3 暮夏の候(1)
登校日とかいうシステムは誰が考案したんだろう。夏休みもあと少しで終わる、課題を終わらせるために一分一秒だって無駄にできないこの時期に、わざわざ登校する意義とはなんなのだろうか。全体的には着色され、部分的には脱色された重田がそんなことをいっている。夏らしく日焼けした彼は、これまた夏らしく髪を染めたらしく、新学期が始まる前に生徒指導を受けていた。あの短い坊主頭を染めたのか。却ってやりにくいんじゃないだろうか。彼の頭皮の将来は明るいのだろうか。とはいえ、毎年何人かはこういう生徒がいるらしく、そんなに時間もかからずに解放され、今はこうやって掃除をしている。
「あー、あとヤバイのは読書感想文なんだよなー。なあ佐藤、おすすめの本とかない? できたらマンガとかで読めるやつ」
こんなに暑いのに、重田はわざわざ肩を組み、耳元でそう聞いてくる。僕は文学少年ではないというのに。インドア派が全員本を読むとでも思っているのだろうか。
「やっぱ『人間失格』とかいいんじゃない?」
「はるか読んだことあんの?」
「ないに決まってんじゃん」
重田とクラスメートの女子、確か笹岡さんが漫才を始める。読書感想文には、最新の苦い思い出が付随する。あの日、コトを見かけてしまったあと、もう一度本を借りに行く気力もなくなり、結局家にあった本で適当に書いてしまった。その後のメールでも、図書館に行ったことは伝えられていない。もしかして、コトも感想文の本を借りに来てたんだろうか。
ちょいちょいと重田の腕を叩き、解放してもらう。気温も体温もそんなに変わらないけれど、密着されているのとされていないのとでは不快感が大分違う。学期末から出していなかったファイルをあさり、目当てのプリントを探した。
「ん? え、あ、いいの?」
夏期講習最終日に配られたプリントを重田に渡す。いいよ、僕はもう使わないから。そんな思いを込めて、そっと距離をとる。そうしないと、また捕まりかねないから。
先生から渡されたプリントには、まあ先生が選ぶだろうなというような本の題名と作者が並んでいる。世の中の高校生でも読む人はいるだろうけれど、うちの高校に来るような生徒が読むかといったら微妙な本。当然僕もほとんど読んでいないし、必要に駆られなければ、今後も読まないだろう。さて、重田はこのリストを使うんだろうか。
「佐藤君この中から選んだ?」
重田の後ろからプリントを掠め取った女子が、そんなことを聞いてくる。とりあえず首を横に振る。
「やっぱり?」
わたしも、なんていう女子は、見覚えはあるけれど誰なのかの確証が持てない。重田ほどではないけど、クラスの半分くらいの生徒は休み前からマイナーチェンジしている。髪型とか、制服の着方とか、校則に触れない程度の自己主張というやつだろうか。……いや、正直にいおう。クラスメートの顔と名前が一致していないからわからない。
「課題図書だったら読むかもだけど、そうじゃなきゃ読まないよね。先生だって配りながら自分だったら読まないとかいってたし」
いいかげんに手足が生えたような現代文教師は、確かにそんなことをいいながら図書リストを配っていた。
どこかで聞いたことはあるけれど、内容までは知らないような小説。教養としては知っていても損はないけれど、だからといって読まなくてはいけないものではない。なんなら自分も読んではいない本が多い。でも、困ったときに役に立つかもしれない、そんな本だよ。名作ってそういうものだし。
そういった先生が思い浮かべていたのはどの本だったのだろう。
「この中から選びそうなのは重田と、あと誰かいるかなぁ?」
名前を思い出せないクラスメートは、僕の薄い相槌も気にせずクラスメートの中で何も考えていなさそうなやつを数え始める。何も考えてないやつはこのリストの中から選んで苦しむことになるんだよというのも、件の先生が楽しそうに語っていたことだ。去年、毎年恒例っていってあったんだから、暇なときに難しくなくて感想文が書きやすい本を選んでおけばよかったんだよ、ともいっていた。あの先生はいつだって楽しそうで、ずるいなぁと思ってしまう。
「あ、でも佐藤さんもこの中からえらぶのかなー。なんとなくだけど、マジメそうじゃない?」
不意にコトの名前が出て、勝手に気まずくなる。優等生のような姿からは真面目という言葉がぴったりだけれど、さて、堂々と校則違反をしているコトははたして真面目なのだろうか。けれど、板書は読めても雑談を聞くことはできないコトは、正直にこのリストを使うのかもしれない。僕が彼女に伝えていないから。そのせいで、大切な友人は不利益を被っているのかもしれない。とんだ自意識過剰な加害妄想なのかもしれないけれど、きゅうとお腹が重くなった。
夏休み中の登校日は、出席日数にカウントされない。それに、部活の遠征や合宿、うまくいくと大会なんかもあるから、登校しない生徒もそれなりにいる。もちろん優秀な帰宅部員である僕は去年も今年も登校したけれど、優秀ではない帰宅部員は休んだりもしている。そして、その中にはコトも入っている。
あの日、コトから逃げるように、逃げるために隠れたときから、僕はおしゃべりがどんどん下手くそになっていった。もともとが上手でもなかったんだから、由々しき事態である。当然のようにコトとのメールも、それとなく減っていった。あからさまに気のない返事はしないけれど、返事を遅らす。急ではない用事を優先させて、仕方なくを装う。そんな小狡いことをした。今日会ったらどうしよう。誤魔化すべきなのか。朝のショートホームルームの予鈴が鳴るまではそんな風に思っていたのに、コトが欠席するとわかったら、少しずつ、内臓が重くなってきた。砂時計の底に時間が溜まっていくように、一秒ごとに、消化できない何かが胃に降り積もる。なぜ、どうして、もしかして。僕が何かいってしまったから、僕が何もいわなかったから、彼女はここにいないんじゃ。そんな思い込みが、段々と形をつくっていく。この怪物はどうやって飼い馴らせばいいんだろう。僕に御されてくれるのだろうか。それとも、一瞬の後に腹を食い破って産声を上げるのだろうか。不安なのか悔悟なのか、彼女への感情を餌に、目に見えないバケモノはすくすく成長する。いつか開かれるだろうその眼は、緑色なのだろうか。
「佐藤君さ、佐藤さんなんで休みか知ってる?」
ううん、知らないんだ。知っていたかったのに。僕だけが知ることができると思っていたのに。
家に帰り、使い慣れ始めたパソコンを起動する。メールをチェック。新着メッセージなし。知らず殺していた息を、そっと吐きだす。安堵か、失望か。青白い光を発する画面は、昨夜と変わらぬ表示だ。
風邪でもひいた?
用事があった?
この休みの間に少しは慣れた指先でキーボードを叩く。一語浮かび上がるたびに消して、また消して、頭の中身がうまく言葉に変換できない。
休んだのは、僕のせい?
自意識過剰なメッセージを送りたくて、でも否定されても肯定されても立ち直れる気がしなくて、いたずらにキーを叩き続ける。
《今日休みだったけど、どうしたの?》
シンプルな、素っ気ないようなメッセージを送る。返事は来るだろうか。たった二十字足らずの文字を編むだけで疲れた。冷蔵庫にお茶は入っているだろうか。部屋を出る前、画面をちらと見たけれど、やっぱりなにも変わっていない。
「久々の学校はどうだった?」
リビングでは、撮り溜めたドラマの上映会が行われていた。ちょっと前に話題になった恋愛ドラマ。すれ違った二人が、歩み寄ろうとしては何かに邪魔をされるというようなストーリー。すれ違うコトと僕。僕はコトに歩み寄ろうとしているのだろうか。
「どうってこともないよ。先生の話を聞いて、掃除して解散した」
「ふうん」
気のない返事を返し合いながら、冷蔵庫から麦茶を取り出した。氷はいらないか。
「母さんも麦茶飲む?」
「んー」
うんなのかううんなのかわからない返事を聞きながら、コップにお茶を注ぐ。コップ越しに液体の冷たさを感じる。硝子と皮膚の境に液体が滲む。部屋に持っていくのも面倒で、その場で一気に飲み干した。
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