晩夏の候(2)

 講習中は放課後の内緒話はなくなって、代わりにメールのやりとりをする。コトとの目に見えるつながりは、安心するようでいて、不安も大きくした。知らないふりが難しくなった。何を考えているんだろう。何をしているんだろう。どうして返事に時間がかかったんだろう。どうしてこっちに関心を向けてくれないんだろう。どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして。今までは気にもしなかったことが、今までは気にせずに済んでいたことが、不意に眼前にちらつく。ああ、いやだ。僕はこんなこと気にしたくないんだ。気付きたくなかった。こんなにコトのことを思っているなんて。同じだけの熱量で返してほしいなんて、そんな傲慢なこと、思いたくない。僕はこんなにみじめな思いをしたくない。

「最近はどうなの?」

 夕飯を食べながら、母さんが話しかけてきた。

「どう、って?」

「ほら、夏休みでしょ? 面白いこととかないの?」

「夏期講習くらいしかないし……」

 息子の夏休みに何を期待しているのだろう。熱心な帰宅部員として、不要不急の外出を避け、規則正しい生活を送っている僕に、面白いことなんて起こるはずもないだろう。

「えぇ~、パソコン使ったりとかないの?」

「なんだよそのあからさまな」

 我が親ながら、水を向けるのが下手だなぁと思う。案外、僕の話し下手は遺伝なのかもしれない。いつか小粋な会話を繰り広げられるかもしれないという希望がまた一つ消滅した。

「お父さんがね、最近賢太がパソコン使ってるなーっていってたのよ。ほら、最近はネットのトラブルとかあるっていうじゃない?」

「トラブルになるほどは使ってないと思うんだけど」

「賢太にも親に隠れて連絡したい相手ができたのかしらねーって話してたのよ。もう高校二年だし、好きな人ができてもいいじゃない?」

「子どもの恋バナで盛り上がらないでよ」

 親が祖父母の恋バナで盛り上がっているっていうのも、それはそれでいやだけれど。

「別に、メールアドレスもらったし、宿題の話とかしてるだけだよ」

「へー、そっかそっか」

 なんだかご機嫌な母さんとなおも夕飯を食べる。藪(やぶ)をつつかずとも蛇は出て来る。せめて息を殺して、そっと通り過ぎてもらうしかない。おいしい餌なんて持っていないよ。


 長く辛い夏期講習も最終日、教室全体がなんだかそわそわしている。一番そわそわしているのは先生だけれど、生徒だって、これで名目上じゃない夏休みが始まると思えば楽しみでしかたがなくなるってものだろう。

「さて、じゃあ夏期講習はこの辺で終わりにしよう。休み明けのテストを楽しみにしていてね」

 チャイムが鳴るにはまだ早いけれど、と、講習が終わりになる。テストが楽しみな人ってどれだけいるんだろうか。少なくとも、僕の知る限りでは一人もいない。あの先生も、よくテストなんてやりたくないといっている。学年一位らしい新谷さんだったら、もしかしたら楽しみなのかもしれない。

「なー佐藤、俺たちこれからカラオケ行くんだけど、行かない?」

 重田が覆い被さるようにして聞いてきた。重田はとにかく人との距離が近い。気付けば肩を組んでいるなんてこともザラだ。それにしても、カラオケか。放課後にクラスメートとカラオケだなんて、まるで高校生のようだ。楽しそうだなぁという思いを込めて、首を横に振る。

「そっか、じゃあ今度は来いよー」

 肩を組んだのと同じくらいするりと重田が離れていく。まあ、重田のことだから僕が断ることくらいわかっていたんだろう。軟体(なんたい)動物染(じ)みた動きだけれど、気持ち悪くはない。しつこくないところには好感が持てる。なんだか上からの物言いになってしまっているな。重田だからなんだろうけれど、たまには反省もする。

 最後のコマの現代文が早く終わったからか、みんな、いつもより浮足立っている。重田は何人かに声をかけていて、「カラオケに参加する組」は着々と人数を増やしている。中井さん主催の「ゲーセンに行く会」との勢力争いが生まれそうなところだ。もちろん、両方とも僕には関係のない話だけれど。

 忘れ物がないか確認して鞄を肩に引っ掛ける。そうだ、上履きも持って帰らないと。

「佐藤君じゃーねー」

「また新学期にねー」

 教室の中から手を振られた。話したことのない女子に、どう返すのが正解なのかよくわからない。指先が中途半端に丸まった手で、曖昧に手を動かす。教室のすみっこで、コトが笑っているのが見えた。


《さとう君は夏休みどこか行く?》

《とりあえず明日はスーパーに特売のたまご買いに行くよ》

《夏休みとは》

《コトはどこか行くの?》

《お盆におじいちゃん家に行くくらいかな》

 なんで長期休みになると、どこかに行くかを聞くんだろう。混雑しているのがわかっているのに人混みに自分から足を運ぶ。行列に並ぶことが目的なのかってくらい、どこでもみんな並んでいる気がする。

《じゃあ、さとう君は家にいるんだね》

《僕には家を守るっていう使命があるから》

《図書館行かない? 一人だとちょっとあの空気に耐えられなくて……》

 図書館。二年前の冬に、周りに流されるように少しだけ図書館通いをしていたことが懐かしい。あの時は気にならなかったけど、今、このお気楽な身分で図書館の学習室に行くのは、確かにつらいものがある。僕だって勉強をしようとして行くんだろうけれど、受験生に混じれるかっていわれたら、無理がある。そこまで切羽詰まれない。

《家でやればいいじゃん》

《家でもやってるよ! やろうとしてるよ! でも誘惑多いじゃん!》

《メールとかね》

《ほんとそれ》

 夏休みにどこかに行くだなんて、バカげてる。わざわざ行列に並ぶとか、信じられない。暑いんだから涼しい家の中にいるのが一番だと思う。けれど、コトとなら、ちょっといいかもって思ってしまった自分が憎い。たった数カ月でここまで人は変わってしまうのだろうか。じゃあメールやめようかと聞かないあたり、僕の答えも決まっているのかもしれない。

《まあ、そのうちに》

《ちぇー》

 きっと、今のコトとなら、僕は隣に座っていられる。けれど、明日のコトはわからない。目を閉じて開いた次の瞬間には、直視に堪えないバケモノになっているかもしれない。影を見ることすらおこがましい天使になっているかもしれない。だって僕はそうだから。人間のふりをしているだけの、ヒトモドキ。僕には、今のこの瞬間しか信じられない。

 多分、僕がこうやってはぐらかしていることに、彼女はそろそろ気付いている。彼女は熱そうに見える薬缶が見せかけかもしれない可能性に気付いてしまった。しゅんしゅんと音をたて、沸騰しているように見えるけれど、それが本当とは限らない。手をのばして、温度を計ろうとして、けれどまだ触れる勇気はない。僕の嘘は、まだ箱の中で生きていられる。にゃあん、てね。

《まあいっか。気が変わったらいつでもいってね》

《そんな日が来るならば》

《それお断りされてない?》

《休み明けの現代文は上位が狙えるね!》

 目に見えない臓器をお互いに傷付けながら会話を進める。まだ大丈夫。彼女とは「いい友達」でいられる。だからどうか、その手を伸ばさないで。僕は差し出されたその手を振り払いたくない。この一瞬のままでいいから変わりたくない。ぐるぐると渦(うず)を描き始めた思考をさえぎるよう、パソコンの電源を落とした。

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