第5話 ブンブクチャガマ

 地下のエアポートに着くと、雛菊と紬がすでにイリデッセントクラウズの前で待っていた。「遅いわよ」

「やっぱりお前たちの方が早かったか」律はマーブルに乗り込んだ。「雛菊、何か見えるか」

 雛菊の目が白くなった。「そうねえ、巨大な赤い毛玉が街を占拠してるってところかしらね」一点を見つめている雛菊の瞳は、異象が発生した場所に向けられている。

「なんだそれ、赤い毛玉ってなんだ?妖か?」蘭は蛍雪のテレグラフィーを繋いで、こちらの会話を聞かせた。

「私にも分からないわ、見たことない物よ。赤くて大きな毛玉、直径5メートルくらいあるかしらね、動きは鈍いみたいよ」

 蘭のテレグラフィーに映っている蛍雪が訊いた。「被害がどのくらいか分かりますか」

 フランクはテレグラフィーに月南市全体を縮尺したホログラムを映した。

 ホログラムを拡大したり移動したりして目的の場所を雛菊は見つけた。「そうねこの辺りにいるけど、目に見える被害はないように思うわ」

ばくの陣で身動きを取れなくしておいて、その間に逃げ遅れた人々を誘導したらどうかな」蘭が提案した。

 ——縛の陣とは、妖を一時的に動けなくするための陣だ——

 どのくらいの人数が、その巨大なボールの下敷きになって命を落としただろうかと英俊は考えた。「そうだな、人命救助が先だ、異象に対処するのはその後だ、蛍雪手分けしよう俺たちは街の南側から行くから、そっちは北側から救助を開始してくれ」

「ええ、分かりました」

「蘭、異象が起きたことエンジュに知らせないようにできるかな?きっと動揺すると思う。俺から伝えたいんだ」律は蘭に頼んだ。

「分かりました。今シフトについている妖術使いに伝えておきます」

「ありがとう」律は雛菊の方を向いた。「雛菊、あとどのくらいで着きそう?」

「このスピードだと2時間と少しってところかしらね」

「それじゃあちょっとスピードを上げよう、みんな何かに掴まって」律が2基のマーブル、〈IRIDESCENT CLOUDSイリデッセントクラウズ〉と〈FIREFLYファイアフライ〉――フランクが勝手に名付けたが、松倉チームの捜査官たちも案外気に入っている――に霊力を送ると、マーブルが大きく揺れて、スピードを上げた。

「さすがは律さんだ、マーブルのスピードを上げることができるなんて、すごいなあ」蘭は感激した。

律は蘭の顔をぽかんと見つめた。「IBAIの誰もできないの?」

「――はい、出来ませんよ」蘭は何故そんな当たり前のことを聞くのだろうかと思った。

「そうか――黒岡軍の精鋭部隊はみんなできた。もちろん伊織君や奏多君もできたから、妖術使いならみんなできるものだと思っていたよ」

 エンジュを閉じ込めていた陣の檻は簡単に壊れてしまうし、マーブルのスピードを誰も上げることができないだなんて、最近の妖術使いは力が足りないなと律は落胆した。

「え⁉そうなんですか⁉」蘭は黒岡軍の精鋭部隊の力と、自分たちの力の間には大きな差があることにショックを受けた。

「うん、みんな強かったからね」強い妖術使いたちと一緒に戦うのはとても楽しかった。もうあんなふうに戦うことはできないのだなと思うと律は悲しくなった。「そうだ!犀星の最終目標にしよう。マーブルを妖術で動かす!」

 犀星はそんなこと自分には絶対に不可能だと思った。自分がマーブルを動かすところなんてこれっぽっちも想像できなかった。

「そりゃいい!一人前の妖術使いどころか、最強の妖術使いになれるな、期待してるぞ!犀星」唖然としている犀星に英俊が言った。

 あまりの重責に犀星の顔が青くなった。

 猛スピードのマーブルは1時間半後、月南市に辿り着いた。

 全員、目の前の光景に目を見開いた。雛菊が千里眼で見て説明してくれた通りの物がそこにあったからだ。

 確かに赤い毛玉が小さな港町にどっかりと鎮座していた。

「――あれは、一体何なんだ」英俊はマーブルから飛び降りた。

「犀星、縛の陣は君が張って」律は犀星に指示した。

「は、はい」早速やってきた出番に犀星は緊張して手が震えた。

「失敗するかもなんて考えなくていい、焦らずやれば必ずできるんだから、集中するんだ。俺の霊力を貸してあげる」律は犀星に霊力を送った。

 全員が息を殺して術を発動する犀星を見守った。

 犀星は目を閉じて深呼吸した。じっとりと汗ばんだ手に気が逸れそうになる。ダメだ!音に集中しろ!と自分に言い聞かせる。目を開け印を結んだ。

 赤い毛玉の上に煌々と輝く陣が現れた。

「なかなか良くできたじゃないか」律が言った。

 律に褒められた上に、自分が今までに張った陣のなかでも、最もよくできた陣だったので犀星は喜んだ。

 英俊は犀星の髪の毛をぐしゃぐしゃにした。「よくやった、犀星」

「ありがとうございます!」チームの他のメンバーからも褒められて、犀星のいつもの不安そうな顔が魅力的に輝いた。

「残念だけど縛の陣は効果が無いみたいだよ。あれは妖じゃないね。でも、動きそうにないし、毛玉を警戒しつつ救助活動をしたらいいんじゃないかな」律が言った。

 妖じゃないなら本当にアレは何なのだと全員が得体の知れない物体に気味の悪さを感じた。

 気を取り直した英俊がチーム全員に指示を出した。「それじゃあまずは人命救助だ。正体不明の毛玉は海側にいるから、山側に避難所を作る。向かって左から軽症者、次が重傷者、最後は死者だ」

 律が英俊に言った。「俺と雛菊は治療ができるから、ここでけが人を待つよ」

「分かった。そうしてくれ」紬は律の肩に止まったまま動かないし、律も雛菊も慌てる素振りがない。あの毛玉は害が無いということではないだろうかと英俊は考えた。

 そして、あの毛玉の正体を律は知っているのではないだろうか、知っていて黙っている。その理由は?考えられるのは我々は律に試されている。

 英俊は道をとぼとぼ歩いている30歳くらいの女と、5歳くらいの女の子を見つけた。

「こんにちは、IBAIの捜査官紫雲英俊です。お怪我はありませんか?」

 女が答えた。「ええ、怪我はありません。あれが海から上がってきたとき私と娘は浜辺で遊んでいたんです。あの赤い物体に押しつぶされたんですけど、あれはすごく柔らかくて、怪我はしませんでした」

「海から上がってきた?」

「はい、這うようにしてあがってきました。それで今いる場所で止まったんです」

「あれの下には何があったか分かりますか?」

「あの下は溜池です」

「分かりました。山側に避難所を設置しています。そこまで連れて行きます」英俊が少女を抱え上げると、足元に砂粒が集まりはじめ、英俊たちの体をふわりと持ち上げた。英俊は砂を操ることができる〈〉の特性を持っている。

「毛玉に押しつぶされたらしいけど怪我はしていないようだ」英俊は親子を律に渡した。

「そうか、それはよかった」律は英俊の手を握り、英俊をまっすぐに見つめた。「毛玉を倒すのに俺は手を貸さない。みんながどれくらいできるのか見たい」

「――分かった。俺たちは君を失望させてしまっているな。すまない」

「失望なんてしてないよ、みんなにとって状況が危険か危険じゃないか、実力を知っておけば判断する基準になるだろう?」

「うん」律は失望していないと言ったが、黒岡軍の精鋭部隊と比べて歴然とした力の差があるのだろう、なんとしてもあの巨大な毛玉を片付けて挽回しなければと英俊は思った。

 英俊が離れて行くと律は雛菊の方を向いた。「雛菊も手を出さないでやってくれ」

「失望してるの?」

「妖術使いたちにはね、がっかりしてるよ。でも他のみんなの事はよく知らないから確かめたいだけなんだ。この毛玉を倒せないようなら、この先の異象にも対処できないだろう。みんなにはこの件から外れてもらうしかない」雛菊に隠しても無駄だと分かっていたので律は正直に話した。

「黒岡軍の彼らがいればこんなの簡単に片付けていたでしょうね」

「――そうだね」彼らなら嬉々としてあいつに飛び掛かかり、今頃は祝杯を上げていただろうなと、かつて一緒に戦った仲間を思い出して律は彼らが恋しくなった。

 それから30分後、近隣住民の非難が完了した。

「念のため住民に危険が及ばないようにしておきましょうか」蛍雪は山の木を操って避難所を木のドームで覆った。蛍雪は〈もく〉の特性を持っている。草木を操ることができる。

 英俊は捜査官たちを集めて作戦を立てた。「毛玉は海から上がってきたらしい。押しつぶされた人もいるけど、怪我をしていない。あれに触った人たちは全員すごく柔らかい物体だったと口を揃えて言っていた」

「押しつぶされても怪我しないほど柔らかいのであれば、切るのは難しそうですね」蛍雪が言った。

「霊力であの姿になってるんだろうけど、呪符は効かなかった。天使の霊力に人間の霊力は敵わないってことなんだろう」松倉チームの妖術使い、鬼沢おにさわ一灯いっとうが言った。

 50歳を過ぎたであろう彼は腕利きの妖術使いのようだ。

 霊力は海星に劣るが、IBAIの中ではトップクラスなのだろうと律は思った。

「そもそもこいつは生物なのか?生きてなかったら切ったり叩いたりしても意味が無いんじゃないか?」フランクがもっともな意見を言った。

 律が助け舟を出した。「これは『ブンブクチャガマ』の一種で『ウルトラブンブク』だと思うよ。ウニの仲間だ」

「なんだそれ、変な名前」フランクは腹を抱えて笑った。

 手を貸さないと言っていた律が、冗談で言ってるのか真面目に言っているのか英俊には分からなかった。「そのウルトラブンブクって何だ?」

「確かにふざけた名前だけど、正式な名前なんだ。深海の生物で、普通は20cmくらいにしか成長しないんだけど、これはエンジュの霊力を得て、大きくなってしまったんだろう」

 何かを閃いたフランクは金の玉を取り出した。「ウニってことは、殻を勝ち割ってやればいいんじゃないか?英俊俺を持ち上げてくれ」

 英俊が砂を操ってフランクを毛玉の上に押し上げた。

 毛玉の上まで来るとフランクは飛び降りた。金の玉を金槌に変え、毛玉にめり込ませる。

 ボヨンとへこんでフランクの体が毛玉の中にめり込んでいった。

 また毛玉がボヨンと動いて、めり込んだフランクを跳ね飛ばした。

 英俊が砂を操ってすかさずフランクを受け止めた。

「ダメだヒビも入ってない――というか俺あいつにめり込んだ。スゲー気持ち悪かったし、生臭かった」

 白鶴は鼻をつまんでフランクから顔を遠ざけた。「お前も生臭いぞ」


「よし、それじゃあ焼いてみよう」蘭は金属の棒を打ち鳴らし火花を飛び散らせて炎を作り出した。

 蘭は〈〉の特性を持っていて、炎を操ることができる。

 同じく〈火〉の特性を持つ松倉チームの捜査官淡川あわかわ雪歌せっかも炎を作り出した。2人の炎が渦を描きながら毛玉に向かって行った。

 炎は毛玉に当たるとジュッと音を立てて消えた。

「炎が消えて、ブヨブヨしてるってことは水だろう」白鶴は〈すい〉の特性を持っていて、水を操ることができる。

 白鶴は毛玉の水分を吸い上げた。蛍雪チームの〈水〉の特性を持つ捜査官タマル・ダヴィードも加勢した。

「おお、いいぞ白鶴、タマル、その調子だ、毛玉が小さくなってる」フランクは飛び上がって喜んだ。

 英俊は子連れの母親が言っていたことを思い出した。「毛玉の下は溜池だ。蛍雪、池に落ちないよう草で覆ってくれ」

「分かりました」草がぐんぐん伸びて毛玉の下に草のベッドを作った。

「英俊もう一度だ!」

 フランクに言われた英俊は砂を操りもう一度、毛玉の上までフランクを連れて行った。

 フランクが飛び降りて、金槌を毛玉に振り下ろす。水分を失って小さくなった毛玉はパカッと割れた。

 金槌を肩に担いだフランクは、英俊が操る砂に運ばれて意気揚々と戻ってきた。

「どんなもんだ、かち割ってやったぞ!」

 蘭は雛菊と並んで立っている律を見た。彼ならあっという間に毛玉を倒せたはずだ。それなのに何もせず腕を組んで立っていた。律は自分たちを評定していたのだろうと思った。

 英俊が律に訊いた。「結果は?」

 住民の避難から異象への対処、1時間もかからずに片付くだろうと律は思っていた。だが実際には1時間以上かかってしまった。

 ちょっともたついていたところを、ここで指摘しても落ち込ませるだけで何にもならないだろう。それよりは後からこっそりと海星に伝えて、訓練メニューを見直してもらえばいいことだと律は判断した。

「毛玉を膨らませているのが水だと気が付いたことは良かったし、紫雲チームと松倉チームの連携も取れていたから上出来だ。フランクは先走りすぎ。ただのウニなんだから、かち割らなくても海に返してやるだけでよかった」

「そうなの⁉」自分が有終の美を飾ったと自慢顔をしていたフランクは耳を疑った。

 マーブルが1台近づいてきた。中から、IBAI局長増田海星とITTの部長大八木朔が下りてきた。

「英俊、蛍雪、どういう状況だ」海星が訊いた。

「エンジュの霊力で大きくなった深海の生物が陸に上がってきたようです。解決しました。詳細は報告書にて提出します」英俊が報告した。

 蛍雪は付け加えた。「怪我人が数名いますが、逃げる時に転んだだけのようで軽傷です。律さんと雛菊さんが治療してくださいました。それ以外は家屋などの破損もないようです」

「そうか、皆よくやった」海星は捜査官たちを労った。

 蛍雪は木のドームから人々を解放した。「皆さん、もう帰宅していただいて大丈夫です」

 蛍雪が張った草の上を蘭は歩いて行って、2つに割れてしまった毛玉を回収してきた。毛玉は20㎝ほどに縮んでいた。

 蘭が戻ってくると蛍雪は池の上に張った草を元に戻した。

 朔は蘭の手の中にある毛玉を覗き込んだ。「見たことのない生物だね」

「律さんが言うには、ウニの仲間で『ウルトラブンブク』という名前だそうです」蘭が答えた。

「『ウルトラブンブク』?変わった名前だね」

「正式名称だそうです」蛍雪は蘭に証拠品袋を差し出した。

 蘭がその中に毛玉を入れ、蛍雪は毛玉の入った袋を朔に渡した。

「どうぞ、持って帰って無害かどうか確認してください」

「分かった、ありがとう」朔は袋を手に持ちマーブルに戻っていった。

「それじゃあ、全員引き上げよう」海星もマーブルに戻っていった。

 フランクがイリデッセントクラウズに乗り込むと白鶴は抗議した。「お前臭いぞ!そんなんでマーブルに乗るなよ、気分が悪くなるだろうが」

 フランクは自分の臭いを嗅いだ。確かに臭いと思った。「仕方ないだろう、これは名誉の勲章だ。俺は果敢に突撃したんだ」

「あっちへ行け、俺に近づくな、俺まで臭くなる」白鶴がフランクに手を振って追い払う仕草をした。

 仕方なくフランクはベンチシートに座った。「ねえ、律さん、俺活躍しましたよね」

 律が答えるよりも早く白鶴が割って入った。「いや、今日活躍したのは俺とダヴィードだろう、お前は小さなウニを叩いただけだ」

「何!とどめを刺したのは俺だぞ」

「とどめを刺す必要なかったけどな」白鶴がせせら笑った。

 最初騒がしいなと思っていた2人のやり取りが、律のお気に入りになり始めていた。「2人の言い争いは見ていて飽きないよ。俺は君たちがどの程度の霊力を持っているのか見たかっただけだ、活躍は関係ない。霊力は2人とも互角だね。敢えて言うなら、タマル捜査官の方が僅かに上かな」

「お前たちは低レベルな争いをしてたってわけだ」蘭は大爆笑した。

 白鶴とフランクが悔しそうに顔を歪めた。「さあ犀星、霊力を使ったから瞑想を少ししよう」律が犀星に言った。

「はい――」人に見られながら瞑想するなんて少々落ち着かない。犀星は上手く集中できるだろうかと不安になった。

 地上300メートルの位置を飛ぶマーブルの扉を、律が唐突に開けたので全員酷く驚いた。

マーブルの天井に手を引っかけ、床をポンと蹴って、くるりと身を翻し、宙に浮かび上がってマーブルの天井に降り立った。

 英俊はその光景に肝を冷やした。慌てて叫ぶ。「律!何やってる?降りてこい危ないぞ!」

 穏やかな秋の空気を律は胸いっぱいに吸い込んだ。「大丈夫だよ、こんなに天気がいいんだよ、外に出たくなっちゃうだろ?風が暖かくてすっごく気持ちいいよ」律は犀星に手を伸ばした。「犀星、俺の手を掴んで、引き上げてあげる」

 犀星は一瞬躊躇ったが手を伸ばして律の手を掴んだ。すると体がふわりと浮かび上がり、律は自分よりも体重の重い犀星を片手で軽々と引っ張り上げた。

 律と犀星はマーブルの上に並んで坐禅を組んだ。

「いいかい、犀星、無になる必要はないんだよ、1つの事に集中することが大事なんだ。痛み、不快感、心地よさ、何でもいい、君が今感じていることに集中して」

 タマルより霊力が低いと言われたフランクと白鶴は、密かに律の言ったことを実践した。

 イリデッセントクラウズがIBAIの地下エアポートで停車すると、律と犀星はマーブルの上から飛び降りた。

 天井に上がった律と犀星が、いつか落っこちてしまうんじゃないかと道中ずっとハラハラしていた英俊は、開いた口が塞がらない様子だった。「屋根に上るなんてどうかしてる、気が気じゃなかったぞ」

「ごめんね、でも気持ちよかったよ。そうだろう?」律が犀星の方を向いた。

「はい、すごく気持ちよかったです!」

「場所は重要じゃないんだけど、気持ちのいいところ、安心できるところで瞑想した方が効率がいいんだ」

 地上に降りてきてくれたことに安心したのと、言うことを聞いてくれない律に苛立ちを感じて英俊は律の唇を塞いだ。

「こんなところでキスするな!俺の前でイチャつくな!」蘭が喚きたてた。

 フランクは笑いながら言った。「かわいそうな蘭は、大好きな律さんを英俊に取られたんだな」

「昨日の夜、英俊がなかなか帰ろうとせず最後まで残ってたから、そのつもりなんだろうなってことは分かってたけどな」白鶴が落ち着き払った態度で言った。

 蛍雪がマーブルから降りてきた。「英俊は手が速いですからね」蘭の肩に手を置いた。

 蘭は顔が熱くてどうにかなってしまいそうだった。それは英俊と律のキスシーンを生で見てしまったからなのか、それとも肩に感じる重みのせいなのか、蘭には分からなかった。

 蘭がカリカリするのが面白くて、英俊はエンジュのいる会議室に着くまで、マーブルの中で律とイチャイチャし続けた。

 会議室に到着したとたん蘭は、転がり出るように急いでマーブルを降りた。「もうイヤだ、こんな職場、環境が悪すぎる!人事に苦情を申し立ててやる」

「蘭は真面目すぎるんだよ。もっと心に余裕を持て」英俊は蘭をからかうように笑った。

「お前はだらしなさすぎる!」蘭は怒りながらずんずんと前を歩いた。

 2人の遠慮のないやり取りを、律は面白いなと思いながら会議室に入って、エンジュに近づいた。「やあ、気分はどう?」

 顔に不安と恐怖を張り付けたエンジュは律に訊いた。「異象が起きたと聞きました。何があったのですか?」

 異象が起きたことをエンジュに伝えないよう頼んでいたから、そんな答えが返ってくると思っていなかった律は、隣室にいるシフト中の妖術使いたちを睨み、震え上がらせた。

すっかり取り乱してしまっているエンジュを、律は落ち着かせようと微笑んだ。「深海の生物が巨大化したけど、被害は出なかったから安心して」

「――良かった。本当に良かった」エンジュは途端に立っている力を失って、しゃがみ込んで泣いた。

 律がパチンと指を鳴らし、今朝張りなおした黄金に輝く陣の檻を消した。

「ほらおいで、ちょっと座ろう」律はエンジュを抱え上げてベットの端に腰掛けた。エンジュを自分の膝の上に座らせて体をゆすりながら背中を撫でた。

 エンジュの耳元で律は優しく囁いた。「心配だったんだね、かわいそうに。もう大丈夫だから泣かなくていい、人間のことは俺が守るから、君は何も心配しなくていいんだよ」

幼い少女が律に縋って泣く姿は、室内にいた捜査官たち、妖術使いたちの胸を打った。

 落ち着いたエンジュを律はベットに寝かせた。「さあ、少し寝るといい、君の好物は何?」優しく髪を撫でる。

那木川なきがわのケーキ屋さんロクシヤのサヴァラン、すごくおいしいの」撫でられた髪の毛が心地よくて、もう目を開けてられないとエンジュは自分の体が自分の物ではなくなった感覚に囚われた。

「それじゃあ目が覚めた時、ここに届くようにしておいてあげるね」

「ありがとう、嬉しい」

 エンジュは疲れ果てていた。差し出された手――今度こそ本物だ――を握り、すぐに夢の世界へ滑り落ちた。

 せめていい夢を見られるように、願いを込めて律はエンジュの頭にキスした。

 そっと部屋を出て、隣の会議室に集まっている捜査官たちに律は加わった。

「誰がエンジュに異象の話しをした?」

 律の声は落ち着いていたが、ただならぬ雰囲気を感じた英俊は、律の背中に手を置いた。「律、すまない。配慮が足りなかった」

「英俊、俺は怒ってるけど、エンジュに話した奴を罰したいわけじゃないんだ。償ってほしい。ロクシヤってケーキ屋さんのサヴァランを買ってきてくれ」妖術使いたちに向かって律が言った。「自分のせいで、誰かが傷つけられているかもしれないと知ったら、エンジュはどんな気持ちになると思う?」

 番人のせいで人々が傷つけられていると思った彼らは、腹立ちまぎれにエンジュに話してしまったことを、彼女の涙を見たことで既に後悔していたので、律の言葉にハッとした。

 律は彼らをよく見た。20代前半の女が1人と20代後半の男が2人、30代前半の女が1人、蘭はバランスよく選出してくれていると思った。必ず女性の妖術使いがいるようにしてくれているのは、蘭の気遣いだろうと思った。

「俺はいい人間は好きだけど悪い人間は嫌いだ。でもエンジュはどんな人間も好きなんだ。生きている時に他人のためにその身を砕いた人だ。だから天使になれたんだ。死んでからは来世を棄てて人間のために尽くすと決めた人だ。敬われるべきだろう?」

 天使も悪魔もなったが最後、二度と人間には戻れず、当然、来世を生きることは叶わない。

 妖術使いたちは静かに過ごしていたエンジュが、酷く心を痛めていたんだと知って青くなり押し黙った。

 その顔色を見て、エンジュに異象の話しをしたのは、どうやら1人だけじゃないようだと英俊は感じた。「シフトが終わったら全員で行ってそのサヴァランってケーキを買い占めてこい」

 妖術使いたちは「はい――すみませんでした」と謝ると隅に縮こまった。

「分かってくればいいよ」律は意味ありげに笑った。「ちなみに俺が悪魔になれたのは冷酷になれるからだよ。伝え聞いてると思うけど」凶悪な笑みに口元を歪めた。「――俺は君たちが気づかないうちに君たちの喉を切り裂ける」律が瞬きを1度すると、紫水晶色の薄い瞳が黒々とした。

 黒々とした瞳の律は非常に素早く、一瞬で何百人もの人を殺したことがあると妖術使いたちは確かに伝え聞いていた。

 本物の悪魔の目。妖術使いたちはいよいよ震え上がった。

 律はまた瞬きをした。黒々とした瞳は消え紫水晶色の瞳に変わった。

「冗談だよ、みんな顔がおかしなことになってるよ、面白すぎて笑いが止まらない」律は涙を流しながら笑った。

 蘭も初めて見る悪魔の目に兢々とした。「――律さんそれ冗談になりませんよ、悪魔の目を使って一瞬で何百人もの人を殺したって伝説になっているんですよ」

 律は事実とは違う、嘘っぱちの伝説にぽかんとした。「何百人も殺すわけないだろう、そんなの俺だって疲れちゃうよ、せいぜい十数人だ。それに奴らは暗殺者で、俺は黒岡軍の兵士を守っただけだ。何も悪いことはしてないぞ」

 蛍雪は笑った。「やはり噂というのは当てになりませんね。事実は当人にしかわからない」

「あ!でも熊を素手で引き裂いたことならあるぞ」律が揚々とした。

 英俊は眉間に皺を寄せた。「いったいどういう状況だ?いや、待て、聞きたくない、俺の直感が聞かないほうがいいと言っている」

「そうだね、聞かないほうがいい」真実は英俊をやきもきさせるだろうと思い律はクスクス笑った。

 意味ありげに笑った律に、真実を聞きたいような聞きたくないような気持ちを抱えたまま英俊は言った。「俺は局長に提出する報告書を書かなければならない、自分のオフィスで書いて来るが、律はその間どうする?」

「ここにいるよ」

「分かった。終わったらここに戻ってくる」

英俊は律の頭頂部に口付けてから部屋を出て行った。

「我々も仕事があるのでオフィスに戻ります」松倉チームも全員部屋を出て行った。

 2時間後、律と日報を書き終えた蘭、白鶴、フランク、犀星――律には彼が少しチームに馴染んできたように感じた――が談笑していると、英俊がピザの箱を2つ抱えて戻ってきた。

「律、黒岡で一番美味いピザを買ってきたぞ。一つは大きいサイズにしたから律と紬と雛菊で食べてくれ。もう一つはエンジュに買ってきた」

「ありがとう、さっきサヴァランも買ってきてもらったところだ。まだ眠ってるけど、目が覚めたら食べさせよう」食事をする必要はない自分たちに、わざわざどこかへ行ってまでピザを買ってきてくれたのは、英俊が色々考えて気遣ってくれたからなのだろうと律は思った。彼はそういう人だ。

 辺りに漂う美味しそうな匂いに雛菊の鼻が動いた。「私人間の食べ物の中ではこれが一番好きよ。英俊ありがとう」

 巨大化したウルトラブンブクに埋まって生臭くなってしまったフランクは、本部の別棟――トレーニング施設のシャワールームで汚れを落としてきた。

 フランクは物欲しそうに律が受け取ったピザの箱を見た。「俺たちの分は?」

「あるわけないだろう。お前たちは自分で買いに行け」

「そんな、酷いこと言うなよ傷つくだろう、俺は繊細なんだ。大人しくここで待機してたんだから、主任らしくたまには俺たちを労ってくれてもいいと思う。ピザを振舞ったって罰はあたらないんだぞ」

「買ってきて欲しいなら、今度からお前が報告書を書け、そうしたら喜んで買ってきてやる」

「それは嫌だ」日報を書くだけでもうんざりなのに、報告書を書くなんて拷問だ。そんな退屈過ぎる作業をしたら自分は、絶対死んでしまうとフランクは信じて疑わなかった。

 目を覚ましたエンジュに、ピザを少し分けてもらってフランクはご機嫌だった。

「やっぱり俺の赤毛ちゃんは優しいな」少しも分けてやらなかった律たちを、恨みを込めた目で見た。「……君たちとは雲泥の差だ」

エンジュがしとやかに笑った。初めてエンジュの笑顔を見たことでフランクは体が浮かび上がりそうなほど上機嫌になった。

 その時雛菊の顔が曇った。人間の姿で律の隣にちょこんと座っていた紬も燕に戻って律の肩に止まった。

 どうやら次の異象が起きたようだと律は察した。「英俊、俺コーラが飲みたくなった。スタンドまで案内してくれ」

口を開こうとした英俊を雛菊はさえぎった。「それなら私もついて行くわ」

その2人の様子に、どうやら自分に何か言いたいことがあるようだと、英俊は理解した。「分かった。案内しよう」

 3人と1匹はエンジュのいる会議室を出て数メートル歩いた。

「雛菊?」

 律に促された雛菊が口を開いた。「――被害者が出たみたいよ。人間が動物に食べられてる」

 3人と1匹は沈黙した。とうとう被害者が出てしまった。恐れていたことが起きたのだ。

 先ほど人間の事は俺が守ると言ったばかりなのに、これをどうやってエンジュに伝えればいいのか律には分からなかった。上手く伝える方法なんてあるわけない、どんなに取り繕ったって、事実は変わらないのだから。律は自分の力が及ばなかったことを悔しく思った。

 その時英俊のテレグラフィーが呼び出しを告げた。

「はい、紫雲」

 朔がゆらゆらと現れた。「異象が起きた――その顔は既に知っていたって顔だな。そうだ、被害者が出てしまった残念だよ。被害を最小限に抑えるため、すぐに向かってくれ」

「了解、紫雲チーム、松倉チーム臨場します」すぐに蛍雪のテレグラフィーにつないだ。「異象発生。地下エアポートで合流だ」

「了解しました」蛍雪は英俊のただならぬ雰囲気を感じ取った。

 会議室に戻って英俊はドアを開け、中にいるチームに声をかけた。「会議が始まるらしい全員参加だ。行くぞ」

 白鶴と蘭は何かを察していたようで、スタスタと廊下に出てきた。その後ろを犀星が慌ててついてきた。

 フランクはエンジュに手を振りながら、グズグズと廊下に出てドアを閉めた。「こんな時間から会議か?」

 英俊は声を落として言った。「異象だ――被害者が出た。すぐに向かう」

 フランクの表情が瞬時に硬くなった。

 午後17時半、英俊たちが地下エアポートに着くと同時に、蛍雪たちも到着した。

 捜査官たちが駆け足で飛び乗ると、イリデッセントクラウズとファイアフライは高速で地下エアポートを飛び立った。それを見ていた地下エアポートの管理人たちは驚き、口をあんぐりと開け間抜け面で見送った。

 蘭と蛍雪のテレグラフィーがつながった瞬間に蛍雪が言った。「状況は?」

 雛菊のエメラルドグリーンの美しい瞳が白くなった。「場所は間宮崎まみやざき市、あれは巨大なトカゲ?かしら――川を南下してる。海まで行ったら大変よ。大都市だわ」

 いつも少し口角を上げて楽しそうにしているフランクも、今は真剣な顔をしていた。「今の被害者の人数は?」

「それは正確には分からない。倒れている人の数なら3人だけど……丸呑みした可能性もあるから」

 全員の表情が曇った。被害者の数は計り知れないということだ。その暴れ回っている――おそらくエンジュの霊力で巨大化した――巨大な生物の腹を開けて、行方不明者と照らし合わせながら遺体を確認していかなければならないのだ、そんな悲しい作業が待っているのだと思うと英俊は頭を抱えるしかなかった。

 被害者が出てしまった。これからエンジュの立場が危ぶまれるだろう。律は人間がいつまで天使に敬意を持って接してくれるだろうかと思った。

「とにかく急ごう、雛菊手伝ってくれ」律は雛菊の妖力を借りて、マーブルのスピードを限界まで上げた。

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