其之伍 始まり【戰國篇・第五段】
「己宗全め!……」
政長は書状をぐしゃっと右手で潰して蛇腹折にしてもなお怒りが収まらないと見えて、馬上にて、かつて書状であった物を握りしめている右拳で仕切りに右の大腿を叩きつけている。それを横で見ていた勝元は、申し訳なさそうに切り出した。
「政長殿……。こうなってしまっては仕方が無い。私は兵を引くとする。これ以上協力は出来ん。」
「はぁっ⁉︎だがしかし、これは山名が仕掛けた事じゃっ!」
「だがしかし、公方様が下した命じゃ。逆らう訳にはいかんぞ。もし逆らえばその時は……。」
勝元は黙って俯いてしまった。それに釣られて政長も明後日の方向を見て何もものが言えなくなった。目元が僅かに光っている。
「……兎にも角にもじゃ。お主もすぐに兵を退くが良いぞ。皆の衆!御所巻きは止めじゃあ‼︎退却じゃ‼︎」
勝元に促され、細川勢二万五千は退却を始めた。これで政長の手勢は二万となった。
「誠無念じゃ……。さらば御免致す。はぁっ!」
勝元が連銭葦毛の馬の手綱をぺしんとやると馬は高く短く嘶き、きっと頭をもときた方へと返し、渋々ゆっくりと走り出した。政長は暫く連銭葦毛の青い尻尾が揺れながら遠ざかるのをぼんやりと見つめていた。が、勝元達が点になってしまった頃にやっと我に帰り小さく舌打ちをすると
「是非も無し……ああ口惜しや!……やむを得まい‼︎退却じゃ‼︎」
と、もうすっかり進軍が止まりきっていた二万の手勢に叫んだ。足軽達は「退却」の文言を待っていたかの様に生き生きとした目に戻り、きた道を喜び勇んで戻りだした。戦には金がかかる。それは退却の時も同じである。足軽達は元々田畑を耕す農民であるか土豪である。大体が金に困っていた。足軽は日雇いだが、給金が割と高い。名のある敵(特に兜首)を討ち取ればそれに更に、首の身分に応じて値が足される。場合によっては家来としての登用も夢では無い。が、今回は戦をせず、命を危険に晒すことなく金が貰えるのだから当然足軽達は喜ぶのである。それを見た政長は少し怒りの様な、失望の様な、悲しみの様な複雑な思いになった。
「(己宗全め……。覚えておけよ。)」
政長も泣く泣く馬を返し、細川邸に“敗走“を始めた。それを恐る恐る覗き見ていた京の民達はほっと胸を撫で下ろした。
御所巻き未遂事件から数時後。勝元邸では政長が唐櫃に腰掛け、依然として激昂していた。
「糞!これではわしが細川殿のご助力を失っただけではないか!……己宗全め……義政め許すまじ‼︎」
政長はまたしても右拳を右の大腿に叩きつけた。大鎧の草摺がぐゎしゃと音をたてた。彼はまだ大鎧を着て、太刀と脇差二本を差し、頰当てまでもしていた。この姿は「わしの戦いはまだ終わっていない」という意志を表しているかの様に見える。事実そうであった。
「家督も管領も屋敷も土地も奪われて今は細川殿の居館に匿ってもらい何とか生きながらえている身……。こうなったのも全て優柔不断の身勝手なあの暗君めのせいじゃ……。……もう良い!屋敷を義就めに渡してしまうくらいなら焼き払ってくれるわっ‼︎」
政長は今までに無いくらいの大きな怒号を飛ばした。そして大鎧を入れる唐櫃から立ち上がると大きな声で叫んだ。
「皆の衆!起きているか⁉︎これより畠山邸へ向かう!松明、火矢を持って参れ!」
今まで出陣を控え、寝てはならないと睡魔と戦っていた将兵達は、政長の一声で睡魔を撃退した。そしてバネの様に立ち上がり、屋敷中を走り、出発の支度をした。政長は一度退却したものの、まだ鎧を脱がず、兵士達を帰さなかった。それは、畠山義就の物になった畠山邸を夜討ちに行くためであった。更に彼には別の思惑もあった。政長は座りっぱなし、俯きっぱなしで緩んでしまった兜の緒を力一杯、キュッと音がするくらいに締めた。そして蝋燭の小さな炎がちらちらと震える薄暗い部屋をそのままゆっくりと歩いて行き、昼間に出陣式を行った縁側へ続く障子と雨戸をがらっと力任せに開け放った。そこには昼間と同じ光景があった。違うのは、空が暗く、篝火が燃え盛っているという事だけである。
「これより、畠山邸に夜討ちを仕掛け、焼き討ちにする!義就の手に渡るくらいなら灰にしてしまった方がマシじゃ!そしてその後は義就との戦になるやもしれん。……そして!その勢いのまま……!」
政長は眼を僅かに大きくした。
「花の御所をも焼き討ちにし、わしが新しき公方様となる!……あの愚君には退いて貰わねばなるまい!」
将兵達は顔を見合わせた。政長の顔が冷ややかで恐ろしいものになった。
「お言葉ですが、これは謀叛を起こすということでよろしいでしょうか?」
政長の配下の一人、遊佐長直が不安そうに尋ねた。政長は冷酷な表情のまま言った。
「その通りじゃ。よいか!我らは義就の屋敷を焼き払い、義就、宗全を討ち取り、足利義政も討ち取るか追放する!……これよりわしは新しい御天下様と成る!下々の者に至るまで、皆狼狽えず、勇敢に、喜び勇んで戦うべし!良いかっ⁉︎」
何故かは分からないが、将兵達は勇気付いたと見えて、おおと鬨の声を上げた。「出陣致す!」と政長が叫ぶと、またしても鬨の声が上がった。将兵達は、その意気のまま、細川邸の門を飛び出ていった。これが、後に伝わる「応仁の乱」、そして百年の戦の世、戦国時代の始まりである。
——そんなことなどこの時の政長は思う筈もなかった。
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