2 晩夏の候(1)

 夏休みといえば休めるかと思いきや、現実はそう甘くはない。多いのか少ないのか最早もうよく分からない量の課題と、希望者夏期講習という名の強制補習。近隣の学校には学習合宿なんてものもあるらしい。気合の入った学校じゃなくて良かった。三年生は極少数を残して部活を引退し、「受験生」というラベルを上から張り直した。僕らにも「受験まであと一年」という危機感を持たせたいんだろうけど、そんな奇特な同級生は今のところ見当たらない。いわれるがままに登校し、教師の話を聞きながら、板書を写す。講習だからか、休んで大学見学にいく生徒もいたり、部活の大会に出ていて参加していない生徒もそれなりにいる。教室の中に、コトはいない。サボりだろうか。それとも、目指す進路がもうあるのだろうか。だとしたら、なんだかそれは、悲しい。迷子になってしまった気分だ。

 黒板では、主人公の「僕」が「彼女」への思いを自覚している。「僕」と「彼女」。僕とコト。現実は全てを言葉で表せるものではないし、関係にしたって、一面でしかないのだろう。それなのにはっきりとした名前が欲しいと思ってしまうのは、なぜなのか。友人というあやふやな幻想に、何の不満があるのだろう。

「この情景描写が表すことは何か、定番の問題だね。どう答える?」

 きらきらと輝く陽光、瑞々しい木々。小鳥の囀りの聞こえてきそうな情景描写。きっと「僕」の恋路は明るいことだろう。

「情景、特に天候は登場人物の心情とリンクする。ただし、正反対を示すこともある。こんな天気のいい日に教室に閉じこもって空を見上げる君らみたいに」

 小さく愛想笑いがこぼれる中、なるほど、と腑に落ちる。情景は心理に一致しない。それならば、この感情は、気の迷いでしかないのだろう。

 コトがいなくてさみしいと思うのも、気のせい。コトともっと多くを共有したいと思うのも、気のせい。コトがコトをコトはコトもコトへコトに。彼女に向かう思いは、所詮気の迷いに過ぎない。彼女しかいないから、特別に思うだけ。きっとこの天気に中てられて、必要以上に感傷的になっているだけ。目を閉じてなおのこる青が、思考を誘導するだけ。そう思わないと、やってられない。

 ねえ、コト、明日は学校に来る?

 連絡先の交換もしていない僕は、彼女へ伝える言葉も持てない。頭の中でいたずらに音をひねる。お腹の奥に積もるだけの、何処へもいけない言葉が溜まっていく。いつか限界までいけば、喉から零れ落ちることもあるのだろうか。それとも、刃になってこの腹を裂いて出てくるのだろうか。

 会いたい。

 早くコトに会いたい。伝えたいことがたくさんあるんだ。伝えきれないことが溢れそうなんだ。喉を切り裂いて言葉が流れ出す前に、どうか、君に会いたい。


 翌日、いつものようにコトは教室にいた。暑さを感じない、魂の欠けた人形みたいな姿勢で本を眺めている。いつも通りの光景に、胸の中でそっと息を吐く。良かった。今日はきっとコトと「話せ」る。形のないもやもやが、喉を割くこともないだろう。

「おはよー佐藤さん。風邪?」

 後ろの席の女子がコトに話しかける。気付かない。

「だめだよはるか。佐藤さん聞いてないから、見せてあげないと」

「あ、そっか。じゃあ別にいいや」

 彼女に掛けられる声は、空気を揺らすだけで届かない。そこにいるのに、空気になっていく。目に見える透明。質量のある影。この教室の中で、コトは人ではなく現象になっている。そこに「いる」のではなく、そこに「ある」何か。残酷なまでの優しさで、コトは異物として受け入れられている。

「佐藤君もおはよー」

 さっきの女子生徒が、僕にも挨拶する。曖昧に笑って、首を動かした。


 学校に来れば、顔を合わせれば、コトと「話せ」る。そう思っていたけれど、間違いだったと思い知る。普段であれば教室に居残っても何もいわれないけれど、管理の関係なのか、自習室に行くか部活に行く以外ではすぐに帰宅するよう促される。

結局「話せ」ないか。気分が落ち込むのを感じながら、補習で配られたプリントを鞄に突っ込む。

「佐藤、落としてたぞ」

 クラスメートの一人がプリントを差し出す。たった今、プリントは鞄に入れたはずだ。

 受け取ろうとしない僕に、彼は言葉を続ける。

「ほら、十四番の佐藤だから、お前の方だろ?」

 佐藤が二人いるからか、授業で配られるプリントは大抵出席番号を書く欄がある。確かに書かれている番号は十四。コトは十五番だから、僕のものということになる。なんで僕のものではないプリントに僕の番号が書かれいるのだろうか。疑問に思いながらも受け取る。お礼をいう間もなく、彼は足早に去っていった。エナメルバッグを持っていたし、部活にでも向かったのだろう。坊主頭だから、野球部なんだろうか。次こそは東高に勝つと息巻いていたような気もする。去年の自己紹介では高校ではサッカー部に入るといっていたのに、いつの間に重田は宗派替えしたのだろう。いや、変えられなかったのが正しいのか。リトルリーグからの上下関係からは、高校でも抜け出せなかったらしい。

 改めて、手元に残されたプリントを見る。一時間目に使ったプリント。数学。本当に僕のものだったらこんなに黒い字が書かれているはずがない。もっと赤くなっているはずのプリントを見る。関数の問題とその答え。数字とアルファベット、それから記号。

ところで、今どきの高校生がスマホを持っていないって、どれくらいの人が想定するだろう。


《ねえ、知ってる? 世の中の高校生が全員スマホを持っているわけじゃないんだよ》

 夜、部屋でパソコンの電源を入れる。基本的に誰かと連絡を取ろうと思ったら、家にある固定電話を使うしかない。高校に入学するときにスマホを買うか聞かれたけれど、断ったからだ。ただでさえ煩わしい人間関係を拡張したくないだとかいった気がする。我ながらひねくれている。思春期特有の病だろうか。中学を卒業して一年以上になるのに、今も治っていないんだから困る。一年と少しでそんなに成長するものでもないのだろうけれど。ただ、義務教育も終えた息子がそんな様子では後々困ると知っていたのだろう、両親は僕に一台のパソコンを与えた。しかも、父さんのパソコンを買い替えるからお下がりをくれるという名目を作ってまで。良い様に使われた気もするけれど、僕を思っていることに違いはないだろうと、ありがたくいただいて一年間のほこりの堆積を観察していた。

 なんとなくそわそわしながら、更新ボタンを押す。まだ。まだ。まだ。……もしかして、違っていた? 跳ねる鼓動の理由が変わりかけた頃、新着メールが表示される。

《もしかして、さとう君?》

《そうだよ。文書偽造した佐藤さんじゃないほうの佐藤だよ。》

《そのトゲのある言い方、まぎれもなくさとう君だね!》

 なんだか不名誉な本人確認をされた。どうやら、相手はコトで合っていたらしい。

《メールアドレス教えるにしても、個人情報書いた紙落とすってどうなの?》

《メアドは変えられるし、よくない? あと、他のIDとかはスルーなんだね》

《スマホ持っていない僕にわかるとでも? あと、そういうもん?》

《本当はなんかスパイっぽくてかっこいいと思った》

《自動的に消去されてほしい》

《ロマン》

 はぐらかしながら、つらつらとキーボードを叩く。二人とも、直接話しかければいいだなんていわない。年度当初に配布された連絡網は、僕の家とコトの家を結んでいる。急所を互いに曝け出しながら、何も見ないふりをする。なんだ、コトだって、気付いてないふりが上手じゃないか。

《重田を操ってまでどうしたの?》

《あ、重田君が拾ってくれたんだ。特に用事はないけど、連絡先くらい知っててもいいかなーって》

《重田といえば、あいつ、いつの間にサッカー少年見習いから野球少年になったんだろう》

《見習い? そういえば重田君坊主頭だもんね》

《確か去年はサッカー部入りたいとかいってたから。ちなみにひさびさにじっくり見たけど、頭の形がきれいだった。僕の中で今年のベストボージスト賞にノミネートされてる》

《ベストボージスト賞 とは》

《深く考えないで》

 はぐらかして、話題を変えて、ごまかして。台本通りに演じるように、二人で空虚な言葉を躍らせる。くるくるくるくる。本心なんか建て前に紛れて、消えていく。糸に導かれる人形のように、優雅に、無様に、踊り続ける。いつかこの靴が赤くなるまで。物語はハッピーエンドだと決まっているのだから。

 そう、だから、嫌な予感なんてするはずがない。

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