4 少しずつ日暮れの時間が早くなりました(1)

 いよいよ新学期になった。休みの後は、いつだってお腹が重い。けれど、今日は休むわけにはいかない。休み明けの実力テストもあるし、それに、楽しみにしてるっていったから。

 教室のドアを開ける音も、心なしか大きく聞こえる。軽く跳ね返ってきて、肩が跳ねてしまう。ああ、そうか、こんな音だったんだな。長い間、随分と長い間自分だけの世界に引きこもっていたから、些細なことで不安になってしまう。

「おはよー佐藤さん」

 たしか、中井さん。良く色々な人と楽しそうに喋ってるひと。おはようと返そうとして、やっぱり声が詰まる。

「あれ? 佐藤さん、ちょっといい?」

 ふわ、と柔軟剤の香り。やわらかな指が、私の髪をかき上げる。

「わー、やっぱりイヤホンしてない。どーしたの?」

「あ……と、えっと」

 近い。どうすればいいんだろう。助けを求めるように、教室を見回す。助けてくれそうな人なんて、一人しか思い当たらないけれど、彼はまだ来ていないみたい。代わりに、わらわらとクラスメートが集まってくる。増える。鳩に囲まれるポップコーンか食パンになった気分。

「ほんとだー」

「佐藤さんどしたの?」

「イヤホンしてないの初めて見た」

「なんでイヤホンしてたの?」

「ねえねえ」

 どうしよう、何から答えればいいのかわからないし、何を聞き取ればいいのかもわからない。急に溢れた音で、溺れてしまいそう。

「えと、その、イヤホンは前、に、ちょっと、色々あって、で、その、あ、と、そろそろ、ちゃんとしなきゃ、て、それで、その、えっと」

「そっかー」

「へー」

「わたし初めて佐藤さんの声聞いた」

「あたしもー」

「みんなそうじゃない?」

「ねー」

「佐藤さんもそうでしょ」

「ねえねえ佐藤さんって琴乃ちゃんだよね」

「じゃーことちゃん?」

「ことちー?」

「やっぱちゃんじゃない?」

「じゃあことちゃんだね」

 流される。音に巻き込まれて、こぽこぽと息が零れ落ちる。激しい水流に、身動きが取れない。

「えと、」

「ことちゃんうちらの名前ってわかる?」

「名札とかつける?」

「あ、多分、わか、る、よ」

「わー。じゃ、あたしらも名前で呼んでね」

「ん」

 洗濯機に投げ込まれたシャツみたいになりながらも、口がふにゃふにゃと動いてしまう。なんだか、とっても楽しいんだと思う。久々に、何年振りかにこんなに喋ったから、喉が痛い。けど、そんなの気にならないくらい、幸せ。もっと幸せになりたくて、さとう君と話したいなって思った。


 嵐のような始業前が過ぎ、先生が入ってきた。昨日のうちに学校に電話をしてもらっていたから、特に何もいわれない。ちらっとこっちを見て、ちょっとだけ、安心したみたい。

「おはよう。今日から二学期だけど、夏休みはしっかり勉強したか?」

 そうか、この先生は、こんな風に喋るんだ。本当に聞こえなかったわけでもないのに、そんな何でもないことに感動しながら、初めて先生の話をちゃんと聞く。

「久々にみんなの元気な顔が見れてうれしいっていおうと思ってたんだが、そうでもなさそうだな」

「せんせー、佐藤は?」

「男の方の佐藤は、まだ連絡来てないからわからん」

「えー」

 ちょっと髪の色が抜けている男子が、さとう君のことを聞く。さとう君、お休みなのかな。今日は彼ときちんと話せると思ってたんだけど。きゅっとおなかに違和感。さみしい、なぁ。

「じゃあ、これから始業式だから体育館に移動な。体育館シューズ忘れたやつは裸足で参加。で、そのあと大掃除な」

 先生は、いいひとなんだと思う。今まで話を聞かなかった私のためにだろう、連絡事項はちゃんと黒板に書いてくれる。もちろん、他の生徒もわかりやすくなるからって理由もあると思う。けど、こうやって気をつかってもらうと、申し訳なさだけじゃなくて、ちょっと嬉しいと思ってしまう。今まで気づかなかった感情を見つけるたび、足もとがふわふわする。嬉しくて舞い上がりそう。

 体育館までは、中井さん、じゃなくて佑佳ちゃんとはるかちゃんが一緒に行こうっていってくれた。結局さとう君は来なかったけど、明日になったらさとう君とも話せる。そう思うと、私はふわふわしっぱなしだった。ああ、このままだと溶けちゃいそう。

 もちろん、そんなに都合よく進むはずなんてなかったんだけれど。

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