コール・ミー

由利 流星

私とアタシ

その刀を構えた時、私の怪物は目覚める。


「彰子はどう思う?」私はこの手の質問が苦手だ。どちらの自分が答えたらいいか、わからなくなりそうになるから。

水曜日のLHRでの班ごとでの話し合い。これが終われば部活に行ける、という解放感からか、クラスにはどこかふわふわと浮ついた空気が漂っている気がする。

「私もそれがいいと思うよ」それでいい、ではなく、それがいい、の方が印象がいいことは小学生の頃から知っている。

議題は今年の文化祭。五月から秋のことを考えるなんて、と少し驚いた。心の内側で、そんなのどうでもいい、という刺々しい感情が蠢くのは、奥の方に押し込めておく。

私の返答に満足そうに頷いて、じゃあ報告してくるわ、と班長の女の子が席を立って、教卓の前にいるクラス委員のところに行く。ほ、と胸の内で息を吐く(つく)。

中学三年の一年の殆どを勉強に費やし、なんとか県内随一の進学校に入学できた。偏差値七十を超えるトップクラスの人間達の集まりと聞くと、眼鏡を掛けた、一日中問題集を広げている、というような人ばかりかと思っていたが、現実は真逆だった。一日でも勉強を欠かすと何がなんだかわからなくなるような、私みたいな人間は少なく、勉強をしている素振りがなくても小テストが完璧な人が多すぎる。ただそこで話しているだけで輝いている。そんな人達はすぐにグループをつくり、話題を探してやっとの思いで人に話しかけるような人は、すぐに蚊帳の外へと自然に放り出された。

白井(しらい)彰子(しょうこ)のキャラは、物静か、に決まった。

誰かがそう言った訳ではないが、その人の性格というものは、いつの間にか他人の主観によって決まるものだ。こんな私が、放課後にはエレキギターを掻き鳴らして、でっかく口を開けて叫んでいるなんて、神様にだって想像できない。

「彰子ちゃんの班は、何に決まった?」にこ、と音がしそうな顔を振り向け、えっとね、と私は話し始める。

隣の席の子には私から話しかけた。たとえ自分が、本当は快活な方だとしても、おとなしい子と話すのも楽しい。全く新しい世界に来て、春休みに仄かに抱いていたきらきらした理想は、そんなものより遥かに眩い光を放つ人たちの勢いにより吹き飛んだ。この狭い箱の中で、「アタシ」を出すのは危険だ、と草食動物が捕食者の気配を感じるように察知した。毎日家と学校を往復する途中で、どこか心の底に渇きを感じるのには、いつも気付かない振りをすることに決め込んでいる。本当は大好きなものを発信したいと思っていても。この間の校外学習も、近くの席の、クラスでの発言権があまりない四人で何となく過ごして、楽しかった。それでいい。それがいい。それでもう十分だ。それ以上の何を望むというのだろう。私はこうやって静かに人生を終わらせていく。本当の自分とか、そんな醜態は晒さずに、この学校では上手く生きていく。


授業が終わると早々に、私は教室を静かに出ていき、家路につく。電車でだいたい三十分。そこから十五分くらい歩く。その間ずっと私の耳には音が流れている。校門を出たらもう私の世界はアタシだけのものになる。空には薄い雲が広がっていて、日差しは少ない。ワイヤレスのものが流行っているけれど、アタシはいつまでも有線のイヤホンを突っ込む。線が耳から出ている方がプレーヤーと一体化しているみたいで、クールだ。

自分の部屋に着いたらすぐに、何故かいつも重いリュックをどさっ、と投げ捨て、かっちりした窮屈な制服から、Tシャツ、デニム、パーカー、アタシのユニフォームと化した服たちに、アイドル顔負けの早着替えをし、すぐにギグバッグを背負う。お母さんの、八時までには帰ってきてよー、という決まり文句に、はあーい、と大きな声で笑って、玄関を飛び出した。

アタシのステージは、明るく人通りが多い駅前から、少し奥に入ったところにある。高校生が気軽に入ることができるような雰囲気の店ではないが、三百人ほどのキャパで、ロック好きには知名度が高い。何故こんな場所を知っているかというと、お父さんの友達が経営しているから。お父さんの影響でクラシックギターを小学校高学年の頃から始めた。その柔らかな、心に寄り添うような音色が好きだった。

中二の夏、アタシは生まれた。お父さんに連れられ、初めてライブハウスに行った。当時はロックなんて聴こうと思ったこともなく、なんかうるさい人たちの集まりだったら嫌だな、なんてネガティブなことを考えていた。でもそんな下らない思い込みは、あるバンドの一音目で消え去った。

たった一音で、心臓ごと全部持っていかれた。

 そのときの光り輝いていた光景は、いつまでも瞼に焼き付いている。四つ目のバンドだった。二十代前半の四人組。ほかのバンドは汗でびしょびしょになることを見越して、グラフィックTシャツとかを身に着けていたのに対し、

彼らはスーツを着ていた。さっき退社してきた、という雰囲気を纏ったまま。それが草臥れているようには決して見えず、むしろ戦闘服かのように、殺気立っていた。色とりどりのスポットライトに照らされて、光る汗すら演出に見えた。音もひりつくようで、頭のてっぺんから爪先、指先まで、痺れて私はもう思い通りに動かなかった。

 これがアタシだ。アタシの目指す場所だ。胸の高鳴りが止まらなくなった。

 あの日から続く鼓動を強く感じながら、いつものスタジオに入った。今日もアタシが一番乗り。

アタシがボーカル・ギターの『アキラ』。フードを被り、相棒のストラトキャスターを構えれば、周りの空気に埋もれて窒息しそうな『彰子』は、もうそこにはいない。

ギターは日本刀だ。一番の親友で、戦友で、キョウキ(凶器・狂気)、だ。チェーンソーとか機関銃みたいな、いかれたおもちゃなんかじゃなくて、美しく舞い、心に切り込んでいく、刀なのだ。この澄んだ真っ直ぐな音を鳴らす度、本気でそう思う。

ポエミーなことを考えているとメンバーが揃いだした。年齢はそれぞれ一、二歳ずつ違って、アタシが最年少。そんな意味もない数字なんて関係なく、このハコの中で出会った、心の底からロックを愛している四人。最高の仲間だ。

この世界で、ずっと生きていたい。アタシはいつだって、このサウンドを信じて、そう思う。


「白井、こっち来てー」久し振りに男子に名前を呼ばれて、少し反応が遅れた。

ちりとりと小箒を持って声の元へ駆け寄る。ちりとりを差し出すと、さんきゅ、と笑って、埃たちを箒で入れてくれた。放課後の掃除当番。男女六人でやっているが、私以外の女子二人は、きゃあきゃあ喋りながら、掃除している感じ、を生成している。

五月が終わろうとしているのに、クラスメイト全員のフルネームは覚えてられていない。男子なんて名字と顔すら一致しない。そんな私でも、この人だけは必ずわかる。

神野(こうの)涼(りょう)雅(が)。クラスの中心の、軸。彼が言葉を放つだけで、教室の空気が動く。

機械的に十分間を終わらせ、四人は部活に行こうと、さっきまでの掃除からは想像できない速さでリュックを担いで、じゃ、ばいばーい、と形式的にこちらに手を振って、足早に去っていった。残った二人は、私と。

「白井って部活入ってねーの」

うん、と顔はリュックの中を覗いたまま頷く。ふーん、と神野君はそれなりに興味深そうに相槌を打った。それが少し煩わしくて、少しむず痒い。

今日はアタシに出番はない。毎週水曜は、高三でバンドリーダーであるシンさんの、メンバー全員が学生ならば、本分である勉学は疎かにしてはならぬ、という掟に則り、必ずオフになっている。家に真っ直ぐ帰るのに気が乗らないからか、帰る用意に普段よりも時間を掛けてしまった。

「神野君は陸上だよね」彼のリュックには高校の名前と、陸上競技部の文字の刺繍がはっきりと施されている。当たり障りない会話を続けてみようと思った。

「うん」別に好きじゃねーけど、と彼の口から零れた言葉は、彼にはあまりにも似合わない。

 え、と私の唇の端からはみ出た言葉に、彼は、ふ、と笑った。

「嘘嘘。走んのは楽しい」ほっとした私はそれから、いろいろと彼に言葉を掛けた。すごいね。私は速く走れないからほんとにすごい。足が速い人ってかっこいいよね。尊敬する。コピーアンドペーストを繰り返しているような気分になりながら一方的に話していると、彼はそれら全てに、いや、そんな、と笑いながら謙遜する。

「白井は趣味とかあんの」すいすいと流れていた会話が静かに途切れた。

私に好きなものはない。

「いつも真っ先に教室出てってるから、習い事でもしてんのかなーって」

アタシには大好きなものがある。

「何にも、やってないよ」

私とアタシは、二重人格という訳ではない。自分は二つのキャラクターを使い分けているだけだ。ゲームを攻略するみたいに。そうだ、人生という大きな試合を勝ち抜くため。気持ち悪くなんかない。アタシは変じゃない。

「神野君、部活行かないといけないんじゃない?」

胃から迫り上がってくるようなむかつきをぎゅっ、と呑み込んで、私は思い切り笑った。ああ、怒られちまう、と、くしゃ、と音を立てて笑って、彼はぱんぱんに膨れた鞄を背負った。

「じゃあ、私も帰ろーっと」よろけそうになりながら、私もリュックを担いだ。じゃあね、と手を振ろうとしたら。

「白井」

ずっとわざと逸らしていた瞳(め)が、初めて合った。綺麗だ、と瞬間的に思う。

「お前だってすげーよ」いつもの眩しい笑顔じゃなくて、柔らかい笑み。

意味がわからなかった。

「じゃあな」颯々と、彼は走り去っていった。

一度も話したことの無かった日向の真ん中にいる彼と話して、少しの間、呆然としていた。


太陽は、光り輝くものは、辺り一面を明るく照らすだけでなく、紙切れみたいな私を容赦なく焼き尽くしてゆく。真っ白な光は、私には眩しく、熱く、刺すように痛い。彼らは自身に掠り傷一つ付けることなく、私みたいな口のないものを白日の下に晒すのが大得意だ。同じ人間のはずなのに、あの人達と私は何が違うのだろう。こんな卑屈なことを考えていることがいけないのだろうけど。生まれる前からそう定められていたように、彼らはどこでも構わず喧しい声ではしゃぐことが許されるポジションにいて、私にはそこが聖域のように光って見える。私はいつだってこぢんまりと息をしている。いつも怪物を心の奥の檻に閉じ込め、微笑みを浮かべて。自分でも、馬鹿みたいね、と笑いたくなるが、私はこの呼吸法しか知らない。

僻みに似て非なる感情を浮かべては沈めていると、いつの間にか四階分の階段を降りていた。もたもたと靴を履き替え、素早く折り畳みの日傘をリュックから抜き取る。中学の時から差していると、もうこれなしでは外を歩けない。五月の終わりの空はもう夏の色をしている気がする。半袖から伸びる腕が、私のが青白いのとは対照的に、彼のは健康的に焼けていたことを何故か思い出した。体全体が影になるようにして、駅までの道を十五分程歩く。私は心にいつも傘を差しているみたいだ、とふと思った。


私もみんなも、彼のことを何も知らない。そう気付くのにはもう少し時間が掛かる。


「ねえ、見てこれっ」ダンス部の彼女の声は、喧噪の中でも、矢が空を切るように、明瞭に聞こえた。嘘、ほんとに涼君なの、まじマジ、やばっ。運動部の女子たちのいろいろな反応が聞こえてきた。

お弁当を食べ終わってからの休み時間の残りは、だいたい近くの席のそれなりに仲のいい人たちとお喋りを楽しむ。元気な女の子たちはアイスを買って食べたりしているけれど、三年生の教室の近くにある購買まで行く勇気と気力を私は持ち合わせていない。

何だろ、さあ、と私たちはいつもならこんな日常茶飯事のどよめきには興味を示さない。でも彼女達が口にした名前に引かれるように、私は思わず耳を澄ましてしまった。あの日から一週間経ったが、あの日から私と彼は目が合ってすらいない。私の周りもいつもより目を声の方に向けている。私達の輪の中で一番活発な子が、あたし、ちょっと見てくるっ、と立ち上がった。その子はすぐに波の中に呑まれた。残された私達が、気怠く次の授業について話していると、その子は目を輝かせて帰ってきた。

「神野君の裏アカ教えてもらったっ」

「ウラアカ…」その単語はカチカチと尖っていて、ガラスを口に含んだみたい、と思った。ネットに疎い私には、それが何を意味するのか、上手くわからなかったが、教室の中を眼だけでぐるりと見まわして神野君の姿を探した。やっぱりいない。

「神野君てさー、なんか完璧でかっこいいなあって思ってたけど、なんか幻滅―」

 足が速い人って、かっこいい。先週の私は確かにそう言った。

「ねえ、私にも見せて」私、ツイッターとか何もやってないの、と付け加え、半ば強引にその子のスマホを覗き込んだ。

 アニメやゲームのキャラのコスプレ写真が、ずらりと並んでいた。色とりどりの衣装。それぞれに合わせたウィッグ。ミニスカートのものもあった。すらりと伸びる足はモデルさながらだ。男性キャラも女性キャラも、混在している。顔はどれも黒マスクで隠されているが、その瞳が、彼が神野涼雅であることを証明していた。

 かっこいい。今そう思ったのは、私か、アタシか。

 何これ、クオリティ高いね、でも女装はちょっと引くかも。そのアカウントを見つけた周りの人達も口々に批評を下す。かっこいい、とは誰も言わない。

 ちょっとキモイ。

 私に言った訳じゃない。アタシに投げられたんじゃない。なのにその言葉は自分の真ん中を突き刺す。

 アカウント名は「スズ」。アニヲタ男子高校生、と紹介文が続く。

「あたしもアニメ好きだけど、こんなことはしようとも思わんわー」

 こんなこと。彼がやっていたことが、まるで罪深いことのように聞こえた。

 その子の言葉に周りが頷く。ちょっと変だよね、何か嫌、引くわー。

 変。自分だけが普通になれていない。

自分だけが、動けずにいる。ざわざわとした雑音だけが聞こえる。自分の時間だけが、止まっている。

 神野君が仲のいい男子達と大笑いしながら、教室に入ってきた。

 ざわめきが、止まる。

 え、何、と彼は引き攣った顔で笑った。

 

 授業の内容が何も入ってこない。瞼には彼のメイクを施してカメラ奥を睨むように笑った顔だけが繰り返し現われる。

 さっき見つけたんだけど、と気まずそうに切り出し、ダンス部の彼女は神野君にスマホ画面を見せた。クラス中の視線が彼の反応を待ち構えていた。

 少しくらい逡巡した様子を見せると思っていた。でも彼はそんな凡庸な予想を軽々と飛び越えていった。

 あー、それ、俺のサブアカなんだよー。俺のねーちゃんがコス好きでさー、コミケとかんときにやらされんだよー。まじうざい。

 いつも通りの光を零すような笑顔で、そう言った。

 なんだー、そうなんだー、大変だねー、ねーちゃんスゲーな。さっきまでの張り詰めた空気は初めからなかったように、また喧しい教室が戻ってきた。

 まじ大変なんだよー、誰か一緒にやってくれよー、なんてふざけながら彼は自分の席に向かった。その僅かな間に、彼と目が合った、気がした。

 こうして昼休みは何事もなかったように終わった。きっともう、誰も今日のことを今後思い出すことはない。気にしているのは多分自分だけだ。次の授業までの間に、ツイッターのアカウントを密かに作った私だけ。

 

さっきまで日が眩しかったはずなのに、空には重たそうな鈍色の雲が隙間なく敷き詰められていた。何となくだるくて、一人になりたい気分。いつもみんなが使う階段を避けて、違う方に向かった。今日は上手くギターと向かい合えそうにない。バンドのグループラインに、休むかも、と送っておいた。だからといって、他にやることは何も見つからない。

あ、と声が漏れてしまった。廊下で窓の外を眺めていた彼がこちらを見た。私は彼の顔も見ない。掛ける言葉も見つからないから、何も言わずに横を通り過ぎようと思った。

「白井」その声が、少し震えていた。

「…何」微笑みをつくってゆっくりと振り返ってみると、彼の頬が濡れていることに気付いた。あ、と思う。失礼だとはわかっていた。でも、綺麗だった。

「…引いた?」主語が無くたってその意味はわかる。

「キモかったよな」いつもと違う渇いた笑いが、誰もいない廊下によく通る。

「ずっと隠してたのに、バレちまった」馬鹿だよな、とまた笑う。

「あれ、別にねーちゃんにやらされてる訳じゃなくて、俺の趣味だよ」今度は少しも笑わずに言う。

「余計キモいよな」はは、と、また笑った。窓の外に顔を向ける。

 彼の自虐を聞く度、自分の中で何か嫌なものが膨らんでいく。

今日は部活ないの、と関係のないことを訊いてみた。こちらを見て少し驚いた顔をしてから、ないよ、と言い、また窓枠に腕を乗せ、外を眺めた。廊下の隅に置かれている彼の鞄の隣に、どすん、と私はリュックを置き、彼のいる隣の窓をがらりと開け、彼と同じように窓枠に体を預けた。ここからは街の全体がよく見える。

「白井は暇なの」うん、とすぐに答える。今日は暇、ということに決める。

「…俺さ、中二のときにめちゃくちゃ好きなアニメに出逢ったの」中二。アタシが生まれた年。

「テレビとかで芸能人見てさ、この人みたいになりたいって言う人はよくいるじゃん」彼の静かな漣のような独白に耳を澄ます。

「あれと同じ感覚に陥った。魔法使いの話だったんだけどさ、それに途中から出てくるめちゃくちゃ美人で強くてかっこいいキャラに、なりてえな、って思った。こんな彼女が欲しいとかじゃなくて、この子みたいになりたいって、衝動に駆られた。そっからいろんなキャラになりきるのに、どんどんはまっていった」変だよな、と彼は下を向く。その眼は何を見ているのだろう。

 なりたい。何よりも強くて堅い、真っ直ぐな感情。

 彰子ちゃんはそういう人がタイプなんだ。あの子の声がきこえる。

 私は知っている。彼と同じ、その感覚を、確かに覚えている。

 一度だけ、大好きなあのバンドの話を他人(ひと)にしたことがある。中学のときの親友。この人ならこの感覚をわかってくれるんじゃないか、と淡い希望を持った。あのバンドのかっこよさを必死に語った。彼女は興味深そうに相槌を打ちながら最後まで聞いてくれた。一通り話し終わってから彼女が口にしたのは、その言葉だった。タイプ。確かに、私が大好きなバンドのメンバーは全員男性だ。でも私はあの塩顔のボーカルの人の恋人になりたいと思ったことはない。恋に似た強い憧れ。でもそんな彼氏が欲しいとは思わない。私はあんなかっこいい人になりたいと思っただけだ。そんなことを説明しても無駄だということはすぐにわかった。言ったところで、彰子ちゃんは男子になりたいのか、みたいな、どんどん糸が絡まっていくような、誤解が重なっていくだけだ。

「アタシ、わかるよ」彼がこっちを向いた気がするけど、構わず遠くにある山々を見つめ続けた。緑が力強く生きている。

「理解してもらえない趣味を持つって、かなりリスキーだよね」彼ならわかってくれる。今はそう強く信じられた。

「この間、神野君に、何もやってないなんて言ったけど、あれ、嘘」目を閉じて、深く息を吸う。

「アタシ、ロックが好きなの。それも結構激しいやつ。それで家の最寄り駅近くのライブハウスで、バンドしてんの。普段の私からは想像もできないと思うけど、担当はボーカル・ギター」また息を吸う。

「じゃあ、何で軽音とか入んないの、とか思われると思うけど、昔、気持ち悪いって言われたこと、あるんだよね」胸の奥がじん、とする。あのとき、あの男子に言われたときの痛みはまだ癒えていなかったことに、今更気付く。

「ライブハウスなんて絶対に同級生が来るわけないって、高括ってた。でも中三のとき、一回だけクラスの男子に出会ったの。今と同じ(おんなじ)ように、学校ではおとなしくしてたからさ、帰り際にそいつに声掛けられて、お前、クラスんときと違いすぎ、キモいな、って」さっきの彼を真似て、はは、と笑ってみる。

「そのとき初めて気付いたんだよね。自分って他人と違うんだ、変なんだって。でも」それでも。誰に何と言われようとも。

「自分はロックをやめられない。何度も私は『アタシ』を切り捨てようとした。でも心根は変わらない。変えられない。どうしようもなく、自分はロックが好き。だって、好きなんだから」ずっとずっと押し込んでいた感情と言葉と、が溢れてきた。

 沈黙が訪れる。会話が途切れることを、いつも私は恐れていたのに、不思議と苦しくない。

「やっぱ、すげーよ、白井は」「それ、どういう意味」目を細めるようにして、彼を睨んでみる。

「いや、なんかさ、すげーよ」「何が」彼がにやにやとしていたから、くすり、と笑ってしまった。

「いつも笑ってるとことかさ」「それは神野君の方が上手(うわて)でしょ」「んなことねーよ」また笑いが込み上げてくる。今度は彼も私も同じように、声を上げて笑えた。

「俺さ、昼休みに教室入った瞬間に、やばいな、とは思った。でもなんか、全く驚かなかった」「そう見えた」

「アカウント作ったときからずっと思ってたんだよな。いつか、バレますようにって」

 彼は目を閉じて、微笑んでいた。それから、可笑しいよな、と彼は苦笑する。

「俺、幼稚園の遠足で遊園地行ったときから、着ぐるみ着てる人のこと、尊敬してんの」「随分とませた幼稚園児だったんだね」「だな」ずっと昔からそうしてきたみたいに、私と彼は笑っていた。

「何でかっていうとさ、あの方々は夏のクソ暑いときでも投げ出さずに自分の仕事を遂行してるじゃん」「そうだね」方々、という言い方に、吹き出してしまった。

「多分、俺、学校では、人気者っていう着ぐるみを着てるんだと思う」音がなくなる。何も聞こえなくなる。

初めて見る真面目な顔を、私はじっと見てしまった。

「たまに、というか、結構な頻度で脱ぎ捨てたくなるんだけど。暑苦しいから脱ごうって、いつも思うけど、一度脱いだらもう、生きていけない気がするんだよな」

生きていけない、という言葉が、ひどく重く感じた。

「それでツイッター始めて、そこで息をして、なんとかここまで来た。でもいつも想像する。こんな気持ち悪い自分がバレちまえば、どれだけ息がしやすくなるだろう、って」共感、という言葉が、自分は嫌いだ。その人の感じたものは、その人にしか鮮やかにはわからない。でも、彼と自分は似ていたんだ、と思った。

「隠したいけど、見つけてほしい。ずっとそう思っていた。でもいざ見つかると、変な言い訳しちまったけど」

 見つけてほしい。彼の言葉が、すっ、と胸に溶け込んだ。

 誰か、アタシを見つけて。アタシを呼んで。

 心の底、から、ずっとそう願っていた。

 彼の言葉で、初めて気付いた。

「てか、ライン追加していい?」「何で急に」世界に新しい色を見つけた私は、彼の言葉に拍子抜けした。

「いいじゃん。『同盟』の証、みたいな」「何それ」

 同盟。それに名前を付けるとしたら、どんなのだろう。

「俺、白井がバンドやってる姿、見えるよ」窓から体を離して、彼は言った。私も釣られて体を離す。

「想像できる。ギター掻き鳴らして、大声出してる白井。めちゃくちゃかっけーの。キモくなんかないんだよ、白井」彼の眼が真っ直ぐ私の奥の、アタシを見ていた、気がした。少し怖くて、どこか恥ずかしい。

さっき泣いたから、涙腺が弱くなっているだけだ。かっこいい、と初めて言われて、泣きそうになっている、なんかじゃない。そう自分に言い聞かせないと、立っていられない気がした。

「俺なんかには真似できねーよ」彼は俯く。

「かっこいいよ」反射的に声が出た。どうしても、目の前の彼に伝えたかった。

「あの写真見て、一つも気持ち悪いなんて、思わなかった。かっこいい、しか思えなかった。好き、を信じて、貫いている姿が」足が速い彼よりも、誰とでもすぐに仲良くなれる彼よりも。

少し間、彼の口は動かなかった。

「…ありがとう」唇を震わせながら、彼は言った。彼の眼が、光っていた。

 それを見て、やっと気付いた。彼だって、いつも怯えていたのだ。誰からも見放されるような趣味を持つことを。それでも好きを諦められないことを。彼だって、一人の弱い人間なのだ。

 ふ、と私の中で、言葉が浮かび上がった。

 君がいるから私がいる その反対も叶うといいな 

 あまりにも稚拙で、単純すぎる言葉。でも私は知っている。口にすると体温が上がってしまうようなこの言葉達も、音に乗せれば、最高にかっこいい歌になるということを。ロックは雑音なんかじゃない。人の心を揺さぶるためにあるんだ。きっと君なら気付いてくれる。

 詞なんて書いたことも考えたこともない。うちのバンドはカバーしかしたことがない。でも、できる、そう思えた。曲は、『音学』が得意な、マキさんとなら作れそうだ。

「今度の日曜、ライブやるの。来てくれるかな」

 今までずっと、自分のために音楽をしてきた。自分が楽しむためだけに。でも今は。

 君のために歌う。君が好きなことを好きでい続けられるように。君が君を辞めずにいられるように。たった一つの願いを込めて。

 間抜けなおもちゃみたいなメロディが鳴った。

「ごめん、母さんだ」慌てて彼がスマホを取る。

「私、帰るよ」リュックを取って背負う。

「白井」

ぜったい、いく。

スマホを耳に当てながら、彼の口は、確かにそう動いた。

それに一番の笑顔を見せてから、じゃあね、と口を動かして、階段の方に向かった。


階段を一階分降りてから、へたりと隅に座り込む。魂が抜けたみたいに、全身の力がごっそりと抜けた。

見えるよ。

彼の声がまだ耳に残っている。

ありがとう。アタシを見つけてくれて。

そう思うとまた視界が滲んだ。



昇降口から一歩踏み出して、微かに雨が降っていることに気付いた。さあさあと降る小雨は、アスファルトの色を変えている。校則には、校舎内ではスマホの電源は切るように、と明記されているが、そんなことを気にしているのは私ぐらいだろう。電源ボタンを長押しし、リンゴ印が現れるのを待つ。

濡れる青葉に目をやり、移ろう季節に思いを巡らす。これから一ヶ月は雨降りが続く。と思いきや、すぐに暑い夏がきて、気付けば涼しい風吹く秋になっていて、永遠に続くのではないかと思わせる厳寒の冬。しかしまた、希望と不安が芽吹く春が始まる。世界はいつも、いつまでも流転し、私達はその渦の中で流浪する。

私は強くない。だから彼みたいに己を世界に開くなんてできない。

アタシは強くない。いつも最高のかっこいいを追い求めているけれど、どこかでそれを恥じている。だからこんな弱い私に押し込められている。

アタシは自分の大事な一部なんだ。私がそれを認めないといけない。周りの目を気にして、にこにこ笑うことしかできない私も自分。好きなことしかできないアタシも自分。両方を切り離して、どちらかを無くすなんてできない。どちらの自分もいるから自分が存在していられる。

手の中のスマホが震えた。再起動して、ラインを受信したようだ。画面に「リョウガ」の文字が見えた。同盟、という言葉を思い出し、心が僅かに揺れた。

地面を叩く音が少し強くなった。土の匂いが立つ。

大丈夫。心の中でそう呟いて、鼻から深く息を吸ってみる。雨の匂いが体いっぱいに入ってくる。


雨傘を開いて、私は歩き出した

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コール・ミー 由利 流星 @sooseki

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