第4話

 翌日、ひかるの机には相も変わらずたくさんの書類が積まれていた。昨日残業できなかった分を取り戻そうと、脇目も振らず必死に書類に目を通していたひかるの隣で、桂子は相変わらずスマートフォンを見ながら団扇をあおいでいた。


「おはよう、桂子さん」


 社長の悦雄がズボンのポケットに手を突っ込みながら桂子とひかるの間に立っていた。


「あ、社長。おはようございます! どうされました?」

「さっき仕事の関係で役場に行ってきたんだけど、たまたま町長に会ってね。桂子さんが今度のカラオケ大会で優勝して前人未到の十連覇を達成したら、町民栄誉賞を贈るつもりみたいだよ。この会社から町民栄誉賞がでるなんて、本当に名誉なことだ。俺も鼻が高いよ」

「社長、十連覇なんて無理ですよ。だって、今の私は……」

「うちの会社の知名度と業績アップのためにも、頼むよ、歌姫さん」


 悦雄は笑いながら桂子の背中を叩くと、桂子は悦雄の言葉に我慢できなかったのか、突然椅子を蹴り倒して立ち上がり、悦雄の背中に向かって叫んだ。


「社長、待ってください! 私はもう……ゴホッ」

「桂子さん? 」

「……」


 桂子は喉元を手で押さえたまま、何も言葉を発することが出来なかった。ひかるは心配そうに何度も桂子の背中をさすると、桂子は顔をくしゃくしゃにしながら後ろを振り返った。


「私のことなんか、ほっといてよ……」


 桂子の声はかすれて所々聞き取りにくかった。


「桂子さん、ひょっとしてポリープ? 」

「……」

「私のアイドル仲間でも同じ病気になって歌えなくなった人がいたんだもん。その時の症状に似てるから」


 桂子はハンカチで目頭を押さえると、足音を立てて玄関へと走り、そのまま表へ出て行ってしまった。


「待って! 桂子さん!」


 桂子は走ってきた勢いそのままに車に乗りこみ、エンジンをかけるやいなや、どこか遠くへと走り去ってしまった。


「俺、桂子さんに何か失礼なこと言っちゃった? あんなに思いつめたような顔して。自殺とかしなければいいけれど……」


 悦雄は、社長室の窓から頭を抱えながら心配そうに見つめていた。


「社長、私、桂子さんを探してきます」

「ひかるちゃん、分かるのかい? 桂子さんの行先を」

「まあ、何となく……ですけどね」


 ひかるは社長に頭を下げると、車に乗り、山道をひた走り始めた。昨日桂子に連れて行ってもらった道を思い出しながら、昼間なのに薄暗い林道を運転し、やっと見覚えのある一軒家が視界に入ってきた。

 庭には、桂子の軽自動車が停まっていた。


「やっぱり、ここにいたのか……」


 ひかるが玄関を開けると、桂子の「パートナー」である猫がしっぽを立てながら不安そうに廊下を何度も往復していた。


「ねえ、桂子さんはお家にいるの?」


 すると猫はひかるに背を向け、廊下を小走りに走り去っていった。ひかるは猫を追いかけると、家の奥にある桂子のポスターやレコードのある部屋にたどり着いた。

 そこには、床に伏したまま泣きじゃくる桂子の姿があった。


「桂子さん!」

「何しに来たの? 早く帰って……ゲホッ 」

「やっぱりポリープだったんですね。だったら今度のカラオケ大会は無理しちゃダメですよ」

「何言ってるの? あなたには、歌うことのできない私の悔しい気持ち、わかるかしら……」


 桂子は息を切らし声を枯らしながら、感情を露わにして叫んだ。


「今度のカラオケ大会、私が桂子さんの代わりに歌いますから」


 ひかるの言葉を聞いて、桂子は顔を上げて「まさか」と言わんばかりの表情でひかるを見つめた。


「あなた……本気で言ってるの? 」

「本気ですよ。私だって一応、歌手でしたから。桂子さんの悔しい気持ち、誰よりもわかるから……」


 ひかるは淡々と答えた。桂子は顔をくしゃくしゃにしながら両手をひかるの肩にかけた。


「分かったわ。じゃあ今夜から私が一対一でレッスンするから、覚悟してちょうだい。今のあなたじゃ、正直不安だから」

「良いですよ。お願いします」


 ひかるは桂子の脅迫じみた言い方にも屈せず、笑顔で頭を下げた。

 桂子は呆れ顔で立ち上がると、足元にすり寄ってきた猫をそっと抱き上げ、「ねえ、あの子で大丈夫だと思う? 」と呟いた。猫は嬉しそうに「ニャア」と言って桂子の顔を舐めていた。

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