6 月愛でる候(1)
やってしまった。血が下がったのか、眼窩の下、頬骨の辺りが重い。耳の奥でごうごうと音が鳴る。風が吹き荒ぶ。心臓が血を押し出す音。僕は今日も生きている。
夜中に何かするべきではないということを、身を持って知ってしまった。このままだと気になって眠れないかもしれないだとか、夜中だし気付かれないだろうとか、そんな言い訳を幾重にも重ねたけれど、夜中の半分機能停止しているような頭で何かをするべきではない。
ああ、どうしてコトに返事をしてしまったんだろう。
窓の向こうから高い声が聞こえる頃、うつうつとした気分で爽やかな朝を迎える。日に日に起床時間が遅まっている。気を付けてはいても、毎日家にばかりいると、どうしても時間を意識しなくなってしまう。これでは学校に行ったときに困るじゃないか。そう考えて、笑えばいいのか苦しめばいいのかわからなくなる。
僕はまだ、この期に及んで学校に戻ろうとしているのだろうか。今更なことじゃないか。一日や二日の欠席なら、主役になれるかもしれない。でも、一ヵ月なら。今更戻ってこられたって、クラスメートだって困るに決まってる。気を遣われて、それで僕はどうすればいいっていうんだ。腫物みたいに扱われて、どうしたのって聞かれて、でも、でも、僕にはそれに答えることなんてできないのに。僕には語る術がないのに。気が付けば、膝はおろか腿までぬかるみにはまっている。片足を引き抜くことすらできなくて、泥にまとわりつかれ、そしてきっと少しずつ沈んでいっている。進むことも戻ることもできない。現状は、確実に悪い方へと流れている。考えるほど嫌になって、放棄して、それすら嫌になって、繋がれた犬のようにただただ決められた円の中を歩き回る。どこにも行けない。何も変わらない。ちっとも変われない。こそげ取るように下唇を噛み、眉間に力を入れた。
正直なところ、一時は止まっていたけれど毎日届くコトからのメールは、僕の唯一といっていいくらいの楽しみだった。僕はまだ覚えていてもらえている。僕はまだあのクラスに居場所がある。僕はまだ無価値じゃない。僕はまだ認められている。そんなことを確認するような楽しみ方。自分の醜さに反吐が出る。そう思っているなら、彼女に答えてあげればいいのに。それでも、彼女に失望されたくなくて、僕は自分を守って彼女を見捨てている。いつか、コトも僕を忘れるかもしれない。それならそれで良かった。きっとものすごく辛いんだろうけれど、それでも、そうなるべきだと思っていた。僕はそれを待たなくてはいけないんだとおもっていた。それなのに。
《それでも、私はさとう君にひどいことしたんじゃないかって思う》
うっかり返してしまったメールへの返信。それにこたえることが、応える言葉が、どうすればいいのかがわからない。そろそろ決断しなければならない秋が迫ってきている。
朝から母さんが掃除をしている。いつだってこまめに掃除しているわが家だけれど、ここ一ヵ月は、朝から掃除している姿を見たり聞いたりすることが増えた。
「賢太、今日はどうする?」
「……部屋にいるよ」
「そう、じゃ、気が向いたら来なさいね」
今日は職員会議もないらしく、家庭訪問がある。年間の行事予定にはない、緊急家庭訪問。不登校になってしまった生徒、つまり僕の様子を見に先生が来る、そういうイベント。月末に差し掛かって回数も増えてきた。そろそろ出席日数が危なかった気がする。
僕はどうしたいんだろう。母さんも父さんも、本心まではわからないけれど、学校へ行けとも辞めろともいわない。先生も、予想とは違って、いつになったら来るんだとかみんな待ってるとか、そういうことをいってこない。淡々と、事務的なことや規則を説明してくれる。今日もきっと、保健の出席日数がそろそろ足りなくなるとか、年間で不足すると留年だとか、そういう話をしに来るんだと思う。
辞めたいとは思わない。でも、学校に行けるのだろうか。復帰できたとしても、ちょっとしたアクシデントで進級できないかもしれない。もし留年したとして、後輩と同学年で授業を受けることに、僕は耐えられるのだろうか。今の僕に選べる選択肢は、来週の僕には残されていないのかもしれない。少なくとも二択。進むか進まないか。早く、決めなくてはいけない。決めてしまうだけのきっかけが欲しい。自分のことですら決められず、委ねてしまいたくなる。
「ちょっといい?」
背中で布団の柔らかさを感じながら天井の染みを数えていると、母さんがやって来た。先生はどうしたんだろう。
「陽君が今来てるの。お母さん先生とお話してるから、賢太の部屋に来てもらうからよろしくね」
「は?」
「お茶とかは適当に渡しとくから」
「いやいや」
「陽君好きなのって何だったかしらー」
「そうじゃなくってさ」
駄目だ。例にもれず、母さんも一定の年齢を越えた女性だから、こっちの話を聞かない。何で重田が。宿題を聞きに来たわけではないだろうし、どうして。
「よー佐藤、悪いな」
もう来た。心の準備をする猶予くらいくれ。使い古したお盆を抱えた重田がずけずけと入り込む。家に上がるのは久々のはずなのに、どうしてそんなに馴染んでいるんだろう。
「ん? ああ、俺は特に用事とかないけど、ちょっとな。ああ、うん、まあ座るくらい待てって。あ、お茶でいいよな? 俺はコーヒーもらったけど。最近母さんがノンカフェインブームらしくって、家からカフェインが駆逐されてさー」
相変わらずというか、なんというか。いわゆる幼馴染といわれる間柄になる重田は、僕が知る限り、一番のマイペース野郎だ。僕がしゃべらなくなっても気にせず話しかけてくる。返事がなくても気にならないのかと思えば、こっちが頷くとか意思表示をするまでじっと見つめている。前に空気みたいだといわれたけれど、こいつの方がよっぽど空気みたいだ。誰とも問題を起こさずにいられる。憎たらしいし、どうしようもなく羨ましい。妬ましい。
「でさー、ちょっと聞きたいことがあるんだけどさー」
勝手に机の上に置いてある本を捲りながらいう。なにが「でさー」なんだろう。というか、用事、あったのか。てっきりぐだぐだしに来たものとばかり思っていた。
重田にしては珍しく、言葉を探している。いつも探しているのは僕の方なのに。僕が今でも見つけられない言葉を、でも、こいつはあっさりと見つけられる。
「お前さ、佐藤と何かあった? あ、いや、何かあったのは知ってるけど、佐藤とどうしたい?」
急いでグラスを避難させる。喉と、胸と、鼻の奥が痛い。何で。どうして。
「おいおい、そんなわかりやすく動揺すんなって」
しないわけがないだろう。せめてもの抗議として、涙がにじむ目で睨む。
予想しなかった僕の方が悪かったかもしれない。こいつが変わろうとするコトに関わらないはずがなかった。コトがこいつにほだされないわけがなかった。だから、こいつが僕の家に来る理由なんて、それくらいしかないってわかりそうなものだった。でも、僕はどう答えたらいいんだろう。何があったのか、だったら、答えることができる。けれど、僕がどうしたいのかだなんて、僕にわかるのだろうか。いや、そもそも、僕はどうやってこいつに伝えるんだ。それに、コップの中に一滴落とされたインクのような感情が、僕の行動を縛る。僕はコトの声を聞いたこともないのに、どうしてこいつはこんなにも親しげに彼女のことを語れるんだ。僕の方が先にコトと関わっていたのに。そんな醜い思い上がり。でも、そんな、嫉妬だなんて、まさか。
「佐藤がさあ、なんかマーガリンになるっていってたんだけど、お前わかる?」
高校生にしては斬新な将来の夢だ。どうせこいつが何か聞き間違えでもしたんだろう。多分、トラのバターあたりだろうけれど。
「お前はパンになりたいっていってたとでもいえばいい?」
そこはせめてパンケーキじゃないのか。ちがう、蒸しパンがいいとか、そういうことじゃない。ああもう、話ができない。
『僕はパンにならないし、佐藤さんもマーガリンにならない』
「まあそうだろうな」
仕方がなく、本当に仕方がなくノートに言葉を綴る。それが一番なのだとは思うんだけれど、どうもこの方法はとりたくなかった。どうしてっていわれても答えられないけれど、お気に入りのペンを貸したくないだとか、そんな感じに似ている。筆談は、コトとのあのやり取りは、僕にとって特別な会話だったんだと、嫌でも理解してしまう。目を逸らすなとばかりに、現実が迫りくる。
『どうしたいっていわれても困る』
「それを聞いた俺が困る」
そんなポンポン返事をされるとこっちこそ困る。会話のテンポってものがあるんじゃないのか。
ラリー練習のはずなのに毎回スマッシュを決められているような気になりながら、なんとなく言葉をつなぐ。義務感に似た何かに押されながら、なんとか足を動かす。どこに向かっているのかもわからないまま。連行される囚人のように、暗がりで誰かに手をひかれるように、無様にも歩き続ける。
「とりあえず、学校来るかどうかだけ教えてくれない?」
『お前、遠慮ってものはないの?』
「お前だしよくない?」
良くはない。悪くもないけれど、少しくらい気を遣ってほしい。あまりにも扱いが雑過ぎる。
『高校はやめたくないけど』
けど、何なんだろう。けど、学校には行きたくない。けど、誰にも会いたくない。けど、怖い。けど、もう遅いんじゃないか。けど、けど、けど。どれもしっくりこない。
「いつって決めてなくっていいけど、来るつもりはあるんだ?」
『それはまあ うん』
「なんだ、じゃあ心配することないじゃん」
ALTだったら眉をしかめるような方法でコーヒーを飲み干し、重田は本棚の漫画を漁り始めた。本当に何をしに来たんだこいつ。
「要はお前、かまってちゃんだ」
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