第20話 内緒

翌朝 6:30

香魚子は見慣れない室内風景の中、着慣れない服で床に座って、いつものようにタブレットにペンを走らせていた。

(明石さんの部屋って、“明石さんの部屋です”って感じ。)

ペンを止めて見回すと、明石の部屋は紺を基調としたモノトーンで揃えられていた。

香魚子が着ている明石のTシャツからは、昨夜抱きしめられた時にほのかに感じたのと同じ洗剤の香りがして、香魚子のむねをくすぐった。

「紺色…黄色と相性良いよね…」

そう呟くと、香魚子はまたペンを走らせた。

香魚子が今デザインしているのは、明石のリクエストしたものだった。



明石の家にむかうタクシーの中

後部座席で明石はずっと香魚子の手を握っていた。

気恥ずかしさからかお互いなかなか言葉が出なかったが、窓の外を見ていた明石が口を開いた。

「そういえば…」

「…はい」

「川井さんが、“福士さんにミルフルールのスミレバージョン描いてもらいました”って自慢してきたんだけど。」

「あ、はい。この前一緒に休憩したときに…」

「ふーん…」

どことなくテンションが低い口調だ。

「それって俺は見れるの?」

「え…あの、ラフは川井さんにあげちゃったので…。川井さんに貸してってお願いしましょうか…?それとももう一度描きましょうか?」

「いや、いい。ただ、川井さんばっかりズルいなって思って。」

「え…」

「俺もデザイン欲しい。」

「えっ…いままでたくさん送ってるじゃないですか…」

「そうじゃなくて、ミモザの…自分の名前のやつ。」

明石が香魚子の方を見て、不機嫌な子どものように言った。

———ふ…

香魚子は思わず笑ってしまった。

「いいですよ。今度描きますね。」

———ふふっ

「笑いすぎ。」

「だって…」



———ふふっ

(かわいかったな…)

香魚子はタクシーでのやり取りを思い出し、笑ってしまった。

「何笑ってんの?」

香魚子が背もたれにしていたベッドの上からあくび混じりの声がして、香魚子の心臓が大きく跳ねる。

「おはよう。早いね。」

「オハヨウコザイマス」

香魚子は目が泳いだぎこちない笑みで答えた。

「そんな緊張されたらこっちが照れるよ。普通にして。」

明石は困ったように笑った。

(無理無理無理…)

「……もしかして起こしちゃいましたか…?」

「いや、いつもこんなもん。」

そう言うと、明石は振り向いた香魚子の左頬に右手を当てて、そのまま唇を親指でなぞった。

身体からだ、大丈夫?」

じっと見つめられたまま質問され、瞳を逸らせなくなった香魚子の心音は、明石に聞こえそうなほど大きくなった。

「大丈夫…です…」

明石は優しく微笑みかけた。

「コーヒーでもれようか?」

「お願いシマス…」

香魚子は真っ赤になってタブレットを見た。

「それ何描いてんの?」

キッチンに行った明石が、コーヒーの用意をしながら聞いた。

「あ、これは…」

そこまで言って香魚子は言葉を止めた。

「ん?」

「あー…えっと、ナイショ!です!」

「何それ。気になる。」

———えへへ…

(完成するまで内緒にしよ…。)

コーヒーを持って戻ってきた明石が香魚子のタブレットを覗こうとした。

「わぁ!ダメ!」

「見たい。」

「完成してから見せます…。」

「でもそれミモザでしょ?」

「内緒です!」


その日は明石の家で映画を観たり、じゃれあったり、ランチのついでに散歩に出たりして過ごした。

「今日も泊まれば?」

明石の提案に、香魚子は頬を赤らめて無言で首をぶんぶん振った。

「…帰りたくなくなっちゃうので。」

「なくなっちゃえばよくない?」

(……う…だめだめだめ!)

香魚子はまた首を振った。

「頑なだね。じゃあ夕飯食べに行こ。家まで送るよ。」

夕飯は香魚子の住んでいる街で食べた。街に行くまでも夕飯を食べてからも、歩いている間はずっと手をつないでいた。

「明石さん、あの…」

あまね昨夜ゆうべあんなに呼んだのにまだ慣れない?」

周はいたずらっぽく笑った。香魚子はまた頬を赤らめた。

「あまね…さん…あの…」

「ん?」

「会社ではどうしたら良いですか…?」

「それね。考えたけど…隠した方が良さそうだね。香魚子が揉めずにスムーズに辞められるようにしたいし、俺も今は色々詮索されると厄介だから。」

「はい。あ、私の家うち、ここです。」

二人は香魚子の住むマンションの前に立った。

「まぁ別に無理して隠す気もないから、土日とか会えるときは会おう。」

周の言葉に香魚子はうなずいた。

———フワッ

周が香魚子を包むように抱きしめた。

「香魚子に言っておかなきゃいけないことがある。」

「ナンデショウカ…」

「俺はこれから本格的に起業の準備しなきゃいけないし—起業してからも—しばらく忙しくてあんまり構えなくなると思う。しばらくは金銭的にも余裕が無くなること考えてるから、あんまり良い思いとかさせてやれないかも…」

周がそこまで言うと、香魚子は周の背中に回していた腕にギュッと力を込めた。

「そういうの、いらないです。」

「………」

「私、周さんの言葉にすごく助けられました。だから…これから大変なときとか苦しいときに、今度は私が助けたいです。」

香魚子が言うと、周も腕に力を込めてギュッと抱きしめた。

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