48話 こころの異変

 ――視界が、ゆっくりと開けていく。

 まず見えたのは、薄暗い、白い天井。

 それ以上は……分からない。


 ぼやけて、よく見えない。

 だけど、ここが自分の部屋ではないということは、何となく分かった。


「……る、い……?」


 誰かの、声がする。

 その声の主を視界に映そうと頭を傾けると、そこには……こころがいた。


「留衣……留衣……!」


 ぼやけて、よく見えない……だけど、そこにいるのは、間違いなく彼女だった。

 声を震わせて、必死に俺の名前を呼んでいる。


「私、分かる!? こころだよ!」

「……こ、ころ」


 意識が朦朧とする中、俺も必死になって彼女の名前を呼ぶ。

 だが俺の口から出てくるのは掠れた言葉だけで、自分でも何を話しているのかよく分からなかった。

 しかし俺の声が彼女に届いたのか、彼女は「うん……うん……!」と俺の手を握って頷いた。


「留衣……!」


 こころは握った手に額を当てながら、うずくまって嗚咽おえつを零す。


 こころが、泣いている。

 なら、俺が慰めないと。


 ぼやけている彼女に、俺は動かない表情筋で何とか笑顔をつくり話しかけた。


「だい、じょうぶ……だよ。おれは……いきてる」

「うん……!」

「こころの……せい、じゃない……」

「っ――」


 あぁ、駄目だ。

 こころが、見えなくなっていく。

 薄れゆく意識の中、俺は最後に一番伝えたいことを、最後の力を振り絞って言葉に紡いだ。


「ここ、ろ……すき……」


 視界が黒く染まり、意識が消える。


 俺は、生きていた。

 こころも、生きていた。

 それだけで、よかった。


 だけど、俺が次に目を覚ましたときから、彼女が俺の病室に来ることはなかった。



         ◆



 窓から入ってくる肌寒い風を感じながら、俺は病室のベッドで小説を開く。


 トラックにねられたあと、俺はすぐに救急車で病院へ運ばれたらしい。

 それから数日のあいだ目を覚まさなかったようだ。


 期末テストが控えていたというのに、こころは俺が目を覚ますまで、毎日この病室に通ってくれていたのだと母さんが言っていた。

 俺の見舞いに来たときに鉢合わせることも多かったようで、如何にこころが時間を割いて俺の目覚めを待っていてくれたかが分かる。


 約一ヶ月も入院してしまっていたが、それも残り三日だ。

 あと三日もすれば、俺は退院することができる。

 そうしたら、まずはこころに会いに行こう。

 彼女はきっと、また自分の罪の意識を再燃させているはずだ。

 一人にしていたら、何を仕出かすか分からない。

 あれから彼女の姿を見ないから、不安はより一層強く俺の心を苛んでいた。

 だから早く退院して、彼女に会いに行かなければ。


 小説を開いてぼーっと物思いに耽ていると、ふと病室のドアが開く。

 そこから、夕陽が顔を覗かせた。


「夕陽?」

「留衣君……!」


 俺の顔を見て感嘆の声を漏らして夕陽は、ドアを開けて俺に駆け寄ってきた。


「どうして、夕陽がここに?」

「どうしてって、お見舞いに来たんですよ! 留衣君が交通事故にあったって聞いたから、私……わたし……」


 そうして夕陽はポロポロと涙を零し始める。


「ごめん、心配かけたな」

「本当ですよ……。私が、どれだけ心配したと思ってるんですか……」

「……ごめん」


 声も絶え絶えに訴えてくる夕陽の姿に、夕陽の言葉に、俺は謝ることしかできない。

 泣いている彼女を見ることすら憚られて口を噤んでいると、夕陽は「でも……」と口を開いて笑顔を見せた。


「生きていてくれて、よかったです」

「……あぁ」


 こころの胸の内を知る前まで、俺は自分に価値がないと思っていた。

 勉強もできない、運動能力も低い、他人を思いやることもできない。

 そんな俺に、生きている価値はあるのかと。


 でも今、夕陽は俺のために泣いてくれている。

 何もない俺を好きでいてくれる人がいる。


 たとえこころのためでなくても、それだけで俺に生きている価値はあるのかもしれない。


「怪我の具合はどうなんですか? いつ退院できるんですか?」

「治りも順調、退院も三日後だ。まぁ、しばらくは松葉杖だろうけどな」

「そうなんですか。……すみません。もう少し早くお見舞いに来たかったんですけど、期末テストで忙しくて」

「それはしょうがないよ。来てくれただけでも嬉しい」

「私も来られてよかったです」


 こうして夕陽と話している間も、こころのことが気になる。

 いや、夕陽が来たから気になり出したのだろう。


 学校で、こころはどうしているのだろうか。

 知られる可能性は薄くとも聞かないよりはましだと思い、俺は夕陽に聞いてみることにした。


「なぁ、夕陽」

「何ですか?」

「知っていたら教えてほしい。学校で、こころはどうしてるんだ?」

「こころさん、ですか。期末テストでは名前を聞きましたよ。また学年で一位を取ったって。だけど……」


 そこで夕陽は急に表情を曇らせる。

 その顔を見て、俺は異変を確信した。


「最近、学校に来ていないみたいなんです。一週間前までテスト期間だったので、来なくなったのは本当に最近らしいんですけど……」


 まず、こころの知名度が高くてよかった。

 こころが有名でなければ、こんな情報を知ることすらなかっただろう。


 今すぐこころの傍に行きたいが、生憎とそういう状況でもない。

 だから、夕陽に頼むしかなかった。


「夕陽」

「何ですか?」


 俺は夕陽の目を見つめて、口を開く。


「無理を承知で頼む。もしこころが学校に来たら気にしてやってくれ。夕陽にしか頼めないんだ」


 酷なことを言っていると、自分でも思う。

 言わば恋のライバルのことを気にしてやらないといけないのだ。

 俺なら、きっと断るだろう。


 でも……。


「……分かりました。こころさんのことは、私に任せてください」


 今俺は、微笑む夕陽の俺に対する想いと、夕陽の誠実さに甘えることしか出来なかった。

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