5話 抱き着く

「――で、今日は本当に勉強するんだよな?」

「なんだその言い草は。勉強しなければ、わざわざお前の部屋に来てない」


 開いた口が塞がらないとはこのことだろうか。

 この前起こした出来事をまるで忘れたようなこころの言い草に思わず呆れてしまう。


「……前科持ちのお前が何を言ってるんだ?」

「前科ってなんだ? 私は何もしてないぞ」

「……もういい」


 諦めた俺は鞄を漁って勉強道具を取り出す。


 本当に忘れてしまったのか、それとも白を切っているのか、はたまたあれを前科だと思っていないのか。

 恥ずかしそうに眉をひそめて以来全く動かないこころの表情からは、その心を見透かそうとも見透かせなかった。


「感謝しろよ。私は別に勉強しなくてもいいが、今日はお前のために勉強をしようと持ちかけたんだ」

「余計なお世話だ。俺は別に頼んでないし、それならそうと前もって言ってくれ」


 今日いきなり「これから留衣の部屋で一緒に勉強しよう」とか言われたものだから、一時は断ろうかと思ったくらいだ。

 俺の部屋はホテルでも何でもないので、いつでも片付いているわけではない。

 自分が過ごすのに困らないくらいには毎回散らかっているが、こころが来るとなれば流石にそのままで迎えるわけにはいかなかった。


「わ、私はただ、留衣のためを思って……」

「だからそれは――」


 こころに視線を向けた俺は、ただ言いかけるだけでその後を続けることは出来なかった。


 こころの表情は、やっぱり変わらない。

 だがその瞳はどこか虚ろで、悲しそうに揺れている。

 本当に、最近のこころはどうしてしまったのだろうか。

 俺の言葉を受けて口を閉ざしている彼女は、俺の知っている彼女ではないような気がした。


「……分かったから、もうそんな顔するな」

「…………」

「悪かったよ。お前の気持ちを無下にするような発言をして」


 少し、彼女に冷たすぎたかもしれないな。

 今まで二人きりでいられない場所では彼女から離れるために冷たい言葉をかけるよう意識していたが、俺の部屋ではそれを気にする必要もない。

 字面だけ見れば彼女にも非があるようにも見えるが、それは単純に彼女が不器用だからだろう。


 ずっとこころと時間を共にしてきた俺だから言える。

 彼女は、ちゃんと俺のことを考えてくれていた。

 ただそれを素直に言えないだけなんだ。


 彼女には俺しかいない。

 だから、俺が彼女のことを分かってあげないといけない。

 彼女の理解者は、俺しかいないから。


「……えーい」

「うわっ!?」


 思考を巡らせていると、彼女は相も変わらずの棒読みでいきなり俺の胸に飛び込んできた。


「ちょっ、こころ!?」


 そうなれば当然、平常心ではいられなくなる俺だ。


 こころは周りと比べると少し背は小さめだが、それを抜いてもスタイルがいい。

 出ているところはしっかりと出ているが嫌味ったらしくなく、万人受けしそうな体つきをしている。

 それが俺の体にくっついてむにゅっと形を変えるのだから、もうどうしていいのか分からなかった。


「……私は」


 小さくつぶやくように放たれた彼女の声に、俺は幾分か落ち着きを取り戻す。


「私は、傷ついた。だからこれくらいのことをしないと、その傷は癒えない」

「だ、だからっていきなり抱き着くなんて……」

「抱き合うのなんか、幼い頃には日常茶飯事だっただろ」

「だからそれは幼い頃だからであって……!」


 彼女は何を考えているのだろう。

 傷ついていたことは察していたが、抱き着かないといけないほど深い傷だったのだろうか。

 理解してあげたいが、それが出来る彼女の顔は生憎と俺の視界に入っていない。


 ただ僅かに視界が入っている耳がほんのり赤くなっていることと抱き着いてきた彼女の行動から察するに、きっと勇気を振り絞って来てくれたのだろう。


「いいから、ちゃんと受け止めろ」


 極めつけにそう言われてしまっては、俺も受け入れざるを得なかった。

 彼女の背中に腕を回して引き寄せる。


「……勉強は? そのために俺の部屋に来たんだろ?」

「べ、勉強は後からでも出来る。今は……こうしてたい」

「はいはい」


 いつもの調子に戻ってくれた安堵と、甘えてくるこころが可愛すぎて頬が緩んでしまった。

 何分かおきに「もう離れてくれないか?」と提案するが「まだ」と却下される。

 そうして離れるどころか抱き締める力を強めるこころのせいで、今日も勉強は出来なかった。


 本当、テストは大丈夫だろうか……。



         ◆


 私は、誰にも興味がない。

 強いて言えば、留衣にしか興味がない。

 だから、私には留衣しかいない。

 だが、それが悪いことだとも思わない。


 留衣だけなのだ。

 こんなにも変わってしまった私に、何の下心もなく寄り添ってくれるのは。

 そして留衣のような人がこれから現れることは一生ないと言い切っていいだろう。


 だって、留衣は幼馴染だから。

 私の傷ついた心を癒してくれるのは、私の過去を側で知った彼しかいないから。


 彼以外と慣れ親しもうとは思わない。

 思えない。

 だから私は、必要以上に彼を欲す。

 彼を求める。


 この世界でたった一人信じられる彼を……好きにならないはずがなかった。


 好きだって言いたい。

 好きだって伝えたい。


 でも言えないから、私はそれを行動で示すんだ。

 いつか彼に、私の想いが届くことを信じて――。

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