第4話 成長

 午前5時頃、目を覚ました英俊は薄暗闇の中、律の顔を見つめた。綺麗な顔だなとつくづく思った。

 旧黒岡軍の資料で何度も出て来る律という悪魔は、とても美しい顔をしていると伝え聞いてはいたが、ここまで綺麗だと目が離せなくなってしまう。

 昨日は色々起きたせいであまり深く考えていなかったが、伝説の律に自分は会ったんだと改めて思うと感激した。

 しかもちゃっかりと抱いてしまった。その事実に英俊は僅かな後ろめたさを感じた。

 英俊は律を起こさないようそっとベッドから出て、カップをフルオートコーヒーメーカーにセットした。好みのコーヒー豆をセットしておけばいつでも好きな時にボタンを押すだけで好きなだけコーヒーを適温で飲むことができる優れ物だ。

 コーヒーのいい香りに律は目を覚ました。「おはよう」

「おはよう」英俊はコーヒーカップを1つ律に渡した。「よく眠れた?」

「うん、ベッドにありつけたのも3日ぶりだし、さすがにちょっと疲れてたのかな、久しぶりによく眠ったよ」

「それはよかった、今朝はまず天使の様子を見に行こう。その後で律にも会議に出席してほしいんだ、今から何が起きるのか簡単にでいいから説明してくれるか?」

「俺にも何が起きるか分からないから、本当に簡単な説明になっちゃうけどいいの?」

「それでかまわない、みんな聞きたいこともあるだろうし、質問に答えてくれるだけでいいから」英俊は律の手を引いてシャワーブースに連れて行った。「お湯を40度で」シャワーヘッドから40度のお湯が出てきて、ブースのガラスが曇った。

 英俊は律の髪の毛を洗った。「髪の毛って伸びるのか?」

「伸びるよ。切った翌日この長さに戻るだけだけどね」律は泡が目に入らないように上を向いた。

 英俊は律の唇を吸った。それはすぐに激しいキスに変わった。

 律をブースに押し付けて腰を引き寄せると、英俊は後ろからするりと中に入り、律の首筋に歯を立てた。

 律が身を震わせて呻き声を漏らす。その声が英俊を煽って昂らせた。

 2人はゆっくりと絡み合い、ブース内は湯気と2人の熱でもうもうとなった。

 突然始まったこれに英俊は訳が分からなかった。ただ律の存在が自分から理性を奪ってしまう。律が欲しいと全身が訴えた。

 激しく揺さぶられた律がたまらず昇り詰めると英俊も自分を押し上げた。

「泡だらけになっちゃったな、ごめん」英俊は律の体を洗って綺麗に流してやった。「先に外に出ててくれ、俺も体を洗ってから出る。タオルはそこにかけてあるやつ使って」

「うん、ありがとう」律は柔らかい真っ白なタオルで体を拭いた。

 英俊も髪と体を急いで洗うとシャワーブースから出てきた。「そこに座って、髪の毛を拭いてやろう」

「英俊は世話焼きだな」髪の毛をタオルでわしゃわしゃと拭かれながら律が笑った。

「今までこんなことしたことなかったんだけどな、何故か律には手を出したくなる」

「なあ、栗は好き?」

「栗か?好きだよ、俺の好物は栗あんぱんだ」

「そうか、栗あんぱんか」

 英俊はカラカラと笑う律を不思議そうに見た。「なんだ?突然、そんなに栗あんぱんが可笑しいか?美味いだろう?」

「ごめん、昔同じことを言った人がいたんだよ。栗あんぱん俺も好きだよ」

 支度を終えて部屋を出たところで、律を迎えに来た蘭と犀星にばったり会った。

 白い目を向けてきた蘭に英俊は悪びれもせずに言った。「なんだよ、別にいいだろう?俺たちは大人なんだから」

 英俊の後ろから律がひょっこり顔を出した。「どうかしたのか?」

「蘭が俺たちがセックスしたことを非難するんだ」

「律さんを非難するわけないだろ、俺はお前を非難してるんだ」蘭はどうして英俊ばかりいい思いをするのだろうか、自分は片思いの相手を見つめることしかできないのにと思うと悲しくなった。

 4人は、マーブルに乗って会議室に向かった。

「今朝はちゃんと精神修行してきた?」律が犀星に訊いた。

「はい、してきました」

「よし、じゃあ俺の手を握って」律が差し出した手を犀星が握った。「うん、昨日よりいいね、ちゃんとできてるみたいだ」

 英俊は犀星の頭をぐしゃぐしゃにした。「良かったな、やればできるんじゃないか」

「ありがとうございます!昨晩律さんにコツを教えてもらいました」

 蘭は犀星の背中を叩いた。「最高の師匠だな」

「はい――」犀星は俯きこっそりと涙ぐんだ。

 英俊は蘭の脇腹をつついた。「なあ、俺たちの夜がどんなだったか聞きたいか?教えてやろうか?」

「聞きたくない!」蘭は自らの耳を両手で塞いだ。

「今朝も1度シャワーブースの中で激しくヤっちゃったんだ。お前の憧れの律と一緒にシャワー浴びたんだぞ、羨ましいだろう」

「羨ましくなんかない!律さんは気高く尊い存在なんだ、お前なんかに穢されてたまるか!」

 後ろで聞いていた経験が少ない初心な犀星は、顔を真っ赤にして俯いた。

 ふざけあう2人を律は面白そうに見つめた。「2人は仲良しなんだね」

「幼馴染なんだ。こいつの父親と俺の父親はIBAIの捜査官だった時に相棒でな。それで俺たちは子供の頃からよく一緒に遊んでたんだ」英俊が律に教えた。

 蘭は肩に腕をまわしてきた英俊の手を払いのけた。「腐れ縁ってやつですよ」

「何だよつれないな、俺たち兄弟みたいなもんだろう?子供の頃はよく面倒見てやったじゃないか」

「違うね、面倒見たんじゃない、子分にして連れまわしたんだ!」

「2人ともいいコンビだよ」律は腹を抱えて笑った。

「コンビとか言わないでください」蘭は口を尖らせてむくれた。

 天使の様子を見に来た英俊たちは目が点になった。いくら律から成長が早いと聞いていたからといって、昨夜まで赤ん坊だった子が突然10歳の少女になっているのだから、違和感しかない。

 律は少女に話しかけた。「こんにちは俺は律、こっちが英俊で、こっちが蘭、それと犀星だ。俺たちは昨夜、君を保護してここまで連れてきた。君の名前は?」

 昨夜の妖術使いが張ったであろう陣の中にいた少女が答えた。「私はエンジュです。あなたは地獄の番人ですか?」律の気配を感じ取ったエンジュが訊いた。

「そうだ、君は天国の番人だよな、どうして地上に落ちてきちゃったんだ?」

「落とされたんです。私の前任者は辞任をギリギリのところで躊躇ってしまいました。それで私が邪魔になったようです」

 酷い扱いを受けたというのに、エンジュはずっと無表情のままだった。檻の中に入れられてる状況では当然そうなってしまうのかなと律は思った。

「そうか、大変だったな――でも天界から誰かが迎えに来ると思うから心配しなくていいと思うよ。それまでここにいてくれ、君が成長すると周りに影響するんだ。窮屈だろうけどしばらくの辛抱だよ」

「すみません。ご迷惑をおかけします」エンジュが丁寧に頭を下げた。

「でもこの陣だとエンジュは簡単に壊せちゃうだろうから張りなおすね」律がパチンと指を鳴らすと陣の檻がバラバラに崩れた。

 まるで子供が張った陣を壊すかのように、軽々と壊して見せた律を――昨日犀星を笑った妖術使いたちは愕然として見つめた。彼らは、まさか自分たちが4人がかりで張った陣が術解きの印を結ぶことなく、指を鳴らしただけで壊されるとは思っていなかった。

 律が印を結ぶと煌々と輝く金色の檻が現れた。

 英俊はこんなにも光り輝く陣を見るのは初めてだった。悪魔である律の霊力が人間を勝るのは当然だろうと思ったが、それに引けを取らないと言われていた柳澤晴翔を化け物だと思った。

 2人が信頼しあいながら戦うところを想像した英俊は何故だか少し苛立った。

「ありがとございます。ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いいたします」エンジュは無表情に礼を言った。

 10歳くらいの少女が律の質問に大人のように答える姿がちぐはぐで、英俊の目には不自然に映った。

「何故この子は大人っぽい話し方をするんだ?」

「それは、彼女の中身が大人だからだよ」律はエンジュに訊いた。「君は死んだとき何歳だった?」

「23歳です」エンジュは椅子に腰かけた。

 エヴァという小麦色の肌の美女は、完璧に女性らしい部屋を会議室に作り上げたなと律は思った。

「彼女の中身は23歳だ」

英俊は何かが引っかかって眉間を寄せた。「えっと……律の中身は……」

「死んだときの年齢だから16歳くらいだ――誕生日を知らないからはっきりとした年齢は分からないんだけどな」英俊の動揺をよそに律は衝撃的な真実を、あっさりと英俊に伝えた。

「大人じゃないじゃないか」蘭は英俊を非難した。

 未成年を相手に、してはいけないことを散々、しかも熱心にしてしまった英俊は、昨夜と今朝の事を思い出して顔を白くしたり青くしたりした。きっと姦淫罪だと判断され自分は地獄に落とされる。英俊は気が遠くなるのを感じた。

 英俊が青くなっている理由に気が付いた律は笑った。「中身は16歳だけど600年も地上を彷徨ってるんだから、普通の16歳とは違うと思うよ」

 英俊は逃げ道を律から提示されて気を取り直した。「そうだ中身は16歳かもしれないが、俺たちより多くの事を経験してきている。600歳だ、問題ない」

「どんなに言い聞かせても16歳は16歳だと思う」蘭は冷ややかな目を英俊に向けた。

「うるさい黙れ!最高の抱き心地だったんだ諦められるか」

 蘭は耳を塞いで、英俊の声を閉め出した。「わあ!変なこと言うな、聞きたくない!」

「お前たちは朝から熱々だな」会議室に入ってきたフランクが英俊と蘭をいつものようにからかった。

 フランクと一緒に会議室に入ってきた常に冷静な白鶴が言った。「――何か赤ん坊が大きくなってる」

 フランクは陣の檻に飛びついた。「めちゃくちゃ可愛いじゃないか!俺の赤毛ちゃん、俺のことはフランク兄ちゃんって呼んでくれよな」

「遠慮します」

 エンジュにあっさりあしらわれたフランクは傷つきくずおれた。「そんな……俺の赤毛ちゃんが……俺を拒絶した」

 フランクを白鶴が笑った。「ハハハ!ざまあみろ、馬鹿は引っ込んでろってことだ」

「馬鹿って言うな!俺は馬鹿じゃない、おちゃめなんだ!」フランクは白鶴を睨みつけた。

 律はフランクの肩に手を置き、フランクのあまりの落ち込みように笑いたい気持ちを抑え込んだ。「彼女はエンジュ、中身は23歳で子供じゃないんだ。大人として接してあげて、どのくらい成長するか分からない。今のフランクより年上になってしまうかもしれないよ」

「そうなの?」涙をこぼしながらフランクは律を見た。

「そうなんですか?23歳より下かもしれないし、上かもしれない?」エンジュも目を丸くして律を見た。

「うん、どのくらい成長するかは育ってみないと分からないよ、俺の中身は16歳だけど、見た目は20代後半くらいだ。俺たち悪魔は死んだときの怨念の強さで姿が変わるんだ。天使も似たようなものだと思うよ」

 エンジュは生前から着飾るということをしたことがなかったので、必要ないと思っていたドレッサーの鏡を開いた。「――私じゃない」

「とっても可愛いよ、きっと美しい女性になる」フランクは目を輝かせた。

「ありがとう」それまでずっと無表情だったエンジュが照れて目を伏せた。

 その可愛さにフランクの心は奪われた。

 白鶴はフランクが犬のように尻尾を振っている気がして、ゾッとした。「フランク尻尾が出てる。しまっとけ」

「俺に尻尾は生えてない!」フランクは無意識に尻を押さえた。

 騒ぐ2人にうんざりした英俊は2人を窘めた。「お前らいい加減にしてくれ、会議が始まる、そろそろ行くぞ」

 フランクと白鶴はお互い顔をそっぽ向けて部屋を出た。

 2人の様子にため息をついた英俊の背中を律は笑いながら撫でた。

 英俊は律の手を取って手の甲にキスをした。

 朝の早い時間から起きていたので、律はつい大きな欠伸をした。

 いつもは朝、目が覚めると酒を呑んでうつらうつらしながら、11時ぐらいまでぐずぐずと過ごすのが日課だった。

 眠たい目を擦りながら会議室Bに入っていくと、蘭が嬉しそうに先に来ていた誰かに近づいて行ったのが律の目に入った。

「おはようございます。紫雲チームが天使を保護した話はもう噂になっているようですよ」

 にこやかに蘭に話しかけた男は、捜査官とは思えないような見た目で、どこかのモデルだと言ったほうがしっくりきそうな男だった。今度は蘭に尻尾が生えてしまったようだと律は思った。

「蛍雪、おはよう。妖術使いを招集する必要があったから、何かあったようだと推測されるのは避けられない。この建物に噂を知らない者はもういないだろうな」蘭が律に紹介した。「律さん、彼は捜査官の松倉蛍雪です、チーム主任をしています。俺たちのオフィスとフロアが一緒なんです」

 蛍雪は手を出して律と握手した。「お会いできて光栄です。今日は燕が肩に乗っていないのですね」

 昨晩、興奮した蘭から詳細を聞いていたので、律を目の前にしても驚きはしなかったが、この美しさには目が離せなくなるなと思った。

 律はニコニコ笑う蛍雪に好感を持った。その悪意のない笑顔は人に警戒心を失わせる。誰にでも好かれるタイプと言ったところだろうと思った。

「多分、雛菊のところにいるんだろう。紬は雛菊が好きだから、それに大勢の前に出るのはあんまり好きじゃないんだ」

「雛菊?」

 フランクが答えた。「天狐ですよ、めちゃくちゃ美人なのに唾液に長寿の効果があるらしくて、300年位生きちゃうそうです。もったいない、それさえ無ければ、あの大きなおっぱいに包み込まれたい」フランクは拳を握りしめて悔しがった。

 律は思わず吹き出した。「それはどうかな、雛菊が嫌がると思うな」

 せせら笑う白鶴をフランクは睨みつけた。

 英俊は何故この2人は子供みたいにいがみ合うのだろうかとため息をついた。互いに背中をあずけられるほどに相手のことを認めているのだから、喧嘩するほど仲がいいということなのだろうかと思った。

 会議室に捜査官が揃いだし、律は一通り自己紹介を終えた。

 30代後半くらいの柔和な雰囲気の男が会議室に入ってくると、集まった捜査官、妖術使いが揃って態度を引き締めるのを感じて、律は場の空気が変わったと思った。柔らかかった空気が硬いものへ。堅苦しいのが苦手な律は少し居心地が悪かった。

 その男に英俊が声をかけた。「部長、ご足労ありがとうございます。地獄の番人の律を紹介させてください。今回の件に力を貸してくれるそうです」

「私はITTの大八木おおやぎはじめです」朔は律に手を出して握手した。「あなたに会えるなんて光栄ですよ。お力を貸していただきありがとうございます」

「天界のことではあるけど、一応同じ番人のことだから俺にも責任があるしね」

「一度ゆっくりお話を聞かせてください。番人のことや逸話なんかを、聞いてみたいです。語り継がれていることが事実なのか、答え合わせもしたいですしね」

 歩み去っていく大八木部長の背中を追いながら英俊は律に耳打ちした。「彼はつい最近最年少でITTの部長になった。傑出した人だ」

「すごい人なんだな」そうは言ったが、律は握手したときに感じた朔から伝わってくる負の感情が気に入らなかった。雰囲気は蛍雪に似たところがあるが、その心は似ても似つかないと思った。

 会議室の時計が午前9時を知らせる頃、IBAI局長増田海星は、皺ひとつないスーツをピシッと着こなし現れた、胸を張って歩く姿は上に立つ者の威厳を滲ませていた。

 60代に差し掛かった彼の体は衰えを知らず、今でも第一線に立って戦えそうな鍛え上げられた肉体を維持している。

 更に堅苦しくなってはたまらないと、律はそろそろ逃げ出したくなり始めていたが、以外にも場の空気は温かいものに変わったようだった。

 身を引き締め、硬い表情をした捜査官、妖術使いたちだったが、その瞳には信頼がありありと見て取れた。

 なるほど、祖父に似て人懐っこかった、おちびの海星君は部下たちから慕われているようだ。彼を赤ん坊のころから知っている律は少し誇らしかった。

 海星は英俊に向かって軽く頷いた。無言で会議を始めるよう促された英俊は話し始めた。

「昨夜、うちのチームが、天国の番人であり天使の『エンジュ』を保護しました。番人は成長の過程で周囲に影響を及ぼすらしいことが分かっています。昨夜、赤ん坊だったエンジュは既に10歳ほど成長したようなので、いつ何が起きるか分かりません。大八木部長、ITTには技師を総動員して見張っていてもらいたいのですが、可能でしょうか」

「分かりました。可能な限り人員を割きましょう」朔は頷いた。「律さんに質問を、律さんの時はどのような影響があったのでしょうか?参考までに教えてください」

「俺の時は島を1つ作ってしまった。それも前任者の番人が、力を押さえてくれていたからその程度で済んだんだと思う」

「造ることができるなら破壊することもできるのではないですか?」

「その通りだ、島を1つ作るくらいならいいが、この国を消滅させてしまうかもしれない」

「人が犠牲になる可能性もあるということですね」

「そうだね、エンジュの力は俺が抑え込もうと思っているけど、天使の力を悪魔の俺がどこまで抑え込めるのか分からない」

「それは天使のほうが悪魔よりも力が強いということですか?」

「俺も天使に会ったのは初めてだし、霊力に差があるかは分からないけど、エンジュを見てて思うんだ、そもそも天使の霊力と悪魔の霊力は質が違う。罰したいと思っている者と、救いたいと思っている者が相いれないのと同じようにね」

「陰と陽が分かれているように、律とエンジュも同じ番人でありながら立場が違うということか?」英俊が訊いた。

「うん、そんな感じだね。エンジュの霊気を俺も紬も感じ取れなかったのは、天使の力が悪魔に影響を及ぼさないからだと思うんだ。反対に悪魔の力は天使に影響しない。やれるだけのことはやってみるが……異象は避けられないと思う」

 ――人知を超えた異常な現象を妖術使いたちは『異象』と呼んだ――

 天使だろうが、悪魔だろうが番人が人間に及ぼす力は絶大だ。律は心苦しく感じた。

「なるほど、ではこの状況をなんとか耐えるとしましょう」蛍雪はまるで子供のイタズラに困っている親のように言い、律に訊いた。「いつ頃天界から迎えが来るものなのでしょうか?」

「もうそろそろ迎えが来てもいい頃なんだけど、エンジュは『落とされた』と言っていたから天界がごたついてるとしたら当分来ないだろうな、最悪、エンジュが成長を終えるまで耐えるしかないかもしれない」

 その後もエンジュを護衛する妖術使いたちに注意点を伝えたり、エンジュに何かあった時は手を出さずにすぐに自分に知らせてくれるよう、念を押したり釘を刺したりした。

 会議が終わり集まった人たちはそれぞれ居るべき場所へ戻っていった。

 律は英俊の隣に立った。「英俊、無力に感じる。俺あんまり役に立ってないな……」

「そんなことない、異象が起きたら俺たちには律の力が頼りなんだ」

「俺たち番人のせいで人間が傷つくのは辛いんだ。だって人間は番人のことを嫌いになっちゃうだろ?」

 落ち込んでしまった律の頭を英俊は撫でた。「律、君はヒーローだ。嫌われたりなんかしないよ。異象が起きるのは避けられない。なら、被害を最小限に食いとめよう」

「それくらいしかできないなんて、やっぱり無力に感じる……」

「律」英俊は律の肩を慰めるように撫でた。

「今から犀星を連れて招き猫を見に行ってくるよ、それなら無力だなんて感じないから、いい気晴らしになる」

「うん、分かった。気をつけて」

 蘭は英俊と律の間に割って入り、ずいっと前に出た。「律さん、俺も行っていいですか?」

 瞳を輝かせている蘭の頭を、英俊は大きな手のひらで乱暴につかんだ。「お前は昨日の日報を仕上げなきゃならないだろ!」

「それなら犀星だって日報を書かないといけないんじゃないか?」蘭は不満そうに言った。

「犀星は昨日の夜のうちに書いてよこした。まだ出来てないなんてお前にしては珍しいな。いつもなら真っ先に書き上げて提出してるだろう」

 律の除霊を生で見れると思って喜んでいたのに、それが叶わないと知って落ち込んだ蘭に蛍雪が近づいてきた。

「蘭は昨夜、私に連絡してきて、その日あったことを話して聞かせるのに忙しかったから書けなかったんですよね。3時くらいまで付き合わされましたから、もう眠くて、眠くて」

「蛍雪!余計なこと言うなよ!」

 子供のようにはしゃいでいる蘭を想像して英俊は腹を抱えて笑った。

「くそ!笑うな!」英俊の弱みを握って報復してやろうと蘭は心に誓った。

 律は犀星を連れて、IBAIの建物から少し離れたところにある山の山頂に来ていた。

 地獄の番人である律の仕事は、悪さをする鬼や妖を封印したり、怨霊を祓ったり、悪霊を地獄に送り届け、出てこられないよう蓋をしっかりと閉じておくことだ。

 蓋を閉じるというのは文字通り、地獄の番人が各々持ち歩いている地獄に繋がる小さな木箱の蓋を閉じるということだ。

 今から100年前律は、黒岡軍を襲った鬼と戦いその首を切り落とした。

 首だけとなった鬼に命令し裏山に鎮座させることで、この地から災いを遠ざけさせた。

 鬼の首は岩となり、今もこの黒岡の地を守り続けている。

 律は鬼岩の前に立った。「この鬼を見た時の伊織君は、あの端正な顔を驚きでいっぱいにしてて面白かったよ」

 律は懐かしい思い出に胸が詰まった。

「祖父が高祖父の手帳を持っているんです。そこには任務のことが書き記されています。今度よければ読んでみませんか?と祖父が言っていました」

「伊織君らしいな、几帳面な人だった。君のお祖父さん碧斗あおと君は俺がここを出て行った時、やっと一人前になったところでね、今の君と同じくらいだ。今度読ませてもらいに行くと伝えておいてくれ」伊織の面影が僅かにある犀星の顔を振り返って見つめた。「さあ、犀星、招き猫にとり憑いた霊を成仏させてやろう」律は鬼岩の横の祠から4体の招き猫を取り出した。「この招き猫は『堆金積玉たいきんせきぎょく』といって、4体で1対なんだ。今から300年前、人形師の虎って男がこの招き猫にとり憑いたんだ」

「この霊に何があったのですか?300年も成仏できなかったとすると怨念がそうとう強かったってことですよね?」

「うん、気の毒な男なんだ。恋人がいたんだけどね、ある日、男たちに乱暴されて自殺してしまったんだ。虎は報復した後で自らの命を絶ったんだけど、怒りがおさまらなくて、招き猫にとり憑いた」

 ――死んで肉体を離れた魂は死霊となり、やり残したことや、心残りを解消してから成仏するが、憎しみや恨みを抱えた死霊は怨霊となってしまう。現実に存在しない怨霊は、成仏しなければいずれ魂ごと消えて無くなってしまう。この世に留まるため、物に憑依し悪霊となって怨念を散らす。それが異象を引き起こしてしまう――

「酷い話ですね」

 優しい心を持つ犀星の沈痛な表情が、この話を聞いた時の高祖父と重なった。

「犀星、君が成仏させてあげて」

「え⁉︎僕がですか!」突然の思いもしなかった言葉に犀星は酷く焦った。

「そうだよ、君は妖術使いなんだから、成仏させられるよね」律は意地悪く口角を上げた。

「待ってください。僕にはできません」泣きそうな顔で犀星は訴えた。

 律は首を横に振った。「できないと決めつけちゃいけないよ、君も知識はあるんだから、心を落ち着けて集中すれば出来るはずだよ。さあ、やってみて」

 犀星は集中するよう頭に暗示をかける勢いで、集中という言葉を何度も繰り返し念じた。


うらむらくは烏滸おこ沙汰さたたてまつるにかたし』


 印を結び呪文を唱えたが招き猫はピクリとも動かなかった。

 がっくりと肩を落とした犀星の肩に律は手を置いた。「君は術を使うとき、集中しなければと頭で考えている、そんなこと考えてたら上手くいかないよ。体で感じるんだ。肌から伝わる外気の温度、この場所の匂い、風が揺らす木々の音、君が1番集中できるものは何かな?それを探して」

 犀星は目をつむり、あらゆるものに神経を尖らせた。

 自分が1番集中できるものは音のようだったので、森の中の音に集中した。

 もう一度印を結び呪文を唱えた。


『憾むらくは烏滸の沙汰奉るに為ん方無し』


 すると一陣の柔らかい暖かな風が吹きつけて、招き猫の周りを落ち葉を巻き上げながらぐるぐると風が舞い、光に包まれた。

光の中に招き猫にとり憑いていた魂が溶けていくのを犀星は見守った。次に生まれ変わる時は幸せな人生になるよう願うことも忘れなかった。

 辺りが清浄な空気に包まれたと感じた律は、犀星の肩を思いっきり叩いた。「やればできるじゃないか!完璧だよ」

「こんなにスムーズに除霊できたのは初めてです」自分1人の力で除霊できたなんて犀星は信じられなかった。

「君の師は教え方が悪かったんだろうね、君の霊力が低いのもそのせいだろう。どんな風に教えられたんだ?」何のご利益も無いが別に構わないだろうと思って、律は空っぽになった招き猫を祠に戻した。

「無になれと教わりました」

「人間なんだから無になんてなれるわけないだろう、僧侶でもあるまいし。欲があるからこそ人間なんだ。人間だからこそ他人を思いやれる」律は犀星と並んで山道を下った。「さっき暖かい風が吹いただろう?それは君が優しい心を持ってるからだ。死者を思いやれない妖術使いなら、冷たい風が吹く。妖術というのは使う者によって変わるものなんだ。だから無になる必要なんてない」

「知りませんでした」確かに妖術使いはそれぞれ術の気配が違う。それはその人の性質を表している。それを無とは呼べないだろうと犀星は思った。

「伊織君も優しい心を持っていた。威厳はあるものの荒々しいところが無い、理想的な君子だったよ」

「少しでも近づきたいと思います」臆病な自分とは決別しよう、高祖父が師と仰いだ人から師事してもらえるのだから、この絶好の機会を無駄にはしない、馬鹿にされ笑われるのはもう終わりだ、前を歩く律の背中を見ながら犀星は決意した。

 犀星と一緒にIBAIの建物に戻ってきた律の手を、フランクは引っ張ってフロアを案内した。

「律さん、こっちに来て!ここはカフェスペースです。ここにある名前を書いていない物は、何でも好きに飲んだり食べたりしてください」

 フランクが開けた扉の先は、淡いグリーンが目を惹く、本格的な料理もできそうなアイランド型キッチンと大型の冷蔵庫、その他の家電がいくつか――律には何に使うのか分からない物――並べられたカウンターに椅子が6脚備えてあった。

「うん、ありがとう、フランクは気が利くね」

 フランクは照れて頭を掻いた。「子供の頃に身につきました。父親が牧師なんです。だからよく手伝いをさせられたんですよ。信徒にコーヒーを配ったり、パンケーキを焼いたり。それで癖になってしまったんです」

「いい癖だね。あ、でも、牧師さんってことは悪魔の俺は嫌われちゃうかな」

 父親が律を前にしてどんな反応を示すのか想像したフランクは大笑いした。「きっと腰を抜かすでしょうね。父に律さんのことは黙っておくことにします。あっちが松倉チームのオフィスでこっちが紫雲チームのオフィス、カフェスペースは共有なんです。紫雲チームのオフィスに行きましょう」

 フランクは律にオフィスの扉を開けた。「あれ?松倉主任まだいたんですね」

「そうだいつまで居座るんだ、自分のオフィスに戻れよ」英俊がソファーにドカッと腰を下ろした。

「いいじゃないですか同じフロアなんですから。招き猫がどうなったのか私も気になるんですよ」

 全員の視線が律に集まった。「招き猫なら犀星が成仏させたよ」

「何⁉︎」フランクは犀星の肩に腕を回した。「やるじゃないか犀星!」

「ありがとうございます」犀星は照れ臭かったが、瞳をキラキラと輝かせた。

「なんだよ、そんな実力持ってたならさっさと出せよ。出し惜しみしやがって」蘭はからかうように文句を言った。

 犀星は何も言うことが出来ず頭を掻いた。

 妖術学校を卒業してすぐに配属されたチームは、誰もが羨むほど優秀なチームで、自分には絶対に務まらないだろうからすぐに追い出されると犀星は思っていた。

 それなのに追い出されるどころか、このメンバーは誰1人として出来損ないの犀星を笑ったりしなかった。

「いい師に教わったからといって、妖術はすぐに身につくものでもないだろう。それはお前の実力あってのことだ。自信を持て」子供と言ってもいいような、童顔の若者の著しい成長に英俊は、将来が楽しみになってきたなと思った。

 その時、英俊のテレグラフィーが呼び出し音を告げた。「はい、紫雲です」

 英俊のテレグラフィーにITTの大八木部長が現れた。「感知したよ、南東の方角、場所は月南市つきなんし、通報が入っている、律さんがいるのだからフライングボールは必要ないだろう、すぐに向かってくれ」

「了解」英俊は通信を切った。「出動」

 紫雲チーム、松倉チームが一斉にマーブルに飛び乗った。

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