月愛でる候(2)

 どうにも不名誉なあだ名を命名して、そしてマンガを二冊読んだ重田は帰って行った。先生も帰ったらしく、階下では母さんが食器を洗う音がしている。僕と重田のコップも返さないと。

「あら、持ってきてくれたの」

「ああ、うん」

 ありがとうね、とかいいながら母さんがコップを受け取る。水の音。立ち去ればいいんだろうけれど、なんとなく、ここから動けない。

「先生なんだっていってた?」

「いつも通りかしらー。今度の行事のこととか、模試のこととか、あとは、そう、出席日数の話ね」

「そう」

 さすがの母さんにも言い辛いことがあるらしく、珍しくもざらついた言葉になった。つまり、本当にそろそろ単位が危ういんだろう。僕の人生とはいえ、現時点までの、そして今後しばらくの出資者は親だ。だから、僕一人の人生というわけにもいかないとも思う。

「母さんたちはさ、僕がこうして家にいること、どう思ってる?」

 僕は臆病だ。他人を慮るふりをして責任を負わせようとしている。親に養育されているからなんて、ただの言い訳だろう。

「そうね。……本当は、学校に行ってほしい」

「うん」

「それは、その方が賢太のためになるって思うのもあるし、みんな行ってるんだからってのもあるわ」

「うん」

 きっと母さんの言葉に嘘はない。外聞が悪いだとかそういうのも含め、学校に行ってほしい。それが母さんの本音だろう。勿論、それは僕の将来のためだとか、そういった親心も含まれている。

 それじゃあ、母さんは僕が外でも喋れたらいいのにって思う?

 喉元まで込み上げた問いは、口までは出てこない。僕が教えてほしいくらいに、話せない理由が見つからない。喜劇的な過去も悲劇的な過去も、外で話すことができない理由足り得ない。原因があるのならば、僕が一番知りたがっている。

 母さんの言葉を聞いて、それでも僕は決断できない。曖昧にお礼をいって、また部屋へこもった。カーテンを閉めた彩度が落ちた部屋。薄墨を流した世界で、明るくなるはずもない思考をまた始める。ぐるり。閉じたまぶたの裏で、眼球が回る。血が体を巡る音。黒い世界が明滅する。

 ねえ、僕はどうしたらいいんだろうね。

 誰に問うているのかすらわからないのに、僕はまた、誰かに頼っている。もう、何が嫌なのかすら、わからない。やりたいことはすぐそこにあるのに。嫌だなあ。なんだか、全部嫌になってきた。暗い気持ちに引っ張られるように、意識も真っ黒に溶けた。夢の中でもなんでもいいから、きっかけを掴めたらいいのに。

 中途半端な時間に目が覚めたからか、変な感じがする。眠いような眠くないような、三ミリくらい浮いた気分。ふわふわとさまよいそうな体を沈んだ気分が繋ぎとめる。胃の底で鈍く存在を主張する鉛。黒い箱は、変わらず机で黙り込んでいる。

 声になる前の音を漏らしながら、箱を何度も見やる。当然黙ったままなのだけれど。でも、だとかなんとか考えているうちに、怠惰な短針も三十度移動し、勤勉な長針は二周目の散歩をはじめてしまった。ああ、いい加減にしないと。のろのろと机の前に移動し電源ボタンを押した。受信フォルダの一番上には、コトからのメッセージが表示されている。とりあえず、何か返さないと。

《僕の問題だし気にしないで》

 短文。これでよかったのかと考えているうちに、新着メッセージの表示が着く。

《それはそうかもしれないけど》

 僕に合わせたのかなんなのか、やっぱり短いメッセージが届く。そりゃあそうか。短い言葉に長い言葉なんて返せない。

《多分大丈夫だよ》

《軽くない?》

《まあ、そんな考えてどうにかなることでもないし》

《そりゃそうだけど! そりゃそうだけど!》

《あんまり深刻に考えるようなことじゃないさ》

《ええー、そういうもの?》

 からからと回し車のように会話が続く。ふ、と息が漏れる。自転車の練習と同じだ。始めるまではあんなに怖がっていたのに、一度ペダルに足を乗せてしまえば、どこまでも進んでいける。堰き止められた水が溢れるように言葉が氾濫する。気付いている。気付かないふりではなくて、気付いていて、それでも触れない。曖昧なままの距離。

《コトは、今でも僕と話したい?》

 ぬるま湯は優しいけれど、いつかは風邪をひいてしまう。そろそろ出ないといけないから。できることなら、余命を告げるその一言は、君からのものであってほしい。膝をつき頭を垂れるように、首筋を晒す。

《声を聞きたいのかどうかはわからないかな。でも、話したいよ》

「そっか」

 待っていてくれている。期待してくれている。

じゃあ、もういいかな。なんだか疲れちゃったし。

《まあそのうちに》

《またそれか! 知ってるけど、知ってたけど!》

 曖昧な言葉で煙に巻いて、このまま消えてしまえたらいいのに。指先から砂になっていく夢を見て目を閉じる。明日の僕は、きっと今日の僕よりはうまくやっていけるだろう。だから、あとは頼んだからね。


 いつか、コトとこんな話をした。

『一番ゆううつな曜日って何曜日?』

 そのとき僕はどう答えたのだったか。月曜日とか、そんな普通の答えだった気がする。週の始まりだとか、学校があるからとか、そんなどこにでもあるような理由。

 あのとき、コトはなんて答えたんだったっけ。……あのとき、たしか。


 瞼越しに光を感じる。水曜日がやってきた。週の真ん中の、憂鬱な日。もう、ではなく、まだ、と感じる自分が苦しい曜日。目を開けて、壁を見遣る。うっすら埃でコーティングされ始めた制服。そろそろ冬服に替える時期。ネクタイはどこにしまったんだっけ。一度ぎゅっと目を閉じて、布団をはね除けた。

「おはよう」

 なんでもないような振りで、いつも通りを装って、それでも視線を逸らしながらテーブルに着く。大丈夫。きっとなんとかできる。

「おはよう。お昼どうする? お弁当でいいなら用意してあるけど」

「……知ってたの?」

 制服をぎこちなく着た僕を一目見て、いつものお弁当包みが差し出される。僕が今日学校に行くだなんて、昨日の段階では決めてすらいなかったのに。きっと行こうとは思っていたけれど、口にはしていなかったはず。

「そんなの聞いてもいないのにわかるはずないじゃない」

「じゃあ、どうしてお弁当」

「毎日作ってたからに決まってるでしょう?」

 そうだったのか。でも、今までお弁当なんて見なかったけれど、どうしてたんだろうか。

「ちなみに今までのお弁当は、お父さんのお昼ご飯になってたから心配しなくてもいいわよ」

 それで、最近父さんがやたら冷凍食品に詳しくなっていたのか。お弁当用のグラタンって、たしかに不思議な魅力があると僕も思うよ。僕はスパゲティのほうが好きだけど。

「食べてきてもいいし残してきてもいいし、その前に帰ってきてもいいわ。ただ、どんな感じだったかだけ教えて」

「うん」

 朝ご飯を食べて、お弁当を鞄に入れて、そして玄関へ。久しぶりに足を通すスニーカーは、心なしかきつく感じる。素足でも、靴下越しでもない地面の感覚。足元のおぼつかなさに笑いそうになる。

「それじゃ、行ってきます」

 まさか、それきりここに帰ってこれないだなんて、思ってはいなかったけれど。



県内のニュースです。本日朝七時頃、N市で登校中の高校生が車に撥ねられました。容体は――

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