其之壱 戦の兆し【戰國篇・第一段】
応仁元年。そんな京の一角で事は起きた。
ここは左京一条にある一本の川。名を堀川と言う。遷都時に造営されたものの一つで、用水路である。川幅が二間あるかないかぐらいの浅い小さな用水路である。この用水路の両側には数え切れ無い程の男達が居た。皆揃って甲冑を着込み、各々の手には槍、白刃、梓弓がしっかりと握り締められていた。このか細い川を挟んで東側にも同じような集団が居た。両者は向かい合い、開戦を今か今かと待ち、武者震いしている。空はまだ暗い。東側で、五七桐紋と丸に竪二引の紋、六つ木瓜紋があちらこちらで風に揉まれて揺れているのが布の後ろから照らす僅かな陽光により浮かび上がる。西側でも東側のとは違う、丸に二引の紋や五七桐七葉根笹紋、東側のものと同じ五七桐があしらわれた旗がはためくのが正面からの僅かな陽光に照らされて見える。丸に二引は室町幕府に貢献し、将軍に気に入られたものでないと貰えない紋所である。元は将軍家の足利家の紋の丸の中の線の白黒を反転して与えたのもので、丸に二引とは由緒正しい紋所である。其のことから付き従う足軽や家臣、そしてこの今の状態を見たり聞いたりした民衆達はこの、今まさに始まろうとしている戦が大きなものになるということが安易に理解できた。
何故こうなったのか。それは幕府内の事情が深く関わる。
今、京の室町には室町幕府がある。その長である将軍には幕府開設よりずっと足利という家が務めてきた。その室町幕府の今の将軍である、八代将軍、足利義政と言う人物が居る。彼はこの政を苦に思った為に、出家して慈照院となり、京の東山に慈照寺を建て、そこに隠遁してしまう予定であった。義政は初め、弟の足利義視を後継ぎにすると決めていた。しかし、義政に息子の義尚が生まれると、義政の妻であり義尚の母である富子が主導となり、義視を候補から外し、義尚を後継ぎとしようとしたのである。将軍を継ぐのは自分だと信じ続けていた義視は失望した。激昂すらした。そう決まりかけた時、義視はある行動へと出た。それは幕臣達に自分を擁護するように根回しをすることであった。それに賛同したのが管領の細川勝元であった。こう書くと義視はあてもなくがむしゃらに不特定多数に援助を要請したように誤解されるかも知れないが、義視が勝元ににじり寄ったのにはしっかりと勝算があったからである。幕府には将軍に次ぐ最高の役職である管領というものがあった。将軍を補佐して幕政を統轄したり、幕臣の筆頭として、元服や就任、任官といった足利将軍家における重要な儀式に参列して行事を執り行った。 そんな管領には代々、畠山家、斯波家、細川家の三家が不規則に代わる代わる就いてきた。そんな管領に丁度今ついていたのが細川勝元という男である。彼には許し難い人物が居た。室町幕府の軍事召集・指揮と京都市中の警察・徴税等を司る侍所の長官に交代で任じられた四家の守護大名「四職」の山名持豊である。四職は、赤松家、一色家、京極家、山名家の四家が管領と同じように代わる代わる就いた役職であるが、管領の一つ下の位である。にも関わらず、侍所の頭人になったというだけで花の御所を我が物顔で威張り散らしながら歩き、勝手な振る舞いが目立った。近頃では富子に接近しており、「幕府の方針を操ろうとしている」と勝元には見えたのである。勝元はそれが許せなかったのだ。今回の件でも、持豊は自分が実権の一部でも握ろうとし、次の将軍にまだ九つにもならない幼い義尚を推薦した。そして富子に飲ませてしまったのである。それは義視も激昂する訳である。同じく勝元を始めとする幕臣も不満であった。そしてそちらの方が数が多かったのである。義視の「勝算」とはそれであった。持豊よりも偉い勝元を後ろ盾にすれば弱く声の上げられない反対派の者や、負けを恐れた者が多く集まると考えたのである。一方この動きを察知した持豊は富子に「勝元は義尚政権の転覆を図り、自分の言うことを聞く将軍を立てようとする謀叛人である」と報告し、間接的に義尚に叔父との戦いを決意させた。この幕府を揺るがす対立に乗り遅れまいと他の武士や大名がそれぞれの勢力に味方した。これで義視と義尚、それぞれに有力な大名が味方し、対峙するという構図が成り立ったのである。戦いの時は刻一刻と迫ってきていた。
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