49話 弱音と、決意と
――夕陽が俺を訪ねて来た日の夜、俺は病室で梨の皮を剥いている母さんの手をじっと眺めていた。
「どうしたんだよ、急に。梨なんか持ってきて」
「見舞いついでにね。ほら、病院食はあんまり美味しくないって聞くじゃない? だから、留衣が昔から好きな梨を買って持ってきたのよ」
「俺は別に、不味いとは思わないけどな」
「あらそう?」
確かに病院食は薄味だが、俺は薄味が嫌いなわけではなかった。
というか、こころのことを気にしすぎて味など気にしていられないと言ったほうが正しいだろう。
あいつは今、何をしているのだろう。
ちゃんとご飯を食べているのだろうか。
ちゃんと寝られているのだろうか。
罪の意識に、押し潰されていないだろうか。
「……今日、こころちゃんは?」
母さんは梨の皮を剥く手を止めず、視線をこちらにも向けないで訊ねた。
「来てない。最近、学校にも来てないらしい」
「……きっと、苦しんでるんでしょうね」
「あぁ、俺もそう思う」
こころは今まで、自分の親を殺した罪の意識と戦いながら生きてきた。
それが最近になって、ようやく前を向いて笑顔でいられるようになったのだ。
なのに、あの交通事故のせいで、こころはまた心を閉ざしてしまった。
それは……全部、俺のせいだ。
「……なぁ、母さん」
「何?」
聞き返してくる母さんの優しい声音に目頭を熱くさせながら、俺はぽつりぽつりと言葉を零し始めた。
「俺……間違ってたのかな」
「えっ?」
母さんが、梨の皮を剥く手を止める。
「俺があの日、こころの誕生日プレゼントを買おうとしなかったら、こんなことにはなってなかった。家で大人しくしていれば、こころを外に連れ出さずにしていれば! ……こころが苦しむことも、なかったんだ」
「留衣……」
俺の言葉は、終わらない。
こころを想えば想うほど溢れ出してくる自分の愚かさと情けなさをどうにかしたくて、俺の口はただ後悔を吐き出し続ける。
「もし誕生日プレゼントを買ったとして、それで終わればよかったんだ。なのに俺は、こころともっと恋人らしいことがしたいからって、ご飯食べて、好きを伝えあって、丘で綺麗な景色を見て……! 『今日、交通事故が起こるかもしれないな』ってこころと話した! もしあそこでトラックが交通事故を起こすことが必然だったとしたら、それを避けられる手段なんていくつもあったんだ! なのに俺は、俺の欲望を満たしたいからってこころを連れ回して、最終的にこころを傷つけた! 俺は……俺は……!」
こうして弱音を吐き出してしまうからこそ、俺は弱いままなのだろう。
いつだってそうだ。
変わりたいと思いながら、何もしていない。
出来ることもしていない。
だから俺は、何も変わらない。
何が「こころを幸せにします」だ。
何が「この笑顔を守ります」だ。
真逆のことをやってんのは、どこのどいつだよ。
「……ねぇ、留衣?」
必死になって酸素を貪っていると、母さん変わらぬ優しい声音で言葉を紡ぐ。
「こころちゃんは今、きっと苦しんでる。それは、自分が自分の親を殺したと思ってるから。殺して、自分の親に怨まれていると思っているから。それについて、留衣はどう思う?」
何故、いきなり母さんはそんなことを言うのだろう。
そんな疑問を抱えながら、俺は母さんの問いに答えた。
「俺は……違うと思う。確かに道路へ飛び出したのはこころの不注意だ。多角的に見れば、こころがこころの親を殺したって言い分も理解できる。だけど、俺は納得できない」
こころの親は、自分で自分の生死を選ぶことが出来た。
こころを助けに行かなければ、生きられる。
こころを助けに行けば、死ぬ。
その選択権を、こころの親は持っていたはずだ。
にも関わらず、こころの親はこころを助けることを選んだ。
それはつまり、「たとえ自分が死んででもこころに生きてほしい」という思いの裏返しだ。
そんな思いを持っているこころの親が、こころを怨むなんて考えられない。
「だから俺は、こころが自分の親を殺したと思い込んでいることにも、それを怨まれていると思い込んでいることにも納得がいかない」
「……さっきの留衣の話も、おんなじことだと思う。あの事故は留衣とこころちゃんを撥ねたトラックが悪い。だって、留衣とこころちゃんは何も悪いことをしてないんだもん。だから、留衣が自分を責める意味なんてどこにもない。違う?」
「それ、は……」
母さんの言葉に、反論することができない。
だって、その通りだと思うから。
俺が自分を責める意味なんてないと、気づいてしまったから。
「ねぇ、留衣?」
俺の名前を呼んだ母さんは、俺の手を両手優しく包み込む。
母さんの温もりは……とても暖かかった。
「こころちゃんは今、きっと苦しんでる。それを救ってあげられるのは、きっと留衣しかいないんだよ」
「俺……しか」
「そう。だから退院したら、真っ先にこころちゃんを救ってあげて。もしかしたらこころちゃん、自分の罪の意識に押し潰されて……死んじゃうかもしれない」
「っ――」
胸が、潰れそうになる。
こころが死ぬ、そう考えただけで、想像も出来ない悲しみに包まれそうになる。
それを避けるには、俺がこころを救うほかない。
今の俺にこころを救うだけの力があるのかは分からないが……それでも、俺はこころを救いたい。
だから……。
「母さん。俺、頑張るよ。絶対に、こころを救ってみせる。こころと一緒に幸せになりたいから」
俺の決意の言葉に、母さんは。
「……うん」
頷いて、涙を零すのだった。
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