暮夏の候(2)

《やっほー ちょっと夏風邪をひきまして》

《宿題が終わらなくて缶詰だったのかと思ったよ》

《夏風邪はナントカがひくってしってた? っていわないだと!?》

《嫌だな、病人には優しくするに決まってるじゃないか》

《さすがさとう君!》

《紳士だから治ってからいうくらいの気遣いができるんだよ》

《だよな! 知ってたよ!》

 重みのないやりとりをすると、どうしてか空気を吸いやすく感じる。ふわふわと軽薄な言葉と一緒に、体にまとわりついていた重りも空に消えていくのだろうか。このまま多幸感で叫びだしそう。

《久々に会えると思ってたから、ちょっとびっくりした》

 散々はぐらかしていたのに、不意に真実を曝け出したくなってしまう。嘘でも「会いたかった」だなんていえなくて、そんな風に言葉を濁す。君に会えなくてさみしいだなんて、それが本音だとしたら、なおさらいえない。

《病み上がりどころか病んでるんだから、はやく寝なよ》

コトを心配するような言い草で、僕のために会話を断ち切った。


 夏風邪が長引いているのか、その後コトから誘われることはなかった。宿題の話だとか、昼食の話だとか、無難な話題を選ぶ。熱いお茶の入った湯呑を持った時のような焦燥が指を焼く。コトに会いたい気がする。でも、会いたくない気もする。音もなく笑うあの表情を見たいけれど、ほんの些細なことで失望されたくない。彼女に背を向けられたらと考えると、怖くて仕方がない。

《コトは読書感想文どの本で書いた?》

《それがまだなんだよねー。さとう君は?》

《家にあった本で書こうと思ったんだけど、そもそも本があまり家になかったっていう》

 言い訳をするならば、自分はもう宿題終わったとか、嫌味に聞こえそうだから。暑かったから。夏休みもあと少しで終わってしまうから。来年の夏は、どうなっているかなんてわからない。きっとこんな風に暢気に過ごすなんてことはない。だから、そう、暑さでちょっと参っちゃっただけ。わざとらしく隙を見せて、手を伸ばしてくるのを待つ。主体は僕にならないよう、そっと種を蒔く。

《だから明日は決死の覚悟で図書館に行くよ》

《たかが外出で大げさな……》

《熱中症をなめちゃダメだからね。ナントカさんは平気なのかもしれないけど》

《私病み上がりなんですけど。まだ半分くらいは病んでますけど》

《目ぼしい本は借りつくしておくから、ゆっくり休んで治してね》

《あれー、話が通じないのって私のキャラじゃなかったっけなー。さとう君常識人枠じゃなかったっけ?》

 一緒に行こうとも、自分も行くともいわず、ただ、明日は久々にコトに会うんだろうと思う。はっきりしたことは言葉にできない。皮膚に触れる温度で距離を測るように、目を瞑って階段を下るように、約束を形にしまいとする。互いに気付かないふりをする。気付かないふりをしていることに気付かないふりをして、僕たちは臆病なのか卑怯なのか、もうわからなくなってきた。

 ちょっと休憩のつもりで目を閉じたら夢を見た。今よりもずっと小さい僕と、見たこともない女の子がいる。初めて見るはずの子どもなのに、彼女はコトだとすぐにわかった。小さな僕とコトは楽しそうに遊び、僕はそれをぼうっと眺めている。ちょっと離れては大声で名前を呼び合い、何がそんなに楽しいのか、きゃらきゃらと笑い転げる。コトの声を聞いたことはないのに、目の前の女の子の声がコトのものだと認識しているのは、これが夢だからだろう。目が覚めたとき、彼女の声を覚えていられるのだろうか。夢に見るくらい僕は彼女を望んでいるのだろうか。何一つ話せない僕が。なんておこがましい。けれど、ああ、屈託なく遊ぶかつての僕が妬ましい。夢の中の自分に嫉妬してしまう。

「嘘を吐くくらいなら、正直になればいいのに」

「そうすれば、コトだって受け入れてくれるかもしれない」

「僕の望むように、特別になれるかもしれないのに」

 黙れ。彼女の顔で、彼女の声で、そんなことをいうな。悲しくもないのに視界が端から滲んでいく。世界が、赤く、染まる。


 暑さのせいだけでない寝苦しさで布団をはね除けた。耳のすぐ近くで血が送られる音がする。心臓が、喉が、呼吸の度に異常を脳に告げる。苦しい。喉を掻きむしりたい。いっそ切り裂いてしまいたい。どうせ僕の声は彼女に届かない。それなら、何の必要があるのか。そんなことできるはずもなくて、背を丸め、首の付け根に爪を立て、擬似的に首を絞める。聞こえないはずの声がする。見えないはずの嘲りが浮かぶ。何も見たくなくて、何も聞きたくなくて、膝に眼窩を押しつけ耳を握りしめた。食い込む爪の感覚だけに、意識を向ける。大丈夫。大丈夫だから。何がかもわからないけれど、必死にそう言い聞かせた。


 小学校を卒業し、できることとできないことが増えた。自転車に遠出もできるし、増額したお小遣いで買い食いもできる。高校は電車通学だから、途中下車して放浪することだってできる。できることのほうが多いとは思うんだけれど。できないことの一つに、服の選び方がある。平日は制服を着ればいいけれど、休みの日は何を着たらいいんだろう。家でごろごろするならいっそ寝巻のままでもいいけれど、外に行くときは、しかも人と会うときには、何を着たらいいんだろう。こだわりもないけれど、かといってどんな目で見られてもいいと思えるような強さもない。脳味噌がバターになりそうなほど考えたのではないだろうか。無難なジーンズ、そして特に意味を持たない柄のティーシャツ。雑踏で石を投げたら十回に一回は当たりそうな服装。「その辺にいそう」を見事に体現できたと自画自賛しながら、くたびれたスニーカーに足を入れた。

 じりじりと肌を刺す紫外線を感じながら、自転車を走らせる。真っ青な空に浮かぶ白い雲。心境の変化で景色が変わって見えるなんてことはなく、見慣れた街並みだ。現代文で教わることなんて、結局紙の中だけの話なのかもしれない。先生に喧嘩を売るようなことを考えながら駐輪場に着く。そろそろ夏休みも終わりに近いからか、思ったよりも数は少ない。ふ、と息を吐き、滲んだ汗を腕で拭って図書館へ入った。前回探せなかった「さ」の棚をまず探す。さて、コトは来るのだろうか。「し」、約束をしたわけでもないし、いつ頃行くといったわけでもないから、会えない可能性だってある。「す」、むしろ、こんな状態で会えるはずがないと思う方が正しいのだろう。「せ」、でも、コトなら、もしかしてと期待してしまう。作者順に並んだ背表紙を眺めながら、そんなことばかり考えてしまう。「そ」、いけない、今日は本を探しに来たことになっているんだから、ちゃんと探さないと。

 読んだことのない本と、もう一度読みたかった本と、家にある本。貸し出しの上限までまだあるけれど、とりあえずこのくらいでいいか。館内にある読書スペースに腰を下ろし、表紙をめくる。文字を追っていくうちに音が消える。目に映る言葉が頭の中に響き、世界から切り離される。ただただページを進めていく。そうしてどれくらいが経っただろう、一度本を閉じ、少し固まった気のする背筋を伸ばす。時計を見ようとして、机の向かいに誰かが座っていることに気付いた。イタズラが成功した子どもの顔。誰かではなく、コトだ。見慣れないと思ったら、涼しそうなシャツを着ている。こういうときは服を褒めるべきなのだろうか。でも、女子の服装の良し悪しがわかるわけもない。ああ、でもまず彼女に伝えるべきは、そんなことじゃあない。僕は用意していた紙切れを取り出す。彼女も同様に取り出した。時間を惜しむように、最初の一言は決まっているのだから。

『久しぶり』

『元気だった?』

 直接顔を合わせているのに、周りには囁き声でなく話している人たちだっているのに、声を殺して「会話」する。それがなんだかおかしくて、懐かしくて、思わず笑ってしまった。


『さとう君、本決めた?』

『とりあえずこれにしようかな コトは?』

『まだ いっそ絵本とかどうだろう』

『画集とかいいんじゃない?』

『読書感想文 #とは』

『新学期早々呼び出されちゃう』

 機械越しだろうと彼女と話すことはできる。けれど、やっぱりこうして目の前の彼女とのやりとりの方が楽しいと感じるのはなぜだろう。哺乳類の子が尻尾を追いかけるように、くるくると「会話」が続く。ふわふわと、ゆらゆらと、ヘリウムを吸った風船のように用水路に落ちたボールのように、目的地も着地点もなく続いていく。

けど、どうやら違ったらしい。目的がなかったのは僕の方だけだった。

 フロアから声が消え始め、帰り支度をする人が増えた。話題はまだ尽きそうもないけれど、そろそろ帰るべきか。切り出したくはないなと考えていたら、紙を手元に引き寄せ、コトが一瞬躊躇したのが見えた。リズムをとるように、人差し指がペンを叩く。いやな予感はしなかった。身構えることはできなかった。ひゅ、と息を吸い、コトの思考が形になる。

『新学期にね』

 待つ。一拍か二拍おいて、続き。

『イヤホンやめようかなって思うんだけど、変 かなあ?』

 間。僕はどうすればいいんだろう。正解がわからない。いつもはどんな風に話してた? 思い出せない。視界の端が、ちかちかと、市松模様を描く。はやく、何か返さなきゃ。

『いいんじゃないかな きっと先生も喜ぶよ』

 真摯な答え。「僕」を排した、卑怯な答え。

『そっか うん、じゃあそうしようかな』

『でも、どうして?』

 理由を聞かなくちゃ。僕はこれからどうしたらいいのかわからない。どんな風に君と接したらいいかわからないんだ。

『さとう君と話したいなって』

 頭の中身をかき混ぜられるって、きっとこういうことなんだろう。眉尻が下がる。口角がへにゃりと上がる。閉館を告げる館内放送。――もう、サヨナラの時間。

『楽しみにしてる』

 ああ、早く新学期が来ないかな。余命を告げられた患者は、きっとこんな気分なんだろう。

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