少しずつ日暮れの時間が早くなりました(3)
やってしまったことを後悔する。反省する。考えるだけなら、今までだった何度もやってきた。けれど、それじゃあなんにもならない。いくら座り込んで頭を働かせても、根っこが生えて、今以上に動けなくなってしまうだけ。そう、だから私は行動しなくちゃいけない。だからといって、実際にそうできるとは限らないのだけれど。
重田君は私とさとう君のことをどう思ったのかわからないけれど、その後も話しかけてくれる。クラスのみんなも変わらないから、きっと、重田君以外は、私とさとう君のことを知らないんじゃないかと思う。それがいいことなのかどうはかわからない。色々なことがわからないまま。
さとう君は、喋らないらしい。幼馴染の重田君も話しているのを見たことがないくらいには。「まあ、俺の記憶にある限りではって話だけど。あいつあんなんだし、もしかしたら小っちぇー頃には喋ってたかもしれないけど、俺は見たことないよ」と、重田君。話せないのではなく、どちらかといえば話さない。体の事情ではなく、多分、心の事情。そんなさとう君に、私は、話したいだなんて我儘をいってしまった。
「じゃあー……金曜日だから十三番」
ぼうっとしていても、授業は進んでいく。名簿順だったら、私が当たるのも近いから、ちゃんとしなきゃ。
「あ、小林君休みか。じゃあ十四番の佐藤君、も、休み、なら十五番で佐藤さん」
「は、い」
「はい、教科書の続きのところ読んでください」
見た目のわりに、もしくは思っていたより高い声に名前を呼ばれる。教科書の続き、どこだろう。隣の重田君を見ても、斜め前の佑佳ちゃんを見ても、わからないみたい。どうしよう、ポンコツ二人組とうっかり一人を、はるかちゃんが前の方からにやにや見ている。
「え、っと、わからないです」
いらない見栄を張っても仕方がないから、わからないと伝える。怒られるだろうか。周りの誰もわからないことに呆れながら、教えてくれた。
「教科書九十ページ、三行目からね」
「はい。……『今から一年程前、自分が旅に出て』」
所々つかえながら、教科書の文字を追う。虎のお話。人が虎になる。お話の中とはいえ、よっぽどのことがなければ虎になんてならないだろう。その理由を語る。いっそ私も虎になってしまえばよかった。そうすれば、もう誰にも会わないで済む。そうすれば、理由をつくることが出来る。そうすれば、彼を傷付けないで済んだ。そうすれば、勝手に期待して、勝手に傷付くこともなかった。考えれば考えるほど、口が回らなくなる。舌がもつれる。喉が痛くなりそう。どうすればこの抱え込んだ思いを伝えられるのだろう。ああ、この胸を、喉を裂いて、赤い血潮をご覧にいれようか。
「ありがとう。うん、漢字も問題なく読めてる。じゃあ続きを十六番の重田君」
「はーい、『それ以来今までにどんな』……しょ?」
「『しょぎょう』、だよ」
「あ、そっか、さんきゅ。えーっと、『所行をし続けて来たか、それは』」
読み方を小声で伝えながら、虎のことを考える。虎になりたい。悩みといっしょにぐるぐる回って溶けてしまいたい。パンケーキになって胃酸で溶かされたい。あの人の糧になりたい。ううん、違う。私は虎に食べられた兎になりたい。消えてなくなりたい。罪悪感からも劣等感からも恥知らずな絶望からも逃げてしまいたい。
「さっきはありがとなー、佐藤」
「ううん、いつも重田君には助けてもらってるし」
「そう?」
「うん」
現代文が終わって、次は数学。昨日は宿題がなかったから大丈夫。教科書と、ノート、それから出したままのペンケース。
「そういえば、佐藤って教科書読むの上手いじゃん」
「そう、かな? 自分だとよくわからないや」
「いやー上手いって。少なくとも俺とはるかより上手い」
「呼んだー?」
「呼んでねー」
するりとやってきたはるかちゃんと重田君がじゃれている。同級生に失礼かもしれないけど、公園にいる小さい子どもみたいでかわいい。縁側にいるおばあちゃんになったような気分で二人を見ていると、斜め前の佑佳ちゃんと目が合った。二人して眉を下げる。
「佑佳ちゃんも読むの上手いよね?」
「うーん、上手いっていうか、漢字読めるかどうかじゃない? 重田もはるかも、漢字読めないし」
「ああ、それは」
「教科書通りに、つっかえたりしないで読んでるだけだからね。あ、でも」
ちょっと、ためらっているのだろう、佑佳ちゃんがちらっと上目遣いになる。悪気はないけれど、悪意はないけれど、傷付けてしまうかもしれない。そんな顔。上手に教科書が読めているかはわからないけれど、前より表情を読めるようにはなった、はず。
「ことちゃんは、読むのっていうか、話すのが上手になったよ」
「話すの」
「うん。前よりまとまって話せてるし、咳とかつまるのも減ったし」
そうなのだろうか。でも、きっとそうなのだろう。このくらいできなきゃ、普通に戻れないと思っていた。「できるようになった」じゃなくって、「まだこんなに」だと思っていた。きっとみんなには当たり前にできることだろうけど、それでも私には進歩なんだ。
「私、全然変われてないと思ってた」
急に人生相談なんかされても困るのに、そんなことをいってしまう。
「変わらないでいるほうが難しいって。気付かないだけだよ」
「……王子さまみたいだね」
「そうかな? ああ、でもそうかも。けど、目に見えるものも結構あるよ。重田の坊主がそろそろ坊主じゃなくなりそう、とか。はるかがそろそろカーディガンからセーターに替えようとしてる、とか」
「そっか。そうなのかも」
他でもない佑佳ちゃんがそういうのだもの。そうに違いない。
単純と笑うならもうそれでいいと思う。私は私に優しい言葉に流される。私は易しい生き方を選ぶ。きっと私も変われている。佑佳ちゃんがいうんだからそうに違いない。瞬きで星が散る。急に教室が明るくなった。
とはいえ、目の前の問題が消えたわけではない。今日もさとう君は学校に来ないし、メールの返事も来ない。謝れもしないし、謝られもしない。でも、もう一度送ってみようと思う。それにだって返事が来ないかもしれないし、そもそもさとう君が見ないかもしれないけど、それでも、私にはそれくらいしかできないから。贖罪の真似事をするだけ。
《ひさしぶり》
返事を待つ。来ない。けど、それでもいい。それでいい。嫌だ、とか、どうして、と駄々をこねる声を無視して、そっと目を閉じた。
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