其之弐 畠山の内乱史【戰國篇・第二段】

 堀川には今二つの軍勢がいる。だが少しばかりその様子は異様であった。両軍は敵対しているのは火を見るより明らかである。だがしかし、どちらにも畠山家の旗印、足利二引が後方で静かに踊っているのだ。この風景で異様なのは今まさに同族同士での戦が始まろうとしているところである。確かに前線で対峙しているのは山名派の山名政豊、朝倉孝景、細川派の遊佐長直、神保長誠であるが、両軍の大将は畠山であった。

 「公方様の跡継ぎ争いをきっかけにあの細川があの山名と対立している」そう聞いた守護や守護代はどちらに付くべきか大いに迷った。細川勝元は偉いが公方様に盾を突いている者、山名持豊は身勝手だが公方様の味方で勝元程ではないが偉い者。どちらを選んでも、どちらが勝ってもおおよそ変わりはないのである。そもそも将軍の力などもう昔程ではないのであるから、幕府は実質三管四職の政権と成り果てていた。どちらでも変わらないのだから容易に意見が割れた。そして中にはこれを利用し各家の御家騒動を解決しようと考えるものが現れた。多くの場合、嫡男しか家を継ぐことができない。次男であろうが六男であろうが同じ“生まれながらの敗北者”となる他ないのである。そんな時に大きな勢力争いが起きた。双方は互いに味方を欲している。ならば、この機に乗じ、兄とは違う方に味方して兄と戦い、あわよくば討ち取って自らが新たな当主と成り代わろうと思う者が数多く出てきた。そのうちの一つがこの畠山家である。

 今を遡る事十三年前の享徳三年、既に跡継ぎ争いが畠山家では起きていた。畠山持国には多くの側室がおり、多くの庶子が居た。その中の一人に、畠山次郎という者がいた。一番目に生まれた次郎であったが、どこの馬の骨とも知れぬ女の子供は嫡子とはされず、石清水八幡宮の社僧になると取り決められた。そのはずであったが、十二歳の時に持国に召し出されたことから、元々後継ぎと決まっていた叔父の持富とその子弥三郎・政長兄弟らとの家督争いが勃発することになる。時の将軍足利義政はこれを知り、文安五年十一月、持富への相続を撤回させ、庶子の畠山次郎を後継ぎとするようにと判決を下した。元服して義成の偏諱、「義」の字を受けて畠山義夏と名乗った。翌文安六年に父に代わって椀飯の役目を務め、宝徳三年に伊予守に叙任されるなど持国の後継者であることを示した。ところが義夏への相続は守護代の神保氏など被官らの理解を得られず、持富の子である弥三郎を旗頭とした反抗勢力が享徳三年までに形成されていた。

 享徳三年四月に持国が弥三郎を擁立しようとした家臣達を追放するが、弥三郎を細川勝元・山名持豊や大和国の国人である筒井家までもが支持。八月に弥三郎派に襲撃され、形勢不利となった義夏は京から伊賀国へ逃れ、入れ替わりに義政から赦免された弥三郎が九月に再び上洛を果たした。しかし、義政の怒りを買った持豊は十二月に隠居し名を山名宗全と改めて、領国播磨国で挙兵した赤松則尚を討つため下向したが、間も無く義夏が伊賀国を出て大和を経由し、河内国から上洛して弥三郎を再び追い落とした。翌享徳四年二月に畠山義就と改名して右衛門佐に叙任、三月の持国の死去により遂に悲願であった家督の継承を果たした。

享徳四年二月、義政は大和国の弥三郎に協力しないことを伝え、義就も分家の能登国守護畠山義忠と幕府奉公衆と共に河内・大和に転戦、大和国人越智家栄を味方として弥三郎支持の大和国人の成身院光宣・筒井順永・箸尾宗信らを追い落として宇智郡を領有した。

 ところが、康正三年七月に大和の争乱が起こった際、義就は義政の上意と偽って家臣を派遣したが、これが義政の怒りに触れて所領を没収された。義就派の大和国人の所領横領も問題にされ、義政から国人への治罰の命令が伝えられ、義政へ撤回を求めても聞き入れられなかった。同時に九月には勝元の所領である山城国木津にも上意の詐称で攻撃し、次第に義政の信頼を失っていった。翌長禄二年九月に宗全と共に石清水八幡宮の八幡神人討伐に赴いた。

 長禄三年六月、弥三郎派の成身院光宣・筒井順永らが勝元の軍勢に守られ大和へ帰国、越智家栄と交戦したため、義就は援軍を派遣したが、光宣の訴えで細川軍の大和派遣が決まり、合わせて七月には弥三郎が赦免となったため義就派は不利となり、越智家栄は敗れて没落、光宣らは勢力を回復した。弥三郎は間もなく死去したが、弟の政長が弥三郎派から新たに擁立され、義就との対立が継続された。

長禄四年五月、分国の紀伊国で根来寺と畠山軍が合戦を起こし、畠山軍が大敗した。義就は報復のため京都から紀伊へ援軍を派遣したが、九月に幕府から政長に家督を譲るよう命じられ、河内へ没落、劣勢の為に政長に家督を奪われた上、綸旨による討伐対象に定められたことにより朝敵に貶められた。十月に大和国龍田で政長・光宣らに敗れたのち十二月に嶽山城に籠城し、討伐に下ってきた政長、光宣、細川軍、大和国人衆らの兵と二年以上も戦った。寛正4年四月に成身院光宣の計略により嶽山城は陥落し、義就は紀伊、のち吉野へ逃れた。翌寛正五年、畠山氏の家督相続を公認された政長は、勝元から管領職を譲られた。一方、吉野に逼塞していた義就だったが、寛正四年十一月に義政により赦免された。八月に義政生母の日野重子が死去したことに伴い大赦が行われ、翌月に斯波義敏や日親らと共に赦免されたのである。義就は細川勝元と対抗する山名宗全・斯波義廉の支持を得て、寛正六年八月、遂に挙兵。文正元年八月に大和から河内に向かい諸城を落とした。大和では義就派の越智家栄・古市胤栄も挙兵して政長派の成身院光宣らと戦い、十一月に十市遠清の仲介で両者は和睦した。

勢い付いた義就は十二月に河内から上洛。義政との拝謁も果たし、政長に畠山邸の明け渡しを要求し、管領職を辞任させた。

 そして今日、文正二年(応仁元年)一月を迎えたのである。今、その畠山義就と畠山政長が将軍家の後継ぎ争いに乗じ、今までの抗争の決着をつけようとしていた。

 堀川西岸にある、かつて都を震わせた崇徳院を祀る上御霊神社境内の森に、失脚した管領の畠山政長が布陣し、そこに畠山義就が攻め寄せて来た。その数三万。迎え撃つ政長は二万であった。堀川は張り詰めた空気で覆われていた。

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