1 星祭りの候(1)

 人の記憶は、声から消えていく。

廊下側、前から二番め。背筋を伸ばして授業を受ける優等生のような姿。佐藤さんを見ていると、そんなことを思い出す。あれは、どこで聞いた言葉だっただろう。

 佐藤さんは、人の話を聞かない。その姿勢は筋金入りで、その耳にはいつだってイヤホンがちょこんと座っている。真珠のような、丸っこいプラスチックが耳元を飾っている。職員会や保護者会で問題にされたこともあるらしいのだけれど、今では暗黙の了解として見逃されている。去年の一学期末、佐藤さんはしばらく学校に来なかった。その時に、大人の話し合いとやらがなされたというのが噂としてまことしやかにささやかれている。ただ、そのときの僕は佐藤さんと別のクラスだったし、佐藤さんと特別親しい知人や友人と僕が知り合いだということもなかったから、噂として聞いただけ。本当のことなんて、誰にもわからない。誰も彼女に声を聞かれたことも、彼女の声を聞いたこともない。この高校生活が終わってしまえば、彼女は誰よりも早くみんなを忘れ、誰よりも早くみんなに忘れられてしまうのだろうか。それとも、かえって記憶に残るんだろうか。

 彼女は何を考えて口を閉じ、耳を塞いでいるのか。それに関しては、まったくとはいえないけれど、さほど興味はない。彼女には彼女なりの理由があって、それは僕に関係するかもしれないけれど、関係しない確率の方がよっぽど高い。僕がこうやって貝になりきっているのだって、彼女には関係のないことなんだから。でも、もし我儘をいってもいいのならば、彼女と話してみたい。もし、急に話しかけたらどんな顔をするんだろう。「おはよう」っていったら、返してくれるんだろうか。彼女にだったら、僕も、話しかけられるんじゃないだろうか。

 ああ、彼女と話してみたいな。

 実現することもないし、実現させるための努力をするつもりもないのに、そんな夢を見る。身勝手で醜い夢。甘い、やわらかな、嘘のような夢。眠らずに見る夢は、いつだって僕を優しく包んでくれる。蛤の吐く煙の中で、ずっと微睡んでいられたらいいのに。


 梅雨はとっくに明けたのに、空は灰色で空気は湿っぽい。雨が降り出す前に帰ろう。誰も彼もそう思うのか、いつもより足早に教室をあとにする生徒が多い。ベルトコンベアーに載せられたようにだらだらと昇降口まで流されて行ってから、忘れ物に気付いた。なんてツイていない。小さく息をついて、階段を生徒の波に逆らって登っていく。三階まで行けば、同級生はもう帰ったのか部活に向かったのか、静まりかえっていた。人気のない廊下は、ほかより温度が低いように感じる。ぴんと張った糸のような、不思議な緊張感。そっと足音を盗むように、教室へと向かう。薄暗い廊下、窓から差し込む赤みの強い西日。心なしか冷たいドアに指を掛け、開く。そして。

使い古されたような、陳腐な表現かもしれない。僕が目にしたものは、――恋に落ちてしまいそうなほど衝撃的なものだった。

 誰もいないと思っていた教室には、彼女がいた。佐藤さん。耳を持たない彼女は、まるで人魚姫のように歌っていた。切り裂くのはここだといわんばかりに喉をそらし、両の睫を重ね、息の漏れる音すらさせず、歌っていた。歌詞もメロディーもないのに、失った恋を嘆く叫びが聞こえる。捧げただけの愛に応えてもらえなかったかわいそうな人魚姫。ああ、ああ、なんてかなしい姿なんだろう。

不意に、空気が震える。肩に引っかかっていた鞄が床へ落ち、彼女の歌は止んだ。耳ではなく肌が音を感じたんだろう、伏せられた目が開き、視線が彷徨う。目が合う。磨き上げられた石のような、淡く濡れた瞳。近付けば、僕の無様な姿が映ることだろう。

 違うんだ、覗いていたんじゃなくって、忘れ物を取りにきただけで、佐藤さんを見てたんじゃなくって、でも、つい、気になってしまって。

 頭の中をぐるぐる暴れまわる言い訳は、音になって口から飛び出すことはない。脳以上に冷静な声帯が、彼女に語るべき内容を吟味して堰き止めているのだろうか。僕が必死に考えても、佐藤さんには伝わらない。もどかしくて、恥ずかしくて、目元が熱くなる。僕はこんなにも、彼女に伝えたい言葉があるのに。言葉の作り方を思い出せない。声の出し方がわからない。なにを伝えたらいいのかがわからない。はくはくと浅く開閉していた口を閉じ、下唇を噛む。泡に溶けていく魚は彼女の方だと思っていたのに、声を失ったかのように、ひゅうひゅうと喉を鳴らすことしかできない。早く、早く、何か言わなきゃ。でも、――何を?

『どうしたの?』

 彼女がメモを差し出した。薄く色のついた、女子の手にも収まるくらいの小さなメモ帳。そこには、佐藤さんの声が書かれていた。

『忘れ物しちゃって』

 ポケットを探ったけれど、佐藤さんのようにメモ帳なんて出て来るはずもなく、鞄からペンケースを取り出すのもなんだかおかしな気がして、紙とペンとを受け取って、彼女の言葉の下に、小さく書き足した。

『そっか。この時間いつも誰もいないから驚いた』

『ごめん。明日数学あたりそうなの下に行ってから気がついて』

『え、予習するの? えらい わたし予習したことないや』

『昨日の宿題まだやってないんから……』

『え』

『最後に配ったプリントの裏の問題 あれ宿題だよ』

『ヤバ 捨てたかも』

『明日の授業で集めるって言ってたけど』

『まじか 佐藤君に聞いてよかった』

『こちらこそ佐藤さんのお役に立てて良かった』

 くすりくすり。お互い、こっそりと息を吐くように、笑みをこぼれさせる。いけないことなんてしていないけれど、二人とも、誰にも気付かれないように。ほんのわずかでも気取られたら、兄姉のように食べられてしまう時計の中の末っ子のように。何かの遊びのように音を消した。

こんな風に、誰かと「会話」することができるなんて。こんな楽しく「話す」ことができるなんて、思ってもいなかった。ああ、もしかしたら、僕は幸せなのかもしれない。

『なんだか変な文だね』

『ね 二人とも佐藤だもん』

『学年でたった二人の佐藤が同じ組になるとは』

『クラス分けってどうやって決めるんだろうね?』

 もしかすると、クラスが決まった四月にしていたかもしれない会話を、今、ようやくしている。数ヶ月遅れてしまったけれど、ようやく僕らの高校二年生は始まったのかもしれない。そう考えると、いつもより、ほんの少しだけ勇気を出せる気がした。友達になるための、小さな一歩。

『佐藤さんってのも呼びにくいから、ことのさんって呼んでもいい?』

 あ、字が震えた。いつもより数段不器用なハテナに、また顔が熱くなる。

『さては漢字まではわからないな?』

『ばれたか ことって楽器のことでしょ? 書けない』

『中学で習ったよ! それに意外と名前で使われてるんだなーこれが』

 そうだったのか。いわれてみると、ことはだとか、ことみだとか、ことちゃんとか、よく聞くかもしれない。僕が気付かないだけで、常識だったのか。

『ことのさんってのもめんどうでしょ コトでいいよ』

 コト。示された文字を、頭の中で音にする。

『ありがとう 僕のことも気軽に佐藤君って呼んでね』

『どこが気軽?』

『自分からあだ名指定するのはちょっとハードルが……』

『わたしが恥ずかしい人みたいじゃん!』

『あっ(察し)』

『佐藤君なんて佐藤君だ!』

『英語の例文かな?』

『これはペンですか? いいえ、これは鉛筆です』

『丸がない、マイナス1』

『テストか』

 メモ帳じゃ足りなくなって、鞄にしまい込んでいたルーズリーフを出す。病気みたいに白い紙に、さらさら、かつかつと黒い模様が刻まれていく。初めはぎこちなかったのに、昔からの友人のように、「会話」が続いていく。幸せなのかもだなんて嘘だ。僕は今、最高に幸せだ。空に薄墨が流れ始める。ルーズリーフも、もう何枚目かになった。名残惜しいという言葉の意味が、初めて理解できた。

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