで視線をまっすぐに向け、腕を組み佇む姿はうっとりするほど美しく、女はもちろん男も心を奪われ、体温が跳ね上がる。
そんな律が今は、悪魔そのものだった。
宝石のような紫水晶色の瞳は黒々と光り、口の端をうっすらと持ち上げ凶悪な表情を作っている。
拳を手のひらに跡がつくほど強く握りしめた英俊は、律の戦う姿を始めて目にして慄然とした。
律がワニの尾を握った。雄叫びと共にワニの体を持ち上げ反対側の地面に打ち付けた。
なるほど――地面のへこみの原因はこれなんだなと英俊は思った。
「……馬鹿力だな」
「おお、黒岡軍の資料で読んではいたけど実際目にすると――言葉を失うな」蘭は想像以上の力に驚いた。身長176㎝の律が8m以上のワニを投げ飛ばすところは酷くちぐはぐに見えた。
律が飛び上がって口を踏みつけ、今度はその口を握って雄叫びを上げながら持ち上げ反対側の地面に打ち付ける。
律はひっくり返ったワニの腹に膝をめり込ませた。
「こりゃすげーな、律さんって本当に悪魔なんだな――」フランクは呟いた。
「彼と一緒に戦ってた黒岡軍の精鋭部隊って一体……」いつもは冷静沈着な白鶴もこの時ばかりは、青くなった。
「――化け物だな」腕力と体力だけは誰にも負けない自信があるフランクだったが、精鋭部隊には敵わない気がした。
さすがに犬に噛まれ、律に殴られ蹴られ、何十回と叩きつけられた――地面のへこみの数が物語っていた――ワニも体力が尽きたのかぐったりとした。
律は落ち着き払った態度で、手のひらに収まるほど小さな木箱――地獄へとつながる木箱の蓋を開けワニを中に吸い込ませた。
その場にいた英俊たちも、テレグラフィーに齧りついて見ていた海星たちも、ほっと胸をなでおろした。もしサルコスクスがもっと下流に下っていたら、今頃は何千人もの人が亡くなっていただろう。
律はグルグルと低いうなり声をあげる――律の腰ほどの高さがある黒い犬3頭を従えてマーブルに近づいた。「英俊、どうだった?地獄の門、閉じることできた?」
「ああ、出来た……律、腕が……」律の破れた着物から腕が切れているのが見えた。
「うん、さすがにあんな巨体振り回したら腕がちぎれそうになった」
軽快に笑う律の顔を英俊は凝視した。「大丈夫なのか?」
「痛いよ、凄く痛い。けど切れた腕は簡単にくっつくから大丈夫だよ」
「血管をつなぎ合わせることができるという虫の噂は本当なのですね」蘭は目を輝かせて律に詰め寄った。
律の手を、両手で握る蘭を英俊は引きはがした。「蘭、鼻息が荒いぞ、少し落ち着け」
「噂になってるなんて知らなかったよ」木箱から虫を取り出した。「こいつは地獄の虫で死出虫の一種だ」
「うわっ!それってなかなか……」顔を歪めたフランクは覗き込んで言った。
律はフランクが言いかけた言葉を引き継いだ。「なかなか気持ち悪い、それにかなり痛い」律はイリデッセントクラウズに乗り込んだ。「傷の治療はこいつに任せて、地獄の門を見に行こう。確認しておきたい」
「ああそうだな。それじゃあもう一度上流に上がろう」英俊は律の元気そうな顔を見て安心した。
番人は一度死んだらお終いだ。魂も消えて無くなってしまう。二度と生まれ変わることはできない。律を失ってしまったら自分はどうなってしまうだろうかと思うと英俊は怖くなった。
「変な奴らが出てきて大変でしたよ。でも俺はでっかい鳥の脳天をぶち抜いてやったんです」フランクが自慢顔で言った。
「かなり手間取ったけどね」雛菊は笑った。
「そういうこと言うか?俺は頑張ったんだ褒めてくれよ。褒められて伸びるタイプなんだから」フランクはぷいと顔を背けてむくれた。
滝の前に来ると律は、地獄の生物の死骸を木箱の中に放り込んでいった。「これはかなり頑張ったね、こいつはケツァルコアトルスだ」
「でしょう!この鳥、俺が倒したんです」
「でも出てきたのが子供でラッキーだったね、大人なら10m以上あるよ」
フランクの顔が引き攣った。「え⁉」良かった本当に良かった、命拾いしたと久々神に感謝して、こいつの親には出会いませんようにと祈った。
「こっちの猫はスミドロンだね、それと焦げてるのがアースロプレウラだ。みんな地上では絶滅しちゃった生き物たちだよ」
「律さん、こいつらには俺の炎が全く効かなかったんですけど、地獄の生物が炎に強くできているからですか?」蘭が律に訊いた。
「そのとおり、地獄の炎に慣れているし、皮膚も分厚く硬くなる。だから熱さはあんまり感じないくらいだ」
律が近づくと滝の水が二手に分かれて先ほど封じた地獄の門が現れた。
「いい感じにできてる。2人でやったの?」
一灯が答えた。「はい、2人で力を合わせました」
「僕はあまり力にはなれませんでしたけど」犀星が恥ずかしそうに俯いた。
「そんなことないよ、感じるのは鬼沢の力が大きいけど、犀星の力もちゃんと感じるよ。上出来だ」
IBAIで功績を表彰されたことがあるベテラン妖術使いの一灯でも、律からの『上出来』の言葉は何よりも嬉しかった。一灯は犀星の肩を叩いた。「やったな」
「はい!」犀星が嬉しそうに笑った。
テレグラフィーを通じて聞いていた捜査官たちは、あの出来損ないと噂されていた犀星が褒められるところを見て、夢でもみているのかと思うほどに信じられなかった。
英俊はテレグラフィーに呼びかけた。「それでは局長、部長、捜査官の皆さん協力ありがとうございました。局長、戻ったら報告に行きます」
「分かった、待っている。気を付けて帰ってくるように」
「了解!」英俊は全ての通信を終了させた。
その後は気の重くなる作業だった。怪我人の数を確認して、律と雛菊が治療に当たった。そして亡くなった人の人数、更には行方不明の人が何人かを確認していった。
――結果、怪我人87名、死者13名、行方不明者5名となった。
帰りのマーブルの中は静まり返っていた。ワニに喰われ恐怖の中、死んでいった人々を悼み、全員が無力感に打ちひしがれた。
もしもワニの出現がもっと遅い時間帯で、外を歩いている人がいなければ、こんなに多くの人が亡くならずに済んだかもしれない。もしくは地獄の門が開いた場所が、人里から遠い山奥だったならと、英俊は考えても無駄だと分かっていることをひたすらに考え続け、IBAIに着く頃には頭痛の種が根を張り芽吹いてしまっていた。
この事実をどうやってエンジュに伝えたらよいのだろうかと、律の頭の中は重たい霧が立ち込めていた。
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