第17話 スミレ

『福士さんにその会社に入って欲しいんだ。デザイナーとして。』

『福士さんが本当にやりたいデザインができる会社にする。』


家に帰ってからも、眠たいはずの香魚子はなかなか寝つけなかった。

(明石さんがピーコックを辞めて、柏木さんと会社を作る…それはすごく素敵。すごく楽しみ。…だけど、その会社のデザイナーが私?本当に…?)

(あ、タクシー代返さなきゃ…)

(鷲見チーフ、営業部長と付き合ってたんだ…)

(2週間…)

回らない頭では情報を整理するのが難しい。


(どちらにしろ、会社ピーコックは辞めよう。)

明石が水を買いに行っている間、香魚子は医務室の天井を見ながら会社を辞めることを決めていた。

自分の将来が見えない会社にいても意味がない。どんどん蝕まれていく心にも耐えられない。そう思っていたところに、目白と鷲見の関係がトドメをさした。


明石に与えられた2週間の猶予期間中、香魚子はプライベートのデザインをやめることにした。

会社には通常通り出勤し、仕事も普段通りこなした。

あらためて見ると、鷲見のデザインのクオリティは決して高くない。もちろん商品として店に並んでいてもおかしくないレベルだが、他社の商品に比べてトレンドを掴めていないし、やはり色合いに整合性がない。これではいずれ会社として行き詰まるのが目に見えている。しかし、鷲見にも目白にもそれは見えていない—あるいは、見ないようにしている。

レターセットのコンペで香魚子に同じような内容の厳しい質問が集中したのも、目白が営業部の社員に指示したのだろうと今ならわかる。

こんな会社に対してあれこれ思い悩んでいたことは明石の言う通り時間が勿体なかった。

辞めると決めて会社を見渡すといろいろなことがクリアに見えてくる。


「福士さん。」

休憩スペースで香魚子に声をかけてきたのは川井だった。

「おつかれさまです。」

「おつかれさまです。川井さんも休憩?」

「はい、ちょっと資料見てたら息が詰まっちゃって。良かったら、ご一緒しませんか?」

川井が香魚子をテーブルに誘った。

「私、福士さんとお話ししてみたかったんです。」

「私と?どうして?」

香魚子は会社では地味なデザイナーだということを自分でも理解している。

「明石さんが、いつも福士さんの話をしてるんです。」

「明石さんが?」

「“すごいデザイナーだよ” “デザイナー目指すなら福士さんのデザインいっぱい見た方がいいよ”って。」

人伝ひとづてに聞くと、明石が自分を買ってくれていると実感する。

「そう言ってもらえるのは嬉しいけど、見せられるほどの実績なんてないの…。」

香魚子は申し訳なさそうに言った。

「あ、えっとミルフルール!」

「え?」

「明石さんにプレゼン資料見せていただきました。私あれ、すっごく好きです!色がすっごくきれいで、お花なんだけどストーリーを感じるっていうか…友達に手紙書くのにも使いたいですが…親とか先生とか、少しあらたまった…えっとそうだな…社会人になったので、大人として手紙を書きたい時にも使えそうで。私だったら満点で一票入れてました!」

川井が少し早口に言ったのを見て、香魚子の表情かおほころんだ。

「ごめんなさい私、普段は愛想無いとか言われるんですけど、かわいい物とか好きなものの話になるとテンションが上がってしまって…」

謝る川井に香魚子は首を横に振った。

「ううん、すっごく嬉しい!私の思ってたこと以上に汲み取ってくれて。ありがとう。」

川井は少し照れくさそうな表情かおをした。

「川井さん、下の名前はすみれだったよね。」

そう言って香魚子は手帳とペンを取り出し、サラサラとラフスケッチを始めた。

川井は目を輝かせながらその様子を見ていた。

「私、スミレの花もすごく好き。ムラサキもいいけど、白とか黄色が入るともっと素敵な気がするの。今カラーペンがなくて残念だけど…こんな感じかな。」

「すっごーい!ミルフルールの新作!スミレだー!」

川井が子どものように無邪気に喜ぶので、香魚子も凍っていた心が解きほぐされていくような気持ちになった。

(この感覚…久しぶりかも。)


(喜んでくれる顔が見たいって思いながらデザインするのも、誰かが喜んでくれるのも…こんなに胸が熱くなるんだ。)

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